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見えない湖 10


 川の水面は太陽に注がれた光で揺れていたが、雲が出てきたことによって光を失った。曇りになってきたと同時に不安も溢れてくる。僕は、川で釣りをしている。あの生物は本当にいたのだろうか?あの生物は僕にしか見えないんじゃないだろうか?そもそもあの湖があるのだろうか?不安は体を寝食していく。しかし、もう一度見るまでには何を考えても無駄だと思った。釣竿をしまい、山に向かって足を進める。
 この前と同じ道を歩いているのに、気候が違うため、全く違う風景に見える。山の奥も暗く、見えづらくなっていた。
あの湖に行くのは二回目だった。湖を見つけた時から、二週間ぐらいが経ってしまっていた。川沿いに進んでいくと、見覚えのある場所を見つける。ごつごつとした石が地面から顔を出している。中には表面が一面藻に覆われている岩もある。この場所を左に曲がったら、湖はあるはずだ。左を向く。しかし、湖があるようには思えなかった。しかし、この前も進んでみて初めて湖を見つけることができた。足を暗闇の方に向ける。
 葉の擦れ合う音が僕を先に行くなと言っているように聞こえる。地面に生えている草木も、緑の色を失った様に茶色に変化しているように感じる。枯葉を踏む足も気持ちよさを失っている。しかし、僕には進むという選択肢しか残っていなかった。
 進んでも、進んでも湖は見つからなかった。ふと周りを見渡すと、四方全てが森だった。山の中で一人の気分になった。このままこの山の中で死んでいくのだろうか。誰にも見つけられることなく死んでいくのだろう。しかし、まだ死にたくないとも思った。戻れないという不安の方が、物体を見つける好奇心に勝ってしまった。
水滴を額に感じる。雨が降ってきた。足を来た方向に戻し、まっすぐ戻る。心臓が高鳴っている。不安と興奮が一気に押寄せた。立ち止まって深呼吸をする。自然の営みを吸い込み、不調和を調和に戻す。
 無事、川に戻ることができた。雨脚も少し強くなってきている。傾斜になった山道を川に沿って降りていく。川を見つけた安堵と川の心地よい音楽でさっきまであった緊張がほぐれていく。しかし、気が緩んだのか足を滑らせてしまう。尻の方から地面につき、そのまま滑って行ってしまう。こけてしまったみじめさと、ただ夢見ていただけの自分を恥じてみじめに思えた。手には冷たく黒い土がこびりついている。そのまま倒れこんで空を見上げる。パラパラと雨が迫ってきている。草木や土の柔らかい香りが鼻を通り抜ける。両手を広げて大の字になった。僕は、この山に一部になったら幸せなのだろうか。一部になることが、山に帰るということなのだろうか。
 目にも雨が入ってきて、目を開けられなくなる。背中では、水がしみ込んできていることを感じた。体も寒くなってきている。重たい体を持ち上げ、また歩き出した。後先のことは考えることなく、ただ帰るという選択肢を選び、帰路についた。
「今日はどこに行ってたんだい?」ダンさんが笑顔で言う。「すごい濡れてるね」
「今日は山に行って来ました」
「雨なのに山に行くのはいいことだ」ダンさんは、コートのボタンを縫いながら言った。「風呂に入ってくるといい。もうすぐ湧くよ」
「ありがとうございます」
「今日は、偉く堅苦しいね。もう家族同然だっていうのに」
「そうでしょうか」
 風呂に向かう。ここの風呂は当然のように、電気でもガスでもない。薪を燃やし、その火で水を沸かすという昔ながらの風呂だ。風呂の中に入ると、ガンガンに暖められたお湯が空中に散布しているように、湯気が立っている。足をつけてみると、とてつもなく熱かった。蛇口をひねり、張ってあるお湯を棒でかき混ぜる。水を入れ、冷ましている間に体をくまなく洗う。
 いい温度になったお湯に浸かる。体の先の毛細血管が弛緩し、花が開くように全身に血がいきわたるのを感じた。体の芯まで冷えていたことを知る。なぜ今日はこんなにも冷えたのか、と一日を振り返る。
 もう一度あの湖を探してみたい。今日は左に曲がる場所を間違えていたから行けなかったんだ、と自分に言い聞かせる。しかし、湖を見つけることができなかった場合、絶望感に浸ることは間違いない。それを考えると、もう行きたくないとも思う。そんな葛藤をひたすら行っている。体の芯から温まっていることを感じる。目を閉じると、ヒノキのいい匂いがする。自然の中で生まれたままの姿でいることは、僕に「生命」という言葉を感じさせてくれた。
「ちょっと熱かったかい?」ダンさんは体育座りで僕に聞く。囲炉裏の側で暖まっている。
「いえ、いつものようにいい湯でした」
「それは良かった。いい湯と感じ人に伝えられるのは、人間の特権なのかもしれないね」
 確かにそうだった。自分の入りたい温度で、温まり、気持ちよくなれるのでさえ人間の特権なのに、それを共有できるのは人間にしかできない。嬉しい気持ちになった。
 だが、すっと我に戻る。この気持ちの良い流れで、あの湖の物体について言いたいと思った。しかし、大の大人がそんなことを言って信じてくれるのだろうか。それが不安で言い出せなくなっていた。だが、先延ばしにするとさらに言えなくなるとも知っていた。
「あの、ダンさん」
「どうしたんだい。そんな体の中に変な虫が沸いたような顔して」
「ダンさんは見えるべきものじゃないものが見えてしまったらどうしますか?」僕は少し濁らせて聞いた。
「僕だったらまず、しっかり考えるね。なぜそれが見えたのか。なんでそこにあったのか。それでもう一度この目で確かめに行く。それがどうかしたのかい?」
「いえなんでもないです」
「もしかして、森で何かを見かけたんだね。気にせず言ってみな」
 僕は川で魚を探していて森に行くと、湖があったこと。その湖には大きな魚のような物体がいたこと。もう一度見に行った時にはもう湖すらなかったこと。包み隠さず言った。小人を見たことも言った。こいつは気が狂ったのかと、思われる覚悟で話した。
「君はなぜそれを言い出せなかったと思う?」
「気が狂ったとか思われるんじゃないかなと思って。それに、子どもならまだしも、こんな大の大人が空想を見るなんてことはおかしいと思って」
「誰が大人が空想を見てはいけないなんて言ったんだい?」
「多くの人が言うと思います。それはただの空想で、お前は気が狂ってるって」
「それこそ空想だよ。空想を見ないと世の中の物語は消えてしまう。それに空想を見られるってロマンがあって素晴らしいくないか。現実ばかり見てると、大人でも死んじゃうんだよ」
「死ぬんですか?」
「ああ、死ぬね。現実に押しつぶされることは『死』だと僕は思ってる。なぜなら、自分を『死』に追いやっているからね」
「じゃあ現実を見ない方がいいんですか?」
「そういうことでもない。現実はドッジボールみたいなもんだよ。逃げるか、受け止めるか、はたまた人に投げつけるか」
「僕はどれを選択すべきなんでしょうか?」
「僕にも分からない。今は、風呂に入って温かいお湯に受け止めてもらいたい。僕もこうやって現実から逃げてるからね」
 ダンさんは、タンスからタオルを取り出して僕の方を見た。にこりと笑って、「沸かしてくれてありがとう」と言って、鼻歌を歌いながら風呂に向かう。
「あ、僕はその生物も小人もいると思うな」と、ダンさんは付け加えた。ダンさんの後ろ姿に、楽しく生きてるんだろうな、と勝手に思った。それとともに、ダンさんについて何も知らない自分がいることに、一種の恐怖を覚えた。
 結局、あの生物を見つけるための解決にはならなかった。それに加えて、新しい謎が登場してしまった。ダンさんを待っている間、正座だった足をお腹に持ってきて丸まった。
 窓を見ると、ヤモリが虫を咀嚼していた。ヤモリは喉を大きく揺らしながら、小さな蛾をお腹の中に通せるようにぐるぐる回している。その光景をずっと眺める。『生』が『死』になり、『生』につながれている瞬間だった。蛾に対して一概に、かわいそうとは思えなかった。ヤモリは体を交互させ、ご飯を満足に終えた貴族のように、音楽に乗るように去っていった。悲観と楽観が混じった寂しい夜だった。
 僕は、またあの生物の正体について考え始める。存在するか存在しないか分からないあの生物について。


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