見えない湖　２5【最終回】

　目を覚ます。体が熱を帯びたように熱い。上半身は布団からはみ出している。布団は、半分が床に落ちている。遮光カーテンの隙間からは金色の朝日が差し込んでいる。しかし、カーテンを開けようとは思わなかった。
　部屋を見渡した。テレビ、漫画でぎっしり詰まった本棚、本が積み上げられた勉強机、ゲーム機が乗っている机、ベッド、必要なものが入っている棚、ものが溢れ出しそうなゴミ箱がある。ここから出ることが滅多にないため、部屋の掃除は欠かさないようにしている。コロコロで頻繁に小さなゴミは絡めとっている。
　久しぶりに部屋を見て思う。帰ってきた。いや、帰ってきたというより、きてしまったというべきか。最近まで見ていた姿とは全く違う。木造でもなければ、畳もない。電化製品もたくさんある。ものに溢れている。だが、心は寂しい気分だ。テレビを見たい気分にならない。
　時計を確認すると午前十一時半。部屋の扉を少し開け、廊下を確認してみた。だが、そこにはご飯が置いていなかった。いつもならあるはずのものがない。扉を閉めて考える。仕事に行ったのだろうか。いや、最近はパートも辞めて家にいるはずだ。床に耳を当てて、一階の音を聞いてみる。話し声も足音すらもない。テレビがついていることもなければ、人がいる気配すらない。こんなことは今まであっただろうか。音がしなくても、ご飯は置いてあることがある。とりあえず、少し待ってみようと思った。
　ベッドに倒れて天井を眺める。真っ白な天井にあるのは、丸く白い蛍光灯だけだった。平行線の描かれた、木の天井は見当たらない。夢だったのか、夢じゃないのかも分からない。だが、僕は確かにそこにいた。確認のしようがないし、証拠を出してこれる訳でもない。僕の頭には残っているようだ。
　味噌汁の香ばしい匂い、木をくべる時に出る煙、野焼きした煙の匂い、物々交換して生活する日々、芸術島や楽園、ヤシロさん、キンちゃん、ダンさんの顔、一緒に住んでいた男の声、人間の温かさ、大きな魚、鳥、小人。思い出そうとしても、時計の針が進んでいくうちに消えていく。僕は今、どこに存在しているのだろうか。どこの空気を吸って生活しているのだろうか。夢がまだ覚めていないのだろうか。
　午後一時。もう一度、扉を開けて廊下を確認してみた。そこは、ただの木の板が規則的に並んでいるだけだった。自分の不規則さが痛いように分かる。
「おい、ババア！まだかよ！こっちは腹減ってんねん！」
　自然に声が出ていた。いつもより大きな声で叫んだ。しかし、なんの応答もない。お腹が空いてきた。部屋の中を見渡してみたが、お菓子も一つも備えていない。溜めておけばよかったと今更後悔する。空腹を紛らわすために、ゲームをしようと思った。電源を付け、起動する。機械音と共に、熱風を吐き出す音がする。画面に集中しようと思ったが、空腹のせいで何も頭にはいってこない。展開も全く進められない。イライラしてコントローラーを壁に投げつけた。
　上半身を持ち上げる。体を見てみると、お腹のふくらみが丘のように見えた。その丘には美しさはなく、あるのは醜さと悔しさだけだった。お腹とは裏腹に、腕や足は痩せ細っていた。
　午後五時。僕はついに部屋を出た。部屋を出ると、すぐに階段がある。依然として人の気配も音もなかった。階段を降りて左手にあるリビングの扉を開ける。リビングには何もなかった。大型の液晶テレビ、机、写真が飾ってある棚、黒色のソファなど、いつもと変わらない。いつもと同じなのに、なぜかとても久しぶりのような気がした。だが、日が落ちかけているのにも関わらず、部屋の電気はついていなかった。空き家に迷い込んだ猫の気分だった。
　左手にある台所を眺める。台所からは卵を焼いたような香りが少し残っている。キッチンにはフライパンやボウルがあった。料理がされたような跡があった。しかし、そこには人の気配がない。僕は、恐る恐る近づいていく。
　そこには、女が倒れていた。いかにも不格好に、両手を前に突き出してうつ伏せになった女の姿があった。これは母だろうか。いやただの女だろうか。その姿は、山の中に横たわっている大きな木のようだった。葉はなく、幹の部分だけ土に返っていない倒木。息の音も温かみもないようだった。その倒木のような女に恐る恐る近づき、しゃがみ込む。女の腕に手を当ててみた。人間とは思えないぐらい冷たく、硬かった。僕はすぐにわかった。これは遺体なのだと。しかし、僕は次に何をしたらいいのかが分からない。死んでいるから、救急車を呼ぶ必要があるのだろうか。なぜか冷静だった。お腹が空いていることを思い出す。
　僕は立ち上がって玄関に向かった。体は動いているのか、動かされているのか分からない。
　そうだ、コンビニに行こう。と、僕は思った。

了