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見えない湖 7


 ダンさんの人間的な部分、特に色恋沙汰については聞いたことがない。いつも冷静で、何か奥の方まで見通しているダンさんの恋については想像できない。奥さんがいるのか、いたのか、彼女がいるのかも分からない。恋愛とはかけ離れているように感じていた。ダンさんのこの疑惑を確かめることもなく、時は過ぎて行った。
 この村には、僕とは接点はないが、綺麗(綺麗という概念については、僕が思う範囲なのだが)な女性を幾人か見たことがある。こんな田舎なのに、と思う時が何回かある。
 僕が住んでいる家にはインターホンがない。だから、引き戸を手で何度も叩かれない限り、鍵が開けられない。今日も、引き戸が壊れるぐらいの大きな音で叩く人がいた。僕は急いで玄関に向かう。回転式の鍵を開け、引き戸を開ける。そこには、この村にいる限り浮いてしまう女が立っている。身長は百七十センチほどで、緑と青のグラデーションのワンピースを身に纏っている。西洋の絵画の裸婦像にいそうな妖艶な顔つきと体つきをしている。その女は、僕が戸を開けるなり、玄関に上がり込んできた。入ってくるなり、勝手に冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出した。コップを取ることなく、紙パックごと飲み始めた。僕は呆然とするしかなかった。やめてください、とも言えなかった。
 女は口から白濁色の液体を首元に垂らしながら、喉を鳴らす。ゴクゴクと快活な音が台所に響いた。飲み終えると、紙パックをシンクに投げつけた。白い液体があたりに飛び散る。
「あいつは?」女は僕を睨みながら言った。しかし、しわがれた声が、口のそばで落ちたので聞き取れなかった。僕は、目を見開いて顔を前に出す。
「だから、あいつは?」さらに苛立った顔で僕を見る。
「ダンさんのことですか?」
「ダンさんかドンさんか知らんけど、ここにいる人よ。ここにはいないの?」女は言った。僕が話すまで女は、斜め下を向きながら左手で髪の毛をかきあげる。長くボサボサな髪は指の間に纏わり付き、液体のように見えた。
「畑にいると思うのですが」
「は?畑?ここには畑いっぱいあるじゃないの!あなたはバカなの?バカよ。バーカ。それじゃあね。バカと喋ってると私はアホになってしまう。じゃあね」女は乱暴に言った。足で冷蔵庫を蹴り、僕に「アッー」と大きな声を吐き出し、開けっ放しの扉から颯爽と出て行った。
 一瞬のことで、状況が全く掴めない。僕は夢を見ているのではないかと思った。それにしても僕の夢に出てくる女の人は荒い。縄張り争いをしているライオンのような荒さだった。僕は居間に立ち尽くしていた。
 ダンさんは、雨に濡れて帰ってきた。じっとりと濡れた髪や服は、僕を焦らせた。
「雨が急に降ってきちゃってね。あ、雨は急に降ってくるもんか」
 ダンさんに焦った様子など一ミリもなかった。ダンさんの開けた扉の隙間から見える曇天は、ダンさんが放つ光によって僕を暗い気持ちにはさせなかった。どうしても、さっき起こった出来事を尋ねたい。
「ダンさん、ちょっと前に女の人怒鳴り込んできましたよ」僕は自然を装い言った。
「女の人?僕なんか悪いことしたかな。ま、悪いことばっかりしてるんだけどね。どんな感じの人だった?」ダンさんは、靴を脱ぐのを一瞬止まって考える。嘘か本当か分からない冗談は控えて欲しい。
「派手なワンピースを着た綺麗な人でした。それしか覚えてません。あ、あと牛乳飲み干して行きました」
「派手なワンピースに牛乳か。あー!キンちゃんね。僕の追っかけなんだよ。怖い思いさせてごめんね。あの子に捕まったら、一時間以上拘束されるんだよ。追い返してくれてありがとう」ダンさんは、笑いながら言った。
「追っかけ?この街にもそんな人がいるんですね」
「僕実は、モテるんだよねえ。昔からアイドルなんて言われちゃって。困るよねえ」ダンさんは戯けながら言った。こういう飾らないところがダンさんのモテるところだと納得がいく。
「そうなんですね。アイドルも大変ですねえ」
「いや、突っ込んでよ。僕ナルシストみたいじゃん」ダンさんは僕を見て言った。「ところでアイドルって英語でどんな意味か知ってる?」
「愛されるとか、尊敬されるとかですか?」
「それもあるらしいけど、『仕事のない、怠惰な』って意味もあるんだって。それだったら僕も立派なアイドルだね」ダンさんは笑いながら、自分の部屋に戻っていく。ダンさんの背中には、僕にはない羽が生えている。鳥類が持っている羽じゃなく、小回りがきいて、日頃は隠している甲虫の持っている羽のようだ。僕にはどう頑張ったってつけることができない。
「あ、カイくん!今度もキンちゃん来たら、僕いないことにしといてね」遠くから声が聞こえた。

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