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見えない湖 22

 目を開けた瞬間に現れたのは、天井だった。その天井は、自分の家のものだった。木の線が綺麗に並んでいる。心臓が今にも飛び出そうなぐらい音を鳴らしている。脇の下や膝の裏にはぐっしょりと汗をかいている。上半身を起こした状態で自分を落ち着かせる。
僕の中にも芸術を追い求める気持ちがあったのか?目的を達成するために人を殺すことに対して何の躊躇もなくなってしまったのだろうか?夢じゃなくもう人殺しをしてきた後なのだろうか?昨日は本当にあの島に行ったのだろうか?どこからが現実で、どこからが夢なのかも分からない。考えるうちに恐怖に飲み込まれそうになる。非日常からの抜け口が分からなくなっているのも事実だ。
「カイくん、もう起きたかい?」
 部屋の外から声が聞こえた。ダンさんの声だった。僕は一人ではなかった。その声に安堵し、布団から出ていく。
「今起きました」
 味噌汁の香ばしい匂いが脳に伝わった。日本の朝は味噌汁に限る。しかし、ここは日本なのだろうか。最近の情報量の多さに、自分が今どこにいるのか、分からない。
ダンさんが熱された鍋から、お玉でお碗に味噌汁を入れる。湯気が空中に舞う。それを側に置き、土鍋を開ける。味噌汁よりも湯気を出している。その中には炊き立ての米が覗いていた。米は水分を含み、食べ物という姿に形を変えている。綺麗な膨らみは、胃を膨張させる。
 ダンさんは、味噌汁と白ごはんを持ってきてくれた。
「すいません、自分でやろうと思ったんですが」
「そんなに遠慮しなくていいよ。初対面でも、新妻でもないんだから」
「新妻にはそんなによそよそしくしないじゃないですか」
「言うねえ。新妻って言葉を使ってみただけ」
 僕は両手を合わせ、ご飯を食べる。一粒一粒に熱が入ったご飯粒は、口の中で解けた。炊き立てなので、口の中で熱気が広がっていくのが分かる。改めて白ごはんの美味しさを舌で感じた。味噌汁には白味噌に大根、油揚げ、わかめ、白ネギが入っている。バランスがいいとは言い切れないが、口の中で満足感を味わうことができる。口の中に残ったご飯を味噌汁で流し込むことができる。いい具合に煮込まれた野菜が体の養分になっている。背徳感を感じることがなかった。
 あの島に行ったことは、嘘だったように思えてくる。いや、本当に嘘だったのかもしれない。そう思いたい。吐いたところまでは覚えているが、その後は思い出せない。
「僕はどれぐらい寝てましたか?」
「二日ぐらいかな?うなされてたし、死んでしまったんかと思って心配したよ」
「あの島で倒れたことぐらいしか覚えてないんです。ご迷惑おかけしてすみません」僕は、台所で立っているダンさんに言った。
「迷惑?あー、気絶しちゃったたもんね。いや、でもよく耐えた方だよ。体育館の展示で倒れる人も少なくないね」
 あの島に行ったことは事実だったと確認できた。
「そんな何人も連れて行ったことがあるんですか?」
「そうとも言えるし、そうとも言えない。人間ってのは、いや、男ってのは自分がその人の初めてになりたいと思う。その人以外が自分以外の人と同じことをしているのを想像してしまうんだよ。想像力ってのは、いい面が多いけど、時々自分を苦しめるだけの装置になりえることもある」
 ダンさん得意の『にごし』が入った。確信に迫る質問があると、ダンさんは言葉をにごす。それ以上突っ込めない僕もいる。それ以上聞くことも忘れてしまう。
 今日は美味しいの出来てくれ、とダンさんはかまどに向かって言っている。小麦粉を焼く香ばしい匂いがやってきた。和食で日本を感じていたのにも関わらず、匂いが日本では無くなっていく。近頃、ダンさんは、かまどでパンを焼くことに挑戦している。朝、味噌汁とご飯を食べているのにパンを焼いて食べようとする。しかし、ダンさんのパンは成功したことがない。いつも丸こげになり、かまどから木炭が出てきたのかと勘違いする。それを僕は楽しそうに眺める。その焦げを一生懸命削っているダンさんの姿が愛おしいと感じる時がある。
「何で朝ご飯に和食と洋食ミックスするんですか?」
「特に深い意味はないよ。バイキングみたいでいいじゃない」
 バイキングなどいつ以来行ってないだろうか。ここにきて、もう何年も経つ。随分と環境にも慣れ、ここで生活する術も学んできた。最初には疑問に思わなかったことが、最近では疑問に思うことが多くなる。人間、余裕が生まれるとありとあらゆる不安や葛藤と戦わなければならなくなる。孤独と向き合うとはこういうことかもしれない。

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