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見えない湖 4


 朝ご飯を済ませ、外に出る。田んぼには水が張られ、苗が顔を出している。もう六月で、徐々に気温が上がってきている。田んぼから、この季節特有の鼻を突く匂いがしてきた。空には大きな積乱雲が城を築いているようにそびえている。道を進んでいるうちに、川の土手にたどり着く。川はダイアモンドを大量生産しているように、輝きを放っていた。その輝きで周りの緑が一層、淡い色に変化している
 川では先客の子どもたちが網で何かをとろうとしている。僕は川の輝きによって渇きかけの目を開け、子どもたちを眺めていた。ただ無心に、そこにいるかもしれない大物や新種を発見したい、と探検家になった子どもたちは、全力を注ぎこんでいるように見えた。僕にはその気持ちに共感する気力はない。僕は、勝手に大人になった気でいる。
 一人の大きな子どもが、体の小さい子どもを投げ飛ばした。それにつられて、多くの少年が笑い合った。投げ飛ばされ、びしょびしょになった子どもは、頭部の髪の毛から流れ落ちるしずくを払いながら投げ飛ばした子に向かって笑みを浮かべていた。その集団の奥には、この事情に関係のないように、一人で魚を追っている子もいる。
 僕はただ、目の前で起きていることに対して、なんの感情もなく眺めていた。何か達観したような、見据えているような目で子どもたちを見ていた。ピチャピチャと水の流れる音や風でなびく草の音が聞こえる。
 この川に何をしに来たのかはすっかり忘れていた。ただ、眺めるという退屈な作業を自分のものにした気分で土手に腰かけていた。もちろん子どもたちは、不思議な目で僕を見ていた。しかし、見られたところで僕には何もしなかった。
 そのうち子どもたちは、飽きたのか僕に気持ち悪さをもったのか、川を出て帰り始めた。最近の川は遊泳禁止だが、ここでは川で遊んでいる子をよく見かける。付いてきている大人の姿もない。僕は、子どもたちが楽しそうに帰っていく姿を見ていた。
 僕は、魚を釣りに来たのだと思い出した。土手から川の側まで降りていく。半ズボンから露出した足には、草がチクチクと刺さる。川は何も不純物を含んでいないようで、空の青さを反射していた。釣竿は家の近くにあった木の棒に、糸をつけたというだけの簡易なものだった。糸の先に餌を貼り付け、川に垂らした。その瞬間に橋の上から声がした。
「釣れたかい?」男は言った。「今日はどんな魚が釣れたんだい?」
 男は橋の上から僕を眺めている。歳は三十代くらいに見えた。白い清潔なシャツに黒のパンツを履いている。この村には馴染まないフォーマルな格好をしている。僕は一瞥し、顔を川に戻した。今準備を終えたところだ。「川に釣り糸を入れたばかりなのに釣れるはずがない」、と心の中で思った。そのまま無視する。
「釣れたかい?」またしても男は声を大きくして言う。僕はまた無視した。
 まだここにいると、何度も声を掛けられそうなので、移動することにした。川に照らされた僕には行き場の無いように感じる。川に沿って上流に行こうと考えた。移動するたびに素足に草があたり、足がチクチクする。川を眺めれば鯉が自由に水の中を泳いでいる。なんの妨げもなく、誰と群れることもなく。そんな鯉に嫉妬した。
 川沿いは山に入るまでに、障害物はなかった。ただ、短く生えた草をかき分けて、ゴツゴツした歩きにくい石の上を歩いてゆくだけだった。山に差し掛かる。山には魚がいるのだろうか?そんな疑問が浮かんだ。しかし、来てしまったので引き返すのも面倒だった。それにあの男と関わるのも面倒だ。少しイラつきながら、上流に向けて進んだ。
 山は僕を歓迎して無いように思えた。太陽に照らされていた先ほどの世界からすると、非常に暗い別世界だった。その別世界には、知らないことが沢山あった。だが、胸も高鳴っていた。自分から進んで暗闇の別世界に行く経験は今までになかった。上流を目指し、川をたどる。川は、自分の今まで見たことのある川より、数倍綺麗だった。山によってろ過された水は透き通っていて、底まではっきり見える。この水のように、綺麗なまま僕も生きていたかった。そんな叶わぬ願いを水に投影した。
 ふとあたりを見渡す。気づいた時には、川の入り口が見えないぐらい奥にきていた。聞こえるのは、足元の落ち葉をふむ音、緑に生い茂った葉が擦れ合う音、川の水が流れている音、鳥が途切れ途切れに鳴く声だった。右側に川があり、反対側の左側にも水面が見えた。左の水面の方に少し歩いて行ってみると、湖のように見えた。どうしてこんなところに湖あるのか不思議に思った。だが、僕の目は湖にひかれた。綺麗な川をよそに、自分の足は湖に向かっていた。都会の真ん中で一戸建ての家が建つぐらいの広さをした湖だった。周りに舗装されたような枠もなく、大きな水溜りのようにも見える。人魚がいるわけでも、神様がいるようにも見えない。しかし、僕の足は自然に湖の方に進んでいた。
 湖まであと数十メートルのあたりでそれを見た。湖から大きな物体がはねた。魚のようにも哺乳類のようにも見えた。その生物には、金色の尾びれ、背びれ、腹びれがついている。胴体には四つの足が生えており、体躯は光に反射すると虹色に見えた。その生物は、僕を懐かしい気分にさせた。小さい頃に見たことがあるか、夢の中で見たことがあるような気がした。正確には思い出せない。生物を見失う前に、足を速める。走りにくい場所ではないものの、足が全く動かないように感じた。
 湖に着いた時には生物の姿はなかった。上流の水とは異なり、茶色く湖の水は濁っている。そのため、水中が全く見えない。あれほど大きな生物を住まわしているこの湖には、どれほどの深さがあるのかが分からなかった。試しに、持っていた釣り堀を垂らしてみる。ポチャンというさみしい音を立て、湖に円の波が生まれた。
 しかし、もし大きな生物が釣れたとして、この釣り堀と僕の準備では釣り上げられないと思った。恐怖が現れ、すぐに釣り糸をたぐり寄せた。その間にその生物は姿を現さなかった。湖は波を吸収し、そのあたりの空間を静かにしていくだけだった。
 湖から少し距離を置き、湖を見てみた。だがあの物体は姿を現すことはなかった。湖に背を向け帰ろうとすると、バシャンとあたり一帯を包み込むような大きな音を立て、何かがはねた。僕は驚き湖を向くと、尾びれが湖の中に見えた。僕の見たものは正しかった、と思う。あの物体をしとめるという強い決意を持ち、帰路につく。
 帰り道は、先ほどの川を見つけてその川沿いに下流まで出た。川沿いに来なければ、帰れなかったのかもしれない、という恐怖が後になって芽生える。
 頭の中は、あの物体をどういう風にしとめるかということでいっぱいになった。心の空いた穴を覆い隠すように。足取りは早く、視覚は狭くなった。
 家につくとダンさんはいなかった。多分、外で農作業をしているのだろう。山で見た生物のことをダンさんに言うべきなのだろうか。言ったら僕は、変人扱いされてしまうのではないか。もうこの家から追い出されてしまうのではないだろうか。しかし、ダンさんは受け入れてくれると信じたかった。
 僕は、その不安は一旦置いて、あの物体を釣り上げ、息の根を止めることを考えた。その証拠を見せれば信じてくれるに違いない。

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