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見えない湖 19

 疑問を抱えながら、次の家に行く。このような人々が住んでいるところを回るのかと思うと先が思いやられる。足が鉛をいくつも積んだみたいに重く、歩きにくくなる。
 次の家は、道路を挟んで二つ家を行ったところにあった。家の近くに行くと音楽のようなものが微かに聞こえる。しかし、音が小さすぎて外ではあまり聞こえない。だが、先ほどのように心臓を抉られることはないだろうと予想した。
 鍵の閉まっていない引き戸を開け中に入ると、音楽が大きく聞こえてきた。南米の民謡のように聞こえる。今にも踊り出しそうな軽快な音が部屋中を取り囲む。玄関を抜け、居間をみると男と女が二人踊っていた。踊りながら、体を叩いたり、口から何かを発したり、足を踏み鳴らしたりして音を出している。部屋の隅には、一人の人が無心で頭蓋骨を叩いている。もう一方の端では、骨で作った横笛を吹いている人がいる。踊っている男は緑色のアロハシャツにベージュのチノパン、女は赤の花柄のアロハシャツにベージュのフリルスカートを履いている。打楽器の二人は、顔を黒い布で覆い、全身黒の布を着ている。全員の動きがなぜか不自然だった。
 目を凝らして二人を見てみると、肘や指などの関節が、本来いかない角度に曲がっている。そして、指の関節も何本か逆の方向に向いている。僕は動悸が激しくなるのに気づいた。音楽が盛り上がった時に、関節を上手く使い音を奏でていた。聴いたことのないような打楽器の音がなる。それはカウベルでもなくドラムのスネアでもなく、もっと乾いた骨と骨が擦れ合う音だ。ダンさんは目を閉じて聴いている。僕も目を閉じてみると、音楽に合わせて乾いた音が、静かな場所で鳴っている。
 南国の浜辺にあるサンゴ礁のように部屋には人骨が散らばっている。その人骨を何の考慮にも入れずアロハシャツの二人は踊り狂う。僕は下を向き、目を瞑った。この異様で不快な光景に飲み込まれてしまいそうになった。外に逃げたところで、逃げ切れるはずがない。ダンさんがすぐにここから連れて出してくれるだろう。目を閉じながら待っている。しかし、ダンさんはなかなか出ようとしない。耳から入ってくる音楽は、人を陽気にされるために作られているはずなのに、人間の体の音や人の骨が擦りあっていると考えると陽気にはなれない。
 二人がこちらの存在に気付くと男が陽気に手招きをしている。ダンさんはそれにつられて二人の方に向かって歩き出し、踊り出した。ぎこちない踊りだが見様見真似で体を動かしている。今度は女が僕を見て、手招きしてきた。僕はこの異様な光景に飲み込まれてはいけないと思った。必死で首を横に振る。すると、女の顔が一変した。電車が通過駅を去っていくほどの速さで、笑顔が真顔に変化する。切れ長の綺麗な目で、鼻は口近くまで出てくるような長さで、唇は尖っていた。僕はこの顔を一生忘れることはできないだろう。その人を殺めるような眼差しで、地面を一瞥し、また僕を見る。
「お前もこの骨のようになりたいのか」そう女が言っているように思える。全身に寄生虫が走り回るように鳥肌が立つ。静止している女とは関係のないように男とダンさんは踊り続ける。その光景がさらに僕の目の奥にこびりついてきた。逃げられない。
 ゆっくり足を前に出し、近づいていく。すると、女の顔がどんどん緩まってきた。それとともに安心感が芽生える。正しいことをしているような感覚になる。
 踊り出す。今まで人目を憚らずに踊ったことなんてない。不思議だった。見様見真似で踊っているのに、誰も僕を笑わなかった。ダンさんの方が僕よりも下手なんじゃないかと思えてくる。踊るに連れてジワジワと汗が滲んでくる。狂気じみているという感覚が少しずつ無くなっていく。男や女は踊っている間に、腕の骨や指の骨を器用に動かし、体中から音を出している。二人とも汗をかきながら必死に踊っている。痛さで苦悶する表情はなく、心から楽しんでいるようだった。さっきまでは、体が縮む思いがしたが、汗まじりの僕は、この空間が続いていくことはいいことじゃないか、と思った。
 僕も関節から音を出してみたいと思った。左手の指に右手を掛ける。そのまま力を入れれば、音が出る。力を入れようとしたその瞬間、音楽が止まった。音楽が止まった以上、力を入れるのを止める。その瞬間、バタンという音が聞こえる。周りを見渡すと、男や女は倒れ込んでいた。倒れ込み死んだように横たわっている。その瞬間にダンさんは僕の手を引き、居間を駆け抜け、扉の外に出た。慣れているように素早かった。開けっ放しだった扉をすり抜けたため、静かに扉を閉めた。
「彼らは今、『無』の音を楽しもうとしている」ダンさんは言った。「休憩も兼ねているんだ。今でないとまた一時間ぐらい踊ることになる」
 僕は呼吸が荒くなっていたため、膝に手を置いている。心臓の音が直に耳に届いた。
「楽しそうに踊ってたね。やっぱり音楽というのは人生において欠かすことができないのかもしれないね」
「あれは本物の骨ですよね」
「そうだよ。彼らは、ギターやピアノみたいな人工物よりも骨や人間の体が一番いい音が鳴るって言ってるらしい」
 僕は何も答えられなかった。今起こったことが頭の中で溢れている。整理されていない倉庫のように一杯で乱雑な状態になっている。脇の下や掌にじっとり汗が滲んでいることがわかってきた。僕はどこで何をしていたのか。一瞬の記憶喪失に陥った。
 最初に入った時のこの場所は、僕の求めている『楽園』だと思った。しかし、今は黒く大きな毒蛇がどの家にも潜んでいるように見える。生と死の狭間で遊んでいるような感覚に陥ってくる。

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