<責任>の生成を読んで


ふたりは、「自分の意思でやりました」と、過去を切断して責任をとったことにして、おしまいにするのは無責任だと言います。過去の遮断の解除が責任の前提条件になるという。これは「今後はもうしないようにする」という更生の観点がある「責任」観を前提にしているからこそ、出てくる考え方だと思います。責任を引き受けられる主体であることを前提に、「やったことに見合う罰を受ける」という応報の意味に留まる「責任」では出てこないと思います。どちらがいい悪い、どちらが「本当の意味」とかではなく、志向が違うのだと思う。この前者の立場にあることを暗黙の前提に繰り広げられる対談です。

「当事者研究」も「中動態」というのもほぼ初めて触れる言葉でしたが、当事者研究というのは、精神障害を抱える当事者や比較的周囲に見えにくい困難をもつ人たちを中心に、近い境遇を持つ人たちが自分たちは何者かを「知る」ことを目指した研究だそうだ。たとえば、「誰かが放火した」ということについて「放火現象」と表現するなどしてそのメカニズムを知ろう、と、出来事を属人化せずに語ってメカニズムを探るという研究。
「いったん免責して、メカニズムを解明すると、結局自分のしたことの責任を引き受けられる」という指摘が、面白かったです。
最近は「高信頼性組織研究」というのがあるそうで、犯人捜しをしない、失敗を許容するというジャストカルチャー。本気で失敗を減らしたければ、失敗を許さなければならない、失敗をおそれず共有できる環境を用意して、みんなの教訓にする。自分がなんとなく考えていたことに理論的バックボーンが与えられたようでした。
他方、「中動態」というのは、実は比較的新しい枠組みである「能動態」「受動態」の二項対立とは距離を置き、「主語が、動詞によって名指されるプロセスの場所になっている態」のこと。wantなど。この「中動態」という概念の受入れは、「意志」という概念を通さない現象を受容することなのではないかと理解しました。
これら概念を説明するにも既に登場してしまっていますが、この「意志」の考え方、そしてこれらに連なる自閉症者の理解は、この本を読んで新たに気づいた点として大きなところです。


意志というのは、どこかで過去を切断しないと観念するのが難しい。
切断できるかどうかは人による。また、意志は、身体の内側外側から大量の「アフォーダンス」(行為の促し)があり、これをまとめ上げることによって成り立つ。そのまとめ上げが得意な人と難しい人がいる。(このまとめ上げを、ドゥルーズとガタリは分子的とモル的という言葉で表現しているそうです)
「健常者」は、これを無意識に行っているが、自閉症者はこれを高解像度で受取り、選択や行為を、非自発的同意を強いられた結果として捉えているという意味で、自閉スペクトラム症は、中動態を生きる存在だとされています。
「自閉症」について、自閉症者とそうでない人は物事に対する解像度が違う、コミュニケーションの障害ではないという指摘は、多くの人が知るべきだと思いました。「予測誤差を許せる幅」、これが狭いのがASDというのもなるほどと。ちょうど自閉症当事者を主人公にした映画を並行して見ていて、納得感がありました。

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