小坂井敏晶著「人が人を裁くということ」

とても面白かったです!!
印象に残った点の羅列のようになってしまいますが、まず第1部。

○裁判への市民参加について、「職業裁判官と裁判員のどちらが的確に判断できるのか」とかいう問題を超えて、「正しい判断」「合理的判断」とはそもそも何をいうのか、という角度から問題提起し、「裁判官と裁判員のどちらにより正しい判断ができるか」という問いには、原理的に答えが存在せず、事実自体は誰にもわからないから、もっとも事実に近いと「定義」されるのが、裁判所の判決である、とします。
「合理的判断」についても、どの状況に置かれるかで人間の判断は大きく変わり(裁判員の氏名が公表されるか匿名に守られるかによっても意見は左右される。人間は真空状態では判断しない。どの状況も一定の方向にバイアスがかかった空間である。)、どの状況の判断を合理的と呼ぶのか。中立な状態は存在しない。」とします。
腑に落ちる話だと思いました。

○検討の材料として、複数の研究を引用しつつ、
・裁判官のほうが陪審員よりも有罪と判断する傾向があり、また陪審員を既に経験した者は、初めて経験するものよりも有罪、特に死刑判決を支持しやすい傾向が見られること
・陪審員の数につき、少数派層が一人か、二人かで割合が同じであっても置かれる心理状況は全く異なること
・全員一致と多数決の違いにつき、データから、有罪無罪の意見が混在する場合に、無罪優勢の状態が評議を通して有罪に至る可能性は低いが、逆に、有罪優勢が覆されて最終的に無罪判決が出る可能性は高いこと
を明らかにしており、これらも「なるほど」と。

○そして、他国の裁判制度とその歴史的背景を連関させて紐解き、「司法への市民参加と民主主義には深いかかわりがある。裁判所は犯罪者を罰するための単なる役所ではなく、裁判は、時の権力争いや階級闘争の結果に左右される、極めて政治的な行為だ」と言います。
特にフランスと英米の市民参加制度につき、それぞれの歴史的背景などから「人民の下す判断が真実」と定義するフランスと、裁判を「多様な価値観を持つ市民の利害調整の場」と捉える英米と捉えて対比し、控訴の可否・技術的な理由にとどまらない判決理由の明示禁止についてもこれに沿ってその意味合いを解釈します。(フランスでは、人民の決定は定義からして正しいのだから、その判断を理由によって正当化する必要がないし、誰の同意も不要。対して、理由を明示することを求めることで、検察の主張を斥けるための説明を提示する労力が大きいために、有罪判決のバイアスが無意識に働くという点も指摘。)

このほか、裁判官説示の問題点等にも検討材料を呈示。
裁判制度に関し、研究の蓄積等に基づいた新たな見方を提供してくれました。

「第2部 秩序維持装置の解剖学」では、
・訓練を施しても、嘘を見抜く能力は向上しない(警察官と学生とで、誤る率はほとんど変わらない)
・目撃証言の確信度と信ぴょう性は比例しない
 ことを研究結果から明らかにしたり、
アメリカの取調べの教科書の記述を取り上げたりし(否認するたびに言葉を遮ったり怒鳴ったり、言いたいことを言えないことで心理的緊張を続けて合理的に思考する能力を奪うとか…なんかわかる気がした)、
 冤罪が発生する構造的問題を明らかにします。

「第3部 原罪としての裁き」では、さらに「なぜ処罰するのか」という違う観点からの検討。
 その中で出てくる観点が「悪は必要」「規律を外部に擬装することで内在的な問いを遮断する」というもの。
 前者は、悪の存在しない社会とは全ての構成員が同じ価値観に染まり、同じ行動をとる。変化しえず停滞し、歴史を持たない社会であって、既存規範からの逸脱として「犯罪」と「創造」は多様性の同義語であって一枚の硬貨の裏表のようなものという議論です。
 後者は、社会秩序は自己の内部に根拠を持ちえず、虚構に支えられなければ根拠は成立しないが、同時に、社会秩序が様々な虚構のおかげで機能しているという事実そのものが人間の意識に対して隠蔽されなければ、社会秩序が正当なものとして我々の前に現れない、という議論で、善悪の基準に普遍的価値は存在しないからこそ、確固たる信頼を与えるために必要なのだと論じます。

「逮捕されて罰を受けるのは誰なのか。犯人という概念がすでに問題を孕んでいる。犯人とは、社会秩序維持のために必要なスケープゴートだ。したがって、人を裁くということは、誰かを犠牲にすることを意味する。実は裁き自体が犯罪行為なのだ。しかし、それは人間の原罪であり、『裁く』=『スケープ・ゴートとして犠牲者を出す』という社会制度は絶対になくせない。」

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