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ジョーン・ディディオン「60年代の過ぎた朝」(原題”The White Album")

この本の原題は”The White Album"である。そう、ビートルズのアルバム名と同じ”The White Album"である。

このタイトルについてディディオン本人がNetflixのドキュメンタリー映画である「センター・ウイル・ノット・ホールド」の中で明かしている。「(チャールズ)マンソンの公判でビートルズの”The White Album"が(シャロン・テート事件を)象徴していた。ある種、陰鬱としたアルバムだ。そしてそれこそがあの時代そのものだった。」

チャールズマンソンについて少し触れよう。マンソンは60年代にカリフォルニアで「ファミリー」と呼ばれる集団を率いたカルト指導者で69年にロマンポランスキー監督の妻で妊娠中のシャロンテートら5名を自らの教団信者を教唆して殺害したことでのちに殺人罪の有罪判決を受けている。

この事件担当の主任検察官だったビンセント・ブリーオージーはマンソンファミリーによる一連の殺人を「へルター・スケルター・シナリオ」と名付けた。マンソンは事件の数か月前から当時の黒人・白人間の緊張により「世の終末」戦争「へルター・スケルター」が起きると信者に説いていた。そしてこの奇想天外な発想はビートルズの”The White Album"に啓発されたものだったという。事件現場には信者の一人が冷蔵庫に「へルタースケルター」と血で書き残していた(もう一つ同アルバムに収録されている”Piggies"を象徴する”Pig"もドアに血で書きなぐられていた)。

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ディディオンは、「私のロサンゼルスの知り合いは皆、69年8月9日(のシャロン・テート事件)で60年代は突然に終わったと思った」と言う。

さて随分話がそれたので、本の方に話を戻そう。

この本は全5章から成り、第一章は本のタイトルと同じ”The White Album"だ。最初のエッセイ「ある精神分析カルテ」の一文"We tell ourselves stories in order to live"(「私たちは生きるために物語をつくる」)はディディオンの名言として有名で、後にディディオンのノンフィクション集のタイトルにもなっている。

ディディオンはさらに次のように続ける。「私たちは、自殺事件のなかに教訓を求め、五人殺しの大事件のなかに社会的道徳的教訓をもとめるのだ。じぶんが見るものに解釈を加え、幾多の選択肢の中から、一番納得のいくものをえらびとる。私たちは、とくに私たちが作家であればなおさらだが、全く共通点のないばらばらなイメージを、むりやりひとつの物語でつなぎあわせることでしか、生きていないのである。つまり私たちの現実はめまぐるしく変化する走馬灯のようなものなのだが、これらを凍結してしまう「思想」を案出して、その「思想」によってかろうじて生きているのだ。」

この章では彼女の言う「物語」としてドアーズ、ブラックパンサー、シャロンテイト事件(元ファミリーのリンダ・キャサビアン)、モルモン教徒との会話、みずからの神経症や骨折などについてのエッセイが続く。これらは相互に何ら関係があるものでは無い(”not Cohesive")。時代の切り取りだ。

ディディオンは、66年から71年まで時代からずれないように仕事に努力した。しかしちょうど自らに語り続けてきた「物語」についての前提に疑いを抱きはじめたころだった、という。この章の最後「60年代の終わり」で彼女は「私には、(「物語」を)書くおかげでその意味するところが見えてくる兆候はないのである」と締めくくっている。

米国を席捲した60年代のサイケデリックでポップなカルチャーに向き合い、ジャニスやドアーズといったミュージシャンに会い、米国中の変わり者たちが西海岸に集う姿を間近で冷静に見続けた三十歳代の彼女は神経症に陥った。68年に「ロサンジェルスタイムズ」で「今年の女性」に指名された彼女が、である。

第二章から第五章までは「カリフォルニア共和国」、「女性たち」、「私のいまいるところ」、「六十年代の過ぎた朝」と続く。そこでも彼女の洞察力によるきめ細かな、しかし関係の無い「物語」の描写が続く。

Netflixの「センター・ウイル・ノット・ホールド」では「これらの物語はそれぞれ間違いなく意味のない鎖でつながっている。しかしあのジャラジャラした(”jingle-jangle morning")夏の朝(註:”jingle-jangle morning"はご存じボブディランのMr. Tambourine Manの歌詞)に、他の何よりも意味を成したのだ」という。

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翻訳者あるいは発行元の東京書籍は、この本”The White Album"のタイトルを最終章のタイトルと同じ「60年代の過ぎた朝」に、また第一章のタイトル”The White Album"を「六十年代のアルバム」としている。

これでは、ディディオンが意図したバラード、ソフト、ハード、インストルメンタルなど多様な曲を収録したビートルズのThe White Album"のようなエッセイ集、というメタフォーは全く消えてしまう。なんとも残念だ。

なおシャロン・テート事件については、昨年公開されたクエンティン・タランティーノの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」という映画で新説が展開されているので興味のある方はそちらもご覧頂きたい。


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