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ブックレビュー「死の講義~死んだらどうなるか、自分で決めなさい」

ここ数年毎冬再びスキーに没頭しているのだが、今年はシーズン初めにトップクラスのデモンストレーターのレッスンを受講する機会があったので、その教えの習得のためにスキー場に行く頻度が増している。調子に乗って、1月中盤から10日間に日帰りで三回スキー場に行った結果、「魔女の一撃」、即ち腰を痛めてしまい、今週予定していた八方尾根行はキャンセル。

最近は滑っている最中に、腰を痛めることが多い。滑走姿勢に無理があるのか、はたまた単に筋力が落ちて来たのか。そういえば股関節から畳もうとするときに自然反応的に反り腰にしてしまう人が多いという。股関節から畳むことと反り腰は直接関係無いのに、脳が反り腰と関連付けしているのだろう。少なくとも準備体操はより念入りにやった方が良さそうだし、午前中身体が温まるまでは高速での小回りを禁止した方が良さそうだ。プチ反省。

本書の著者、橋爪大三郎の本は『世界は宗教で動いてる』や『世界は四大文明でできている』を読んだことがある。今回のテーマは「死」。

伊佐敷隆弘氏によると、死んだらどうなるかにの考え方については、6つのパターンがあるという。

1. 他の人間や動物に生まれ変わる。
2. 別の世界で永遠に生き続ける。
3. すぐそばで子孫を見守る。
4. 子孫の命の中に生き続ける。
5. 自然の中に還る。
6. 完全に消滅する。

確かに今まで聴いたことがある考え方は、このどれかにあてはまる気がする。しかし、どれも経験してみることはできない。この経験と並行する考え方を哲学という。

一方本書では、死についての考え方を4つの宗教(一神教、インドの宗教、中国の宗教、日本の宗教)の考え方を中心に整理する。

一神教が考える死

まず一神教。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がそれにあたる。

これらの宗教では、世界は神が創造したものであり、人間も含めて世界は神の意思によって存在する。しかも人間だけは、一人一人個性ある存在として神に造られる。神に主権があり、やがて終末がやってきて、世界は存在しなくなる。キリスト教とイスラム教には終末の考え方がはっきりしていて、終末に最後の審判がある。一人一人を個別に裁いて、有罪なら永遠の炎で焼かれ、無罪なら神と共に永遠に生きる救われる場合、復活し、もう一回だけ自分に生まれる

インド文明が考える死

次にインド文明の宗教。一神教の考え方が、最終的には決まった状態が実現する目的論であったのに対して、因果論で、ここでは「最終的な状態」が無い「わたし」自身も、因果連鎖のなかに結ばれた出来事の一つであり、「真理を覚る」とはこの因果関係の連鎖のネットワークを認識すること。真理に到達するには「瞑想」があり、真理を覚った人を聖者という。

人間はただの因果関係なので、人間はもともと人間でない。真理を覚るための訓練が修行で、フルタイムの修行者たちをバラモンとするカースト制度がある。人間は死んだ後生まれ変わる(輪廻)ことが前提で、よい行いをすれば上のカーストに生まれ変わる。この人間は因果関係だという考え方と輪廻するという二つの死に対する態度が両義的なため見解が分かれることがある。また聖者には輪廻する/しないの二つの考え方がある。

インドの仏教で、仏(ブッダ)であるゴータマ(釈尊)は宗教活動を禁じられたクシャトリヤだったが、家を出て、真理を覚った。覚ったが見たところはふつうの人間のままで、老人になって死んだ。輪廻などしない

その後弟子たちが色々な説明を取り入れた。過去七仏という七人の仏、現在存在する仏として並行世界の仏(十方世界一仏多仏論)。死んだ釈尊が死んでいないとして、永遠のブッダが、具体的な人間であるゴータマ(釈尊)として現れることを垂迹(すいじゃく)といい、釈迦仏を再び信仰の中心としよう、というにが法華経華厳経はさまざまな仏を総合するものとして毘盧遮那仏を冠上げる。曼荼羅はこういったさまざまな仏陀の配置としての宇宙を図像に表したものである。このさまざまな仏のひとつを選び、精神集中し、仏と合一することを目指すのが念仏

この仏教では、死の考え方も発展し多様化している。初期仏教では、輪廻を否定しているので、死んで存在がなくなると考えられた。次に小乗仏教では、ゴータマは死んで、輪廻を解脱して存在しなくなり、弟子たちは輪廻を繰り返して修行を続ける、となる。

大乗仏教では、仏弟子のあるべき姿としての在家修行者の「菩薩」は、仏になることができるとする。この変種が浄土教で、死ぬと輪廻する代わりに、ワープして極楽浄土に生まれ(極楽往生し)、仏の一歩手前まで修行のランクが進み、極楽で死ぬと、次に極楽で生まれたあと真理を覚れて、仏になって、仏国土を与えられる

さらに密教では、修行者はもう仏だから修行しなくてもよい。修行は自分が仏であることを確信するためのもので、もう生死を超越している、輪廻も往生もしない、とする。

禅宗では、正しい座禅をすれば、誰でも仏であり、輪廻して修行を続ける必要はない、死ねば仏であってもそうであっても、消えて存在しなくなる、とする。

中国文明の考える死

儒教は宗教らしいところはあまりなく、むしろ宗教に関心がない。死者は歴史として名を残すが、死者が死んだ後の自分をどう見るかだけを気にして、自分の死そのものから目を背ける。祖先崇拝も死を後世に生きる者から眺め、死そのものから目を背ける。

道教は、儒学の世界に理想を実現できな人々が、望みを託す「ウラ儒学」。道教では、人間は死ぬと鬼になり(鬼籍に入る)、地上とそっくりの地獄に下る。地獄では苦労しているので、地上に生きる子孫は、死んだ親のため冥銭を焼いて送る(孝行)。

仏教の出家は、両親を捨て家を離れて、修行者で集団生活をすることで、儒学としては親不孝。このため中国では、多くの経典が創作され、三分の一は偽経。中国で仏教として成功したのは柔軟で経済的にも自立した禅宗。

日本人の考える死

日本は中国文明の周辺にあって、死についても時代とともに色々な考えで揺れ動いた。

縄文文明では死を恐れるべきものと考えていたようだし、古事記では人は死ぬと黄泉の国に行き、黄泉は地底にあって、鬼や悪神がいて、死の穢れにまみれており、この世とは隔てられて、自由に行き来できない、とする。また一神教とは異なり、神も死んでしまう。神も死んでしまうのだから、神が人間を死から守ってくれたりはしない

そこに仏教が伝来、共同体を支える神では無く、個々人のため、国家のための仏教は、理解しにくくハードルの高いものだった。当初は理想的に仏教を国家のためのものにしようとしたが、すぐに理想は崩れ、平安仏教ができあがった。

仏教は、煩悩の考え方、地獄の考え方をもたらした。神道には死の穢れの観念があるのに対して、仏教は合理主義で、霊魂を認めないので、死を恐れない。中国の禅宗は葬儀も自分でやることから、日本に伝わり仏式の葬儀が普及していった。

そして神々を祀る神道と、真理を覚る仏教が、歩み寄り、本時垂迹説で、仏と神とはおなじものである、という神仏習合が生まれた。この結果、インドや中国ではありえない、「人間は死ぬと仏になる」となった。これが死後に極楽往生を願う念仏宗とフィットした。

その後平安時代に、最澄と空海が比叡山延暦寺と高野山金剛峯寺を開き、寺がそれぞれ特定の宗派「だけ」の寺になると、寺によって「言っていることが違う」ようになった。

次に平安から鎌倉にかけて、念仏宗が現れ、末法の世では、仏教の行が称名念仏(「南無阿弥陀仏」と口で唱えること)に純化できる、極楽往生には念仏を唱えさえすればよい、さらには阿弥陀仏を信じればよい、と主張した。このため読経とか造地造仏とか寄進などが一切無く、貧乏になった。念仏が盛んになると、寺社の経営基盤が脅かされ、寺社の要請で「念仏停止(ちょうじ)」が度々命じられた。

先の浄土宗の考えがまさにそれで、死んで極楽に往生すれば、仏になることが決まっており、それならば死を恐れる必要は無く、死は仏に近づいていく。ふつうの仏教が修行すれば仏になれるとするのに対して、道元の禅宗は「人間は座禅をすれば、仏である」としたものだ。

そして殺人や暴力を職業とする武士は、ふつうの仏教では救いから遠いが、修行で禅の精神に従って行動することで覚りを求め、死を超越しようとした

そして日蓮は、天台宗の教義である、法華経のみに価値があるとし、他の経典や宗派を排斥した。在家修行者である菩薩を組織化し、世界を菩薩たちの仏国土につくりかえようとした。そして菩薩行を覚りよりも重視した。信徒は死と来世はさておき、現世の菩薩行に集中、菩薩として現世と向き合い、死と向き合うようになった。

江戸時代になると、幕府はどの宗派であっても統制するために寺請制度を始めた。人々はイエ毎に、どれかの宗派の寺に登録させられ、寺は布教活動はダメだが、収入保障のために葬式だけが認められた。この結果、人びとの常識は次のようなものになった。

a. 人間は死ぬと、仏の弟子になる。いや、もう仏である。
b. 仏の弟子なので、俗名のほかに、戒名をお寺につけてもらう。
c. 死んだあと、三途の川を渡って、あの世に行く。
d. 戒名を記した位牌を仏壇に祀って、お祈りする。
e. お盆には、死者はあの世からもどってくる。

本来念仏宗の場合、死者は極楽浄土に往生しているはずで、年忌法要を行うのは妙だ。つまりイエ制度と寺請制度により定着した死後の年忌法要の習慣は、仏教とは全く関係の無い古い伝統でしかない。

江戸時代の知識人は、儒学と国学を両方修め、尊皇論者となった。国学を起こした本居宣長の没後の弟子平田篤胤は、「英霊」を発明した。人間は死ぬと目に見えない霊となり、国のために命をささげた人びとの霊は「英霊」となり、この世にとどまり続け、この国の行く末を見守り、加護するとした。

この考え方が幕末の官軍、明治の陸軍に注目された。軍として、英霊をまとめて祀るための東京招魂社が、明治十年に靖国神社に衣替えした。これは家族がそれぞれ仏式で葬儀をあげ、位牌となって仏壇に収まるものとは関係が無い、とした二重の死である。

死後の考え方のどれを選ぶか?

ここまでは今までの考え方の整理だったが、ここからは著者の考え方になる。

常識的な無神論者は、自分が死んでも、家族や世の中は存在する、と思う。
常識的な無神論者は、結論する、自分がこの世界にいるのは、偶然だ。
神が世界を創造したのなら、この世界に偶然は存在しない。

このように合理主義は、一神教と折り合いが良い。合理主義的にシンプルにして、キリスト教かどうかわからなくなったユニタリアンがいる。そのほか合理主義とフィットするものに仏教、国学、念仏宗、禅宗、法華宗、密教、天台宗...

著者は、「どれかひとつを選択しなければならない」という。それは一つを選択すれば他が理解できるからだ、という。それはものわかりのよい相対主義では問題が解決しないからだ。自分の生き方を選択するというのは、相対主義のような知識ではなく、知識を超えたことがらだからだ。宗教をひとつ、選ばないと、宗教のことはわからない。

つまり自分で決めて、自分なりの価値や意味で、自分の生き方を基礎づける。そのように生きると、その通りに死んだことになる

自分はどうするか

さてここまで読んで、自分がどれを選択するか、と問われてもはっきりわからない。

合理主義の世界に生きており、自分の存在が偶然だ、とまで思うが、一神教の死生観がフィットするようには思えない。

一方戒名の話を聞くと、江戸時代お仕着せの年忌法要の考え方に賛同しかねるし、二重の死については無理があるように思う。

念仏宗のように、死者は極楽浄土に行く、という考え方も時代背景で分からない訳ではないが、仏教の原理的には無理がある。

その意味で最もフィットするのは禅のエッセンスのような気がする。人間は誰でも生死を超越できる。そう思って生きる。生死を超越するから輪廻は関係無い。よりよく生き、納得して死を迎える

a. ゴータマ(釈尊)は、坐禅して仏になった
b. その坐禅のやり方が、中国に伝わった
c. そのやり方で坐禅すれば、仏である
d. 経典や論書は参考になるが、とらわれなくてよい

それを仮説として、もう少し時間をかけて考えていきたいと思う。それが自分の生き方を基礎づけ、死に意味づけすることになるのだから。


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