ブックレビュー ”日本文化の核心 「ジャパンスタイル」を読み解く”
私が代表を務めるHIRAKUコンサルタンシーサービシズのHIRAKUは元々京都大学こころの未来研究センターの佐伯啓思氏が監修する「ひらく」という定期刊行物に啓発されたものだった。
佐伯氏の提言する「グローバリズムとイノベーショナリズムに場当たり的に適応するのではなく、専門諸科学の知見と協同して、分野を横断して多様な問いに向き合う」という姿勢に賛同したからだ。
その創刊号の巻頭対談が佐伯氏と本書の著者である松岡正剛氏で、テーマは日本文化の根源へだった。
松岡氏は編集工学研究所所長でブックナビゲーションサイト「千夜千冊」を今も続けている方で、編集的世界観にもとづいて日本文化研究に従事している。現時点での1771夜の最新レビューは何と病床の築地がんセンターからだ。
本書は先の巻頭対談と連動した形で、日本文化の核心に迫る2020年3月第一刷の新書である。バブル経済崩壊後に民営化とグローバル資本主義が金科玉条になり、新自由主義の邁進やマネー主義が日本を蹂躙した今、もう一度日本の哲学を安易な日本論ではなくディープな日本に降りて再構築する試みだ。
日本文化を解読する上で著者がジャパン・フィルターと呼ぶ特徴を本書の第一講から第十六講までからいくつか挙げている。以下そのうちのいくつかと、そして著者が主張するジャパン・コンセプトの検討について引用させていただく。
1. 中国語のリミックス
応神天皇の時代(四世紀から五世紀初頭)に漢字が百済から入って漢字を学ぶようになった際に、中国語をそのまま使っていくのではなく、漢字を日本語に合わせて使ったり日本語的な漢文をつくりだした。
そしてついに和銅四年(711年)の古事記で、漢字を音読みと訓読みに自在に変えて、音読みにはのちの万葉仮名にあたる使用法を芽生えさせた。
これは中国というグローバルスタンダードを導入し、学び始めたその最初の時点で早くもリミックスを始めていたということだ、と著者は指摘する。晩年に日本国籍をとったドナルド・キーンは「仮名の出現が日本文化の確立を促した最大の事件だ」と述べている。
そしてこの「漢」と「和」の成立は「デュアル・スタンダード」、行ったり来たりできる、「双対性(デュアリティ)」を活かすということだ、という。
2. 苗代のイノベーション
日本にとって大切な「コメ信仰」だが、それは著者は「苗代」というイノベーションが日本独自の画期的なものがもたらしたのだと指摘する。
水稲栽培は古代中国では直播で天然の降水で育てる天水農業が中心だったが、日本は稲が育ちざかりのときに長梅雨などに見舞われ、収穫間近になると台風などの見舞われることから、まず種籾から苗代で苗を作り、幼弱な芽をあらかじめ強く育てておいてそれをあらためて水田に植えかえるという育て方が中心となった。
非常に手間がかかることだが、これにより立春から数えて八十八夜に田植えをし、二百十日の台風の頃を過ぎて収穫の日を迎えるという「時の育み」のリズムをつくり、日本人にお米に対する敬虔なイノリ(祈り)をおこさせ、稲のミノリ(稔り)に対する喜びをもたらした。
3. 多神多仏の混淆感
外国人によく質問される定番はこの日本人の宗教観。一神教の国でもなく多神教の国でも無い「多神多仏の国」だといえる。
結婚式では神主さんの前で三々九度の杯をかわし、葬式ではお坊さんを呼んでお経をよんでもらって、家には神棚と仏壇が両方ある家も少なく無い。年末年始になるとクリスマスを祝い、年の瀬にはお節を用意し、除夜の鐘を聞き、正月には初詣に行く。各地にはお地蔵さんがいて、八幡さまにはお賽銭を上げ、手を合わせる。お稲荷さんや七福神をありがたがっている。
これは寛容なのか、無宗教なのか、信仰心が無いのか。
著者は日本人は歴史的に無宗教でも、信仰心が無かったわけでもないが、そのつど「信仰の向き」を選択している、という。欧米の宗教学者は、日本人の信仰は「シンクレティズム(混淆的信仰感)」だと言う。著者はそれではやや堅すぎるので「リミックス」をおこしたと捉える。
リミックスは「エディティング」、すなわち編集。神仏習合も大胆な日本特有の編集力によっておこなったのだ、という。これを日本では「和光同塵」という。「ここ」の考えや現象と「むこう」の考えや現象をさまざまにまじった「塵」として同じくしていくことを言う。
「和光同塵」を神道と仏教の出自にあてはめたのが「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」。日本の神々は仏たちが化身として日本に垂迹してきたものだというものだ。
4. 静と動のデュアル
相撲には静と動が同居する。日本文化には茶の湯や生け花のような静のものとナマハゲやだんじり祭りのように荒々しいものが共存している。歌舞伎には「世話物」と「荒事」があり、お能にも神能と修羅物・鬼能がある。
この「静」と「動」の一対、併存してきたところに日本文化のいいところがある、と著者は指摘する。「和する系譜」と「荒ぶる系譜」が一対になっている。
「すさぶ」は漢字では「荒ぶ」。「遊ぶ」と綴ってもスサブと読んだ。こうして「すさぶ」と「あそぶ」は重なり、何か別のことに夢中になることがスサビと認識された。中心で荒べば和を乱すが、別のところで熱中するならスサビ(遊び)。
そして「わび・さび」の「さび」は実はスサビから出た言葉。サビは「寂び」と綴るが、もともとはスサビの状態をあらわしている言葉で、何か別のことに夢中になっていることで、きっとそこには夢中になるほどの趣きがあるのだろうなと思わせる風情を示す言葉、だと指摘する。
そしてスサビに徹していくことを、またそのスサビの表現や気分を鑑賞して遊べる感覚のことを、総称して「数寄」とか「数寄の心」という。スサビも数寄も物事に執着すること、こだわること。仏教では何かに固執することを「執着(しゅうじゃく)」と言って強く戒めるところを、あえて「好きなもの」として徹底し、何かに執着する態度に一転して美を見出すことが日本においては連続した。
「わび」は「侘び」と綴る。遁世した者は清貧に甘んじて、生活は切り詰められ、持ち物の物品は乏しい。特別なものは身辺にないが、心は澄み切っている。そういうところへ誰かが訪ねて来て、ゆっくりとお茶を差し上げる。いわば不如意を「お詫び」して、数寄の心の一端を差し出す。
これが「侘び」の出現。そこを訪ねたものにとって、亭主たちの「詫びる気持ち」こそが何よりも尊いものに感じられる。江戸時代になると「やつし」として生まれ変わる。
5. ジャパン・コンセプトを検討する
日本人は日本を説明したり解読したりするためのジャパン・コンセプトを仕上げて来たことがない、これまでは日本文化というと、能・歌舞伎や「富士山・ゲイシャ・浮世絵」や日本人の典型的な行動パターンを特徴的に検出してみせて、それですませているという傾向が多かった、と著者はいう。
著者はこれを打破するために、編集文化論の三つの角度で取り組んでいる。
(1)日本を方法として捉える
(2)日本文化は「アナロジカルに編集されてきた」と見る
(3)新たなコンセプトやキーワードを挙げて考える
(1)は日本の歴史文化の中にいろいろな方法があったのではなく、もともと方法が日本をつくった、日本は方法日本なのだという歴史観。
(2)は日本文化の特色を顕著に占める芸術や芸能には、その成り立ちから手続き(プロトコル)の確定をへて、道具立てから表現のパフォーマンスの定着と応用にいたるまで、つねに編集的なプロセスが追えるはずだという見方。
(3)は日本独特の用語によって日本文化のディープなところまで降りて、そのうえで現在の日本社会にまで浮上しようというアプローチ。
6. 西洋的な見方から脱出する。
筆者はまた、われわれはいつのまにか西洋的な認識方法や二分法的なロジックで、日本的な思考法を理解しようとしているから、日本的哲学や思考の特色を説明しようとするとわかりにくくなっている、という。
そうでは無く、そこに矛盾があるからといってそれを排除しないで、それを包含したまま前に進んでみれば、案外ひょっと抜け出て来れるかもしれない、とする。
筆者はその代表を「ない」のに「ある」もの、すなわち「面影」だという。日本文化は「面影を編集してきた」、ジャパン・フィルターは合理的な論理で組み立てるものではなく、編集によって梳いていくエディティング・フィルターだった、とする。
7. グローバル化への対峙
日本は歴史的にグローバルスタンダードへ対峙してきた。そしてその都度グローバルスタンダードをデュアルスタンダード、すなわち「どこにも属さない状態」にしてきた。
そういう日本らしい方法を持っていたにも関わらず、昨今は無自覚にグローバルスタンダードを追求しているのではないか。その結果日本「何かに耐えている季節」にある、と著者は指摘する。
モノは溢れ、インフラは整っているが、何かに耐えている。挫折感のようなものすらある。失われた10年、20年とも言われる。平成の30年を振り返ってもハラスメントやポリコレを回避するために、新しい何かが生まれない。
ここで改めて日本という方法を自覚して、グローバルスタンダードを自覚的に学びながら、デュアル・スタンダードを作っていくことが今求められているということだ。
8. デュアルスタンダードの重要性
私自身これまで専門分野である人的資源管理でグローバルスタンダードの絶え間ない輸入を目の当たりにしてきた。しかし外資系企業では問答無用で導入されるグローバルスタンダードだが、外資系で無い組織では、グローバルスタンダードの直輸入ではうまく行くはずも無く、無自覚あるいは自然とデュアルスタンダード化していったように思う。
また日本人グローバルリーダー育成において、欧米のタレント育成手法がなかなかうまくワークしないことも見て来た。逆に外国人リーダーが日本の組織をうまくリードする例も未だ少ない。
果たして人的資源管理の分野で意識的にデュアルスタンダード化するには果たしてどういう日本という方法を意識すべきなのか。
昨日の東洋経済オンラインで「失敗の本質」の戸部良一氏が次のように言っていたのが興味深い。
日本の問題を考える際、文化論に落とし込むことの危険性を指摘しておきたいと思います。私は防衛大学校の国際関係学科で教鞭をとっていましたが、それは当時から学生に口を酸っぱくして指導していたことです。さまざまなケースを分析した後に、その原因を日本的な文化やその欠陥に求めたのでは、実は何も言っていないことと同じで、その結論は逃げでしかありません。
これまでグローバルスタンダードと対峙するに際して、二元論的に拒否する人のほとんどが「日本の文化の特殊性」を理由にした。しかし文化は言い訳にはならない。なぜなら「どこの国の文化も異なる」からだ。
著者はグローバルスタンダードを基に日本がエディティング・リミックスした好例として「たらこスパゲティ」、「コム・デ・ギャルソンやイッセイやヨウジ」,井上陽水や忌野清志郎や桑田佳祐、大友克洋を挙げる。「ヨーロッパのすべてがすごい」としつつ、ただし、「ヨーロッパのすべてですら、我々は切り替えられる」という何らかの力を、我々は本来持っているのだ。
引き続きグローバルスタンダードに学ぶが、日本文化の根源を知り、エディティングリミックスをすることで、行きつ戻りつするデュアルスタンダード、「どこにも属さない状態」に再構築することこそ今あらゆる分野で求められていることなのだ、そしてそれこそ「ひらく」なのだ、と改めて実感した。
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