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名前を発表する話。

もうすぐ卒園という時期だったと思います。

私はA先生に何かを聞かれ、言葉を発したのをきっかけに(これもやっとの思いで答えたのですが。)

「声、出せたね。じゃあ今からお友達のお名前を皆んなの前で言っていこうか!」
と、突然提案されました。

そして、皆んなが座っている前で私はひとり、先生の横に立たされ、
A先生「Kちゃんが、声だせるようになったから今から皆んなのお名前をKちゃんが言っていきます!」

と、皆んなが私に注目します。

私はとてつもなく緊張していましたが、やるしかないと1人ずつクラスの子の前に立って名前を言っていきました。
言うたびにクラスの子達が拍手をしてくれたり、あだ名がある子は、私がどう言おうか躊躇っていると、「〇〇ってよんでいいよ!」と言ってくれたり、「がんばれ!」とか、とても温かい言葉をかけてくれました。


大人になってから思いますが、このくらいの年齢の子供って本当に純粋で大人の先生よりずっと優しくて、喋れないことなんか気にせず私を受け入れてくれてたと思います。(今の時代に言われている多様性を受け入れるとか、子供はこんなに自然にできていることなのに。。)

全員の名前が言い終わると、先生はすごく満足気でした。
でも。。

私には言えた嬉しさとか、達成感とか全くありませんでした。ただ、恥ずかしい思いをさせられた苦痛な時間でした。

あの時の自分の気持ちをいま表現すると、ハメられた。としか思いません。


A先生は私が皆んなの名前を言うことで、何がしたかったのでしょうか。これで、私が次の日から普通に話せるとでも思ったのでしょうか。

場面緘黙症の克服はそんなに簡単なことではありません。周りの大人が良かれと思ってしていることは、子供にとっては迷惑でしかない場合も十分に考えられます。


自分で話せるようになるぞ!と強く強く思って何度もチャレンジしようとして、でも声が出なくてを繰り返して、環境が変わったタイミングだったり、人それぞれですが、自分なりに今度こそ話しかけよう、声を出そうと毎日、何年も思い続けて、やっと克服できるのです。

ぼーっと過ごしているわけではないし、私は本当にクラスの状況をよく観察していました。お友達同士の会話を聞いたり、誰と誰が仲が良いとか、いまケンカしてるな、とか、先生の話も良く聞いてました。

幼児にしては、真面目にやることはやって、過ごしていただけなのに、ふざけたり、お友達に危害を加える子よりなんで私が怒られるんだろう、喋れないことってそんなに悪いことなのかな、、といったモヤモヤした気持ちがあったように思います。

なので、そっとしておいてほしかった。

私の場合は、です。

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