読書についての雑考

 晩秋。夜の長さにかまけて読書などしていたら一〇時になってしまった。明日は朝から仕事があるというのに、久々の読書があまりに心地良かったのだろう。今こうして感化されて筆などとっているのも、晩秋のさせる技なのだろうか。
 私は昔から読書が好きだった。一番古い記憶では児童書「エルマーの冒険」を母に読み聞かせてもらっているのが出てくる。当時私は3歳か4歳。幼稚園に居たことは確かだが、正確な歳までは思い出せない。どこまでも勇壮に続く冒険談に心奪われ、眠そうな母に続きをいつまでもせがんだことをおぼろげながら覚えている。
 私は小学生になるまで文字を読み書きできなかった。周囲は自分の名前をかけているのにも関わらず、私は書けなかった。物語の続きは気になるが、文字は読めないから母にせがんで睡眠を妨害していたというわけである。しかし、私には何の識字障害もない。母に聞いたところ、幼稚園の先生から教えることを禁止されていたというのだ。不思議な話もあったものだなあ、などと母と笑いあった。
 ともかくも私は文字が読めないにも関わらず、物語の続きを知りたがったのである。それほどまでに読書は私の娯楽だった。
 小学校に上がり、文字を習った。私にとって学校はひどくつまらないものだった。集団登校では上級生においていかれ、クラス生活では同級生にいじめられ、さんざんだった。学校では現実逃避が難しい。その唯一の抜け道が読書だったのだ。私はより深く読書にのめりこんだ。休み時間も昼休みも滾々と読み続けた。
 そんな生活が変わり始めたのは4年生ごろだろうか。私は友人と遊ぶようになり、昼休みには外に出るようになった。植え込みの中で大戦争などやったものである。あれも秋だったように記憶している。文字の中の世界が少し現実に近づいた気がした。
 日常が面白くなると必然、授業がつまらなくなる。知的好奇心が薄れたわけではないが、興味のない授業は苦痛である。そんな私を読書はまたもや助けてくれた。私は授業中に机の下で本を読んでいた。先生は困った顔で注意してくれたが、つまらないものはつまらないのである。私は読書をやめられないままでいた。
 ある日、授業参観で読書したことがあった。後ろに居並ぶ母様たちを後目に、颯爽と読書を開始した私をたたいた手は私の母の手だった。
 
 いつからだろうか。読書がしなければいけないモノになり始めたのは。
 中学の当時も、私は授業中読書をしていた。確か、村上春樹の1ℚ84だったように記憶している。英語の教科担任に本を取り上げられ憤慨したことを今も覚えている。
「私の本を返してください」
自分の非を棚上げしてそう口をきいたのだった。教員からしたら大変に生意気なガキだっただろう。もちろんたっぷりとお叱りいただいた。
 しかし、中学を卒業するころには全く本を読まなくなっていた。忙しかったこともあるが、それ以上に、興味をなくしていたと思う。
 学校という環境において読書は勧められる。時に「朝読書」や「読書感想文」などというバカげた時間をとることもある。確かに効果はあるのだろう。しかし、何かに強制されて行う読書程つまらないものはない。私はこれが人を読書嫌いにさせているのではないかと考えている。
 読書とは高尚な趣味ではないのだ。その場で消費される文字群に過ぎない。私はいつまでも、この刹那的な行動を続けていきたいと思うのである。
 以上、駄文を長々書いてしまったことを反省して、この文書を終わろうと思う。読了ありがとうございました。


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