見出し画像

"幸福なる死" の為に、今をただ生きる。


こんな明け方に僕は何を思って哲学を調べているのか。
哲学の講義を受講した時は、「なんなんだこの人たち。考えすぎだろ」的なことを考えていた。(今でもそう思う)

『これからの正義の話をしよう』を全章読んだわけではないが、6,7章読んだところで、内容はさっぱりである。
だが、雰囲気は好きだ。22歳が哲学を学ぶにあたって、"雰囲気が好きだ" 程度の興味を持つことは悪いことではなかろう。

僕が何故、哲学に少しだけの興味が湧いたのかといえば、それは「オメラス(omelas)」の存在にある。
オメラスとは、所謂 "理想郷" のことだ。ユートピア。
『オメラスから歩み去る人々』という小説に出てくるユートピア。ジブリの『ゲド戦記』の著者の作品らしい。

オメラス - omelas

この世の楽園のような国。美しい街並み、豊かな自然に囲まれたその国で人々は幸せに過ごしていた。
まさに理想のような国なのだが、街の地下には一つの牢屋があった。その牢屋には、年は六つぐらいの子どもが閉じ込められている。

住人たちの幸せ、健康、豊かな生活は、すべてこのひとりの子どものおぞましい不幸の上に成り立っている。

オメラスの子どもたちはある時、その子供を見物しに行くことになる。そこで年若い者たちは例外なく衝撃を受け、怒りと憤りを感じるのであった。

「この子を救ってやりたい」と考えるが、もしそうしたら最後、オメラスの繁栄と喜びはすべて滅び去ってしまう。

初めて牢屋の子どもを見て、この恐ろしいパラドックスに直面したとき、子どもたちは泣きじゃくりながら、あるいは涙も出ぬほどに怒りに身を震わせて家に帰ることが多い。彼らは何週間も、時には何年も、そのことを思い悩む。しかし時が経つにつれて、気づきはじめる。
あの子がたとえ解放されたとしても、たいして自由を謳歌できるわけではないことに。
あの子はあまりにも長い間恐怖の中に身を置きすぎてしまった、もう救いようがないのではないか。この恐ろしい現実に気づき、そしてそれを受け入れ始めたとき、過酷な不当さを憤った彼らの涙は乾いてゆく。

そして人々はふと家を出る。こうした人たちはオメラスの美しい門をくぐり抜け、都の外に出る。田園を抜け、なおも歩み止めない。彼らはオメラスを後にして、暗闇に中へと歩き続け、そして二度と帰ってこない。

しかし、彼らは自ら行先を心得ているらしいのだ。彼ら、オメラスから歩み去る人々は。

この世界は誰かの犠牲の上に成り立っているのではないか。そう思えた。
ニュースなどで悲しき命を目の当たりにすれば、怒りが沸き起こってくるだろう。しかしそれは、偽善に過ぎないのかも知れない。
どうにかしたい。その気持ちがどうにも出来ないことから、諦めて逃げてしまうのだ。

どうにかしたい。
僕は幾度もそう思ってきた。どのコミュニティでも、まとめ役の立場にいることが多く、そしていつも恨まれ役を担ってきた。
オメラスとは似ても似つかない話ではあるが、平和ではない状況を何とか改善したいと心得ていたつもりだが、それも叶わないと知った時、もう僕は疲れてしまった。

人間は、"言ってもないことから不安や怒りを覚える" 生き物だと考えている。
だから、ろくに関わりもしない相手を憎む状況が生まれるのだ。なんという傲慢さだろうか。
自分の都合の良いように解釈し、他人を憎み、それを噂として周囲に語り、仲間を集める。
これのどこが醜くないのだろうか。

僕は、そんな状況の根源に居ることが多かった。
しかし、誰も救ってくれた記憶は無い。彼らがどうにかしようと思っていたかどうかは定かではないが、恐らく諦めていたのだ。
ただ、争いの中立に立ち、その立場を利用して己を良く見せようとする人間は多からず存在した。
手を差し伸べているようで、事実は自身の株を上げ、僕を陥れているだけだった。
これが無意識な悪意である。

僕は疲れた。
人間関係の混沌に苦難することはもう辞めよう。
僕は僕を生きればいい。
極端に言えば、もう他人のことなど知るか、という思いだ。
人間関係で悩み、泣いたあの日々が消えることはない。あの愛情も友情も返ってこない。
しかし僕は、愛してくれる人を愛して生きていきたい。死ぬにしても、愛がある状態で死にたい。
ここでいう愛とは、理解のことだ。僕を理解し、デメリットの多い日々を共に歩んでくれる人間と、僕は生きたい。
だから、もし僕がオメラスの住人だとしたならば、「オメラスから歩み去る人々」の一人なのだろう。
悪く言ってしまえば、逃げるのだ。

僕は日々、人間への想いを削り続けている。
他人が困ろうと知ったことではない、という逃避ばかりをしている。
自分が苦しむならば、他人の憤怒など関係ない。
今まで自分に厳しくしていた分、今は全てを許してあげたい。叶うことなら。
もう、他人に憤ることは辞めよう。
やけに涼しい目をしていよう。そうすれば、あくまで己を守ることはできるだろう。

この世はディストピアだ。
息苦しく、狭すぎる世界だ。どこで何をしても、解放されはしない。
恐らく、幸福なる死を遂げても、結局のところは幸せではないかもしれない。
疲れた。酷く疲れた。
波のある心を持って、波のない毎日を送ってやろう。"ただ、生きる" ことが今の僕にできることなのだろう。
eu zen "よく生きる" ことは、まだ先の話になりそうだ。今は呼吸するだけで精一杯だから。
いつかのeuthanasia "幸福なる死" を胸に、今をただ生きよう。
疲れたなりに、ゆっくり生きたい。
それが許されざる行為なら、もう知らん。





この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?