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軽やかに暮らすために

 社会が新たなステージを迎えようとしている。今までの経済成長優先社会は、豊かになることは幸せになることを意味していた。GDPの数値は豊かさの指標だった。しかし今の日本経済は伸び盛りの成長期にあるわけではない。もうその時代は卒業したと言っていい。人口は減少し国は恐ろしく老いていく。今はとても大きくて、とても豊かな成熟社会の中にある。

 そしてそこに新たな問題が浮上してきた。今の豊かな成熟社会は、その豊かさをうまく分かち合えていないことだ。豊かになった人がいる一方、自分の居場所を見い出せず、苦しみ足掻いている人がいる。

さあこのあとどうする? 
経済の本来の意味である「経世済民」は、世の中をよく治めて人々を苦しみから救うことだ。この地点に戻って国は社会を作り直していかねばならない。人々の幸福感に真摯に向かい合わなければいけない。経済成長は国民の命や健康を犠牲にしてまで追い求めるものではない。
 
 では、私たち個人はどうするか? 何をすればいいのだろうか? 社会が新しいステージに立った今、国ばかりでなく私たちも変わらなければならない。成熟社会とは、幸せを一人ひとりが自分自身で決めていく社会でもある。

 そこで今回提案したのが、「軽やかに暮らす」という個人に向けた生き方の選択だ。人生の後半を迎えた老齢期の人にとって、それはもう既に始まっている。雑誌の見出しには「人生後半の時間術」とか「定年後の生き方」とか様々な余生の見直しが提案されている。自分らしい老後を過ごすにはどうするか、家族、友人、健康、お金と仕事など、課題はある。しかしどれを見ても「気楽さ」というワードが長生きの鍵のようだ。

 私も今年65歳になる。還暦を超えた頃から仕事量を減らしている。完全にリタイアとはいかないが、今までの仕事量を六割程度に減らし自由な時間を増やしている。数々の「しなければならない」を捨て毎日を面白く生きている。

しかし歳をとると身体は思い通り動かない。情けないことに頭で判断した段差をうまく体に伝いきれない。だから階段をよく踏み外したり、ベッドの角に足をぶつけてしまう。右足の小指はいつも傷ついている。でも心は気楽さに向かっている。心の筋力は緩み始めている。いや衰えているかもしれない。だから六割と生きるスピードを落として満杯になる寿命までゆっくり過ごせばいいと思っている。
寂しいから何かをしようと思わない。無理に誰かといようと思わない。ただ前を向いてゆっくい歩いて行こうと思っている。その方が人生はファンキーだ。
 
 しかし若い人はそうはいかない。体力があるから、細胞も早いスピードで分裂するから動きたくなるし、動ける。そして身体だけでなく心も動き回る。心の筋肉を使って激しく喜んだり悲しんだり悩む。でも昔と違うのは、社会が成熟したこと、パイがこれ以上成長して大きくならず出来上がった中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていることだ。

 水は流れないと底に淀みを生む。SNSで知る他人の華やかな舞台は水面に浮かぶ上澄みだ。しかし噂になった飲食店も魅力的な旅先もコロナ禍でぐちゃぐちゃに混ざり合った。底に沈んでいた世の中の隠れた不条理が浮かび上がってきた。不登校、障害者雇用、派遣社員、介護、苦学生など。なかなか出口の見えないコロナ禍で多くの人が将来を見通せず不安を抱えて暮らしている。

 2021年の自殺者数は二万人を超えた。女性は二年連続の増加で若者の自殺者も高止まりしている。一日55人、今日も55人、そして明日も55人の自殺者が生まれる。一人でも生きて欲しい。もちろん理由は色々ある。経済的な理由もあれば心の病気もある。蝶々はアオムシからさなぎになったとき、その中でぐちゃぐちゃに溶け、もう一度身体を作り始めるという。さなぎが蝶になるようにぐちゃぐちゃに溶けても、新しいステージで蝶になって羽ばたいて欲しい。
 
 だからこそ若い人に「軽やかに暮らす」という生き方を提案したい。それが成熟社会に向けた生き方の入り口になる。生き方と言っているがこれは抽象的な心構えではない。楽しく生きるための知恵(気づき)だと思って欲しい。本来の自分を変えようと思わなくても知恵(気づき)は努力で吸収することが出来る。何度も繰り返して何度も行動を起こせばいい。新しく起こした行動は、朝起きて顔を洗って歯を磨くようにやがて無意識に出来る習慣になる。
 
こんな高みに立ったようなことを言っている。でも本当に気づいたのは私自身の体験からだった。

本当に大切なものを思い出すときが来た

 元々ひとりだった。運よくこの世に生まれ、この家族や恋人、友だちに出会った。だから始めから失うものなんて何も無い。生まれたとき、大泣きする私を母が抱きかかえ、その周りで家族みんなが笑ってた。死ぬときは亡骸の私を皆が囲んで涙を流す。だから今度は微笑んで逝きたい。終わったことは、すべてベストチョイスだと思っている。亡くなった人も「成仏」の言葉どおり仏に成って「すべて良し」と笑っている。

 癌を発病して8年が経った。4カ月間の入院、8カ月間のリハビリ期間の後、1年後に社会復帰できた。そしてその後心筋梗塞も経験した。この8年、自分の体調を整えながら仕事をしてきた。この間に得たことは、「一生懸命は頑張ることとイコールではない」「無理をしないこと」。病気をする前は、いつも自分の気持ちに追い込まれていた。「あれをしたい」「これをしなければいけない」と常に追い込まれ、身体を休めることも忘れ、常に一生懸命だった。今は、「一生懸命」を「丁寧」に変えて生きている。疲れたら休む、地味でも毎日を丁寧に過ごす。そんな8年だった。

 同時に始めたのがヨガトレーニング。私が取り組んだのが、「エアリアルヨガ」、布を使ったヨガ。インストラクターである友人の指導もあり、最初は足のむくみのため正座もできなかったのに、今ではかなり体調も良くなっている。筋力もかなり戻っている。そしてサックスも習い始めた。これもいい、思いっきり息を出して音を出す、これが爽快だ。

そしてこの8年間で気づいたこと、それがこの言葉だ。

「無」とは存在が無くなることではなくて、隔たりが無くなること

 発病して入院中、いつも「死」という言葉が頭の中にあった。「おそらく死ぬんだろう」「もう終わり」「何もかも無くなる」、そんなことばかり考えていた。でも、不意にこの言葉が浮かんだ。

 魂というものがあるならば、実はこの世にいる間に一時的にこの身体に住み着いているだけ、元々は違う世界にいるもの。そして違う世界にいるときはひとりの「人」としての魂の存在はなく、すべてが同じであること。他人との区別もなく、他の生き物との区別もない、空も星すらもすべて同じであること。だから、死ぬことは「無」となり存在が無くなるのではなく、元々の世界に戻り他との隔たりが無くなること。そんなことに気づいた。

 以前ヒットした「千の風になって」という曲。その歌詞の中で、「私はお墓のなかにいません」という歌詞がある。今この言葉の意味がよくわかる。癌になったことで色々なことを学んだ。そして学んだことをブログに書いてきた。書いたことは自分が出来てることではない。出来たり出来なかったりの毎日だ。でも毎日を丁寧に過ごせば、ヨガトレーニングと同じように徐々に心の、魂の筋力がついてくると思っている。

 今世の中が大きく動いている。「これからどうなっていくのか」「感染者が増えて経済も駄目になる?」 そんなことはない。個を充実させる人が増えれば、「ポストコロナ」の世界はバージョンアップする。また始めればいいだけだ。私はそう信じている。

本当に大切なものを思い出すときが来た。今度は時間をかけていい。ゆっくりでいい。

好きなこと、やりたいことをする

 「世の中の人に元気を与えたい」「人に役立つことをしたい」。おそらく、これからこんな言葉が飛び交うだろう。しかしあえて警笛を鳴らしたい。「あなたの好きなことを、やりたいことをしてください」。世の中のためとか、人のためとか、自分を納得させるような正当らしい理由はいらない。ボランティアで他人を助けることも素晴らしい。でも、それと同じくらい自分と大切な人に目を向けることが大切だと思う。自分の近いところから幸せを埋めていく 。

 オリンピックの問題はどうなった? 自分の生活が脅かされれば、「アスリートファースト」どころじゃない。誰でも自分の安全が保障されてから他人の不幸を憂う。でも、そんな身勝手を恥じることはない。生きる目的も探すよりも、生きたいと思う理由にわがままに目を向けたい。
「世の中の人に元気を与えた」「人に役立つことをした」、これは結果だと思う。でも迷った時の推進力にはなる。世の中が大きく変わって生き残る道を探していく、環境の変化に対応して自分も変えていく。これもひとつの生き方。でも生き方はひとつじゃない。
 
「なぜ生き残らなければいけないのか?」

 この質問にどう回答できるのだろうか。誰もが反論できない言葉だが、その真意は誰も分かっていない。だから、「好きなことを、やりたいことをする」そんな生き方を私は貫きたい。そして、こんなことを書ける自分は幸せだと思う。「あなたはいいね」と羨望されバカにされても、「そうです。私はしあわせです」と言いたい。そして、そう言えることをありがたいと思う。

 「私はしあわせです」という。「ありがとう」という。
「好きなことを、やりたいことをする」
これが、私が世の中に出来ることだと思う。

生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる

 ある方が書いた文章です。
「ひとに誇れるようなものは何もなくても、好きな料理を作るとか、美しい景色に触れるとか、好きなひとと手を繋いで眠るとか、それだけで充分に幸せを感じることはできるのだと思う。」「生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる。温もりに触れたいと願う、その気持ちだけで充分なのだと思う。」
 
 二度の大病をして、毎日何かしらの文章をブログに書いて、大げさに言えば、私は生きる理由を探していたのかもしれない。時には探し当て、目に前の雲が晴れたように喜ぶ。次の日には、それが間違いではないかとまた悩む。そんな繰り返しだった。でもたまにこんな文章を読むとほっとする。

「生きる理由はわからないけれど、生きたいと思う理由はわかる」
生きる理由を突き詰めていくと、とても崇高な言葉を並べることになる。学びであるとか、自己肯定であるとか、生きがいであるとか、一瞬分かったような言葉を並べることになる。突き詰めれば突き詰めるほど短い言葉でまとめられたものなる。シンプルになる。しかし、そのひとつひとつの言葉の陰には、膨大な量のあこがれと後悔があった。

 対して「生きたいと思う理由」は、とても感覚的な体験だ。しかし、この感覚的な体験をしないと生きる理由にたどり着けない。私の生きたいと思う理由は何だろうか。「書くことでひとに何かを伝えたい」「へたくそでも素敵な曲をサックスで演奏したい」「大切な人にただ傍にいてほしい」など。
難しく考える必要はないと思う。分からなくなったらしあわせを感じた体験を思い出せばいい。生きていくために必要なものは意外と少ない。

生きたいと思う気持ち

 ダーウィンの名言
「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである」
 
 私たちは「生き残る」という言葉を何の抵抗もなく使っているが、「なぜ生き残らなければいけないのか?」という問いに明確に答えることはできない。「そんなの当たり前」と済ましてしまう。誰にも反論できない言葉だ。

「生き残る」とは、常に環境の変化に対応するもので、「生きる目的」と言うような自発的なものとは違う。動物や植物は、それを淡々と行ってきた。しかし「生きる目的」を求めても、どんどん深みにはまり、挙句意識の世界に入り込むことになる。現実と切り離された意識の世界に入り込むことは、もはやこの世に生き残っていない。だから、今は「生きたいと思う」ことにしている。「生きる目的」に辿り着けなくても、これで生き残ることができる。

 生きたいと思う理由(わけ)。生き残るために食べるという本能的なものでなく、旨い肉を食べたい、甘いケーキを食べたい、そんな単純な欲を大切にしている。そして、そのときを楽しんでいる。楽しさのパワーは自分の身体の中を駆け巡り、言葉を変え行動を変える。やがてそれは他人にも伝わる。
私はそんな人に助けられたことがある。だから今、もし誰かを助けたいとしたら、まず自分を楽しませることから始めていただきたい。

パズルのピース

 そして、生きたいと思う気持ちはパズルのピース(一片)に似ている。
今、きいろいゾウ(西加奈子著 小学館文庫) という小説を読み進めている。たしか、宮崎あおいと向井理が主演して映画になっていた。予告のポスターを眺めた覚えはあるが、見損なってしまった。だから本屋でこのタイトルと黄色を発見すると、すぐに中身をパラパラとめくっていた。

 なんかいい、ふわっとしているのに時折り突き刺さる言葉がある。

「小説なんて書かなくても生きていけるような気がするし、なのに書かずにおれないことに安心もしている。東京から逃げてきたようにも思うし、東京を捨ててきたようにも思う。何せ心が平らになっている。雨が降ることや、トマトがなることにとてつもなく大きな意味があって、だから僕が東京に対して思っているセンチメンタルな気持ちや、残してきた思い出がとても瑣末なことに思える。誰か全く違うほかの人の出来事のようだ。」
(「きいろいゾウ」より)

こんな言葉も書き留めたくなる。
小説は内容がどうこうというより、読んでる間が引き込まれる体験となる。役に立つとか立たないとか関係ない。私の「きいろいゾウ」の「ツマ」は宮崎あおいであり、「ムコさん」は向井理だ。二人の話す言葉が聞える。
映画を知らない読者にはどう映るだろう。それぞれが、それぞれの「ツマ」と「ムコさん」を作り上げる。読者の数だけ「きいろいゾウ」がある。

 「きいろいゾウ」に夢中になっていると、なぜか全然違うジャンルの文章を読みたくなった。そんな時に選んだのが、コミュニティデザインの時代(山崎亮著 中公新書)。整理されていなかった近未来への不安が丁寧に描かれている。

 そして、掃除がてら本棚に横づけされた本を手に取れば、またパラパラとページをめくっている。見つけたのは、黒鉄ヒロシの「千思万考」。歴史上の信長や斎藤道三、豊臣秀吉が妙に人間っぽく思えてくる。そして、こんな「あとがき」にも惚れ惚れする。

「たとえば、明治は江戸の影響下にあり、昭和、平成は明治、大正が助走となる。過去、現在、未来を離して縦に書くのではなく、過去の上に現在を、その上に未来を重ねて書く方が歴史の正体を理解し易い。(中略)一本の竹として考えてみてはどうか。」

 過去の歴史を考えるとき、私は歴史年表を左から右へ、横に並べて見ていた。年表の中で、江戸時代、明治時代、大正時代とそれぞれ太い線で区切っていた。その区切りは無意識のうちに歴史の流れを区切っていたようだ。前の時代が終わり、常に新しい時代を迎えたことに何の違和感もなかった。本当は続いているのに、流れているのに、常に前の時代は途切れていた。

「一本の竹と考えてみてはどうか」
ここに考えるヒントがある。
「過去の上に現在を、その上に未来を重ねて書く方が歴史の正体を理解し易い。(中略)」
横に並べていた年表を縦にして読めば、時代の区切りは竹の節のようであり、竹は上へどんどん伸びていく。終わっている過去が、今でも竹の根のように強く張り続けているかもしれない。過去が現代や未来に影響を与えていく。

 人は一本の竹であり、集まって竹林という世界をつくる。私も一本の竹であり、多くの人生の節を作ってきた。そして根を遠くまで深く強く張り続けてきたと思う。
私の歴史年表を横から縦に変えて、一本の竹を想像してみた。面白いものだ。そうすると今までとは違った自分が見えてくる。竹林に吹く風は空気を揺らして葉音をつくる。竹の葉音は音を奏でることで静けさを演出する。この中で何度立ち止まったことか。葉音は人の声のようだ。

そして、ふと思いついたことがある。昭和に生まれた私は、「江戸時代」「明治時代」と過去に「時代」という言葉を添えるが、「昭和時代」とは言えない。まだ昭和に生きているのか? でも平成や令和に生まれた子どもや孫にとって、「昭和」はもう「昭和時代」になっているんだろう。彼らにとって「昭和」はもう土に埋まっているかもしれない。

 「きいろいゾウ」を読み進めながら、「コミュニティデザインの時代」も「千思万考」も、もう手放せなくなった。よって同時に三冊が並行している。本のひとつひとつがパズルのピースのように思えてきた。三つのピースは、形も大きさもばらばらで、隣り合わせに繋がるとも思えない。でもいつかはどこかでピッタリとはまる隙間が生まれるような気がする。出来上がった「パズルの絵」は何だろうか? 今はわからない。でも分かったとき、見えてきたとき、自分の人生が終わる気がする。

 パズルは、もともと出来上がった絵を様々な形と大きさのピースに分断する。だから最初に誰かが書いた絵が存在する。でも人生のパズルはどんな絵が描かれているか、最後まで本人にはわからない。最終の絵を知っているのは神様だけかもしれない。おもしろい。
歳をとって分かったことといえば、何枚かのピースがつながってきたことだ。二枚つながったもの、三枚つながったもの、そしていまだにどこにもつながらない一枚のピースもある。一枚のピースにも意味を込めたらしい、綺麗な柄が施してある。この先何枚のピースがつながるか、どんな絵が見えてくるのか、命が尽きるまで楽しめる。

 生きたいと思う気持ちがパズルのピース(一片)なら、千枚のピースが繋がった「パズルの絵」は、探していた、私が生きる理由かもしれない。
だから、今は生きたいと思う気持ちを集めて、軽やかに暮らしたい。

軽やかに暮らすとは

 2008年8月2日に亡くなった、漫画家赤塚不二夫氏。告別式でタモリさんが弔辞を読み上げた。その中でこんな言葉があった。
 
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ち放たれて、そのときその場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひと言で言い表しています。すなわち、“これでいいのだ”と。」
 
見事な弔辞でした。これを白紙のメモで話したそうです。
 
自分を楽しませる
他人を尊重する
この世の不思議を味わう
 
 色々言ってもこの三つで私の人生は出来ていると思う。
他人と比べて自分を追い詰めてもなるようにしかならない。だから苦しくなったら、美味しいものを食べてる姿を想像して自分から笑顔をつくる。その笑顔は誰に向けたものでもなく、自分を楽しませるものだ。

自分より優れていようが劣っていようが、目の前の人の話を聴いてみる。尊敬(リスペクト)ではなく尊重することが大切だ。合わない人がいれば適度の距離を置いて相手の縄張りを無理に侵さない。世の中の三割の人は私と合わないと分かっている。

人との出会いも仕事への情熱も不思議だ。勝手に誰かといたいと思い、頼まれもしないのにやりたいことを探して頑張ろうとする。この世に生まれたからには何かしなければ、と信じ込んでいる。でも不思議は不思議として楽しむ。あの世(スピリチュアル世界)に助けを求めずめぐり合ったこの世を楽しむ。
 
「これでいいのだ」
 
こんなことを考えていたら、所ジョージさんの言葉を思い出した。

「軽やかに暮らす」 

いい言葉だ。
 
「世の中大変なこともあるけど、人生が楽だと思う人は何をやっても楽。人生が苦しいと思っている人はどんなに恵まれいても苦しい。あれが嫌だってこれが嫌だって。どんなに貧乏だろうが、どんなに窮地に立っていようが、楽観的に捉えている人は、これも人生だからと楽しめる。なかなかそうは考えられないけれど、生きているときにしか経験できないんだから。そう思わなくちゃ」 (所ジョージさんの言葉より)
 
 生きる目的を探すことも必要。でも、今は生きたい理由があるだけで幸せだ。こんなことに気づいたら、「なれない自分」「だらしない自分」を認めてあげること、明らかにしてあきらめること。きっと周りにいる他人も同じような気持ちでいる。そうでないとしたらその人は自分と合わないということだ。

軽やかに暮らすとは、何も感じない、考えないことではない。泣いて恨んで失望して、それでも笑って軽やかに歩き出すことだと思う。

 点と点がつながり線になる。それが三本集まれば形になり一片のピースになる。ピースを集めた人生パズルには、元々何かが描かれているが、私には死ぬ瞬間までわからない。
歳をとってピースが集まり、形が少しずつ見えてくると、絵の中に明暗が出来る。明るい色のピースは、暗い色のピースがとなりにあって初めてその存在に気づく。
徐々に絵が出来上がると、今の自分が見えてくる。同じことをしていても、その思いが変われば今までとは違った自分の姿が見える。
それが気づいて変わることだと思う。

 ほんのちょっとの気づきをいくつも積み上げることで、やがて自分が変わる。ゆっくりでいい、気づきを残すこと。何か変? 何か気になる? と思ったことは、今その理由がわからなくても残しておくこと。やがて点と点がつながり一片のピースになり、やがて人生のパズルが完成される。
ちょっとした変化に気づくこと、少しの違いに「気づく」こと。そして自分の気持ちの動きに「気づく」こと……。

小さな「気づき」のなかに、あなたを変えるヒントが無数に潜んでいる。
 
「軽やかに暮らす」とは、生き方というような抽象的な心構えではない。穏やかに平らに暮らすための気づきをひとつひとつ積み上げていくことだと思う。

ではどんな気づきが求められるのか? 
私は三つに分けている。

自分を楽しませる気づき    「幸」
他人を尊重する気づき     「倖」
この世の不思議を味わう気づき 「仕合わせ」

私はこれを「三つのしあわせ」と呼んでいる。

「三つのしあわせ」について・・・この話はまた別の機会に。


#創作大賞2023 #エッセイ部門


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