見出し画像

生まれながらに人は無条件に愛される?

ふとFacebookを見た

すると
「生まれながらに人は無条件に愛される」
という言葉に怒っている
友人の投稿を目にした

この友人は、幼少の頃
とても大変な思いをして
両親のことを憎んでいるようで

内容を聞くと
そら憎んでも仕方ないよな〜
という仕打ちを受けている
内容は長くなるので割愛する

そんな人が、この
「生まれながらに人は無条件に愛される」
という言葉に怒りを覚えるのは
仕方ないよなぁ~と

ただ、僕の感覚としては
間違いでもないよなぁ〜
とも思う所があるのだ

もちろん僕が正しいんだ!
と言いたいわけではない

色んな解釈があってよくて
この言葉を肯定的に解釈した場合
どんなふうになるんだろうという
好奇心、お遊びだと思ってほしい

この言葉を僕なりに
深読みしてみる

結局は

愛される

という言葉が問題なんだと思う

愛という言葉の定義が
人によってかなり違う

ここで意見がぶつかる

おそらく幼少の頃に
虐待とかを受けてたりした子は
この愛という言葉が無意識に

生まれながら人は無条件に
可愛がってもらえる

愛=可愛がる

に近いニュアンスの意味付けの
可能性があるなぁと

それはそれで良いが
限界がある

僕にとって「可愛がる」は
愛の側面の片方だけに見える
不十分

僕の定義での愛は

愛=無条件に与えられるもの全て

これを愛と定義しているので

無条件に可愛がることも愛だが
無条件に虐待されることも愛なのだ

ん?ん?

あ~ちょっと自分で書いてても
しんどいぞ〜(笑)
辛いぞ〜

まぁ、ここで怒らず聞いてほしい
まぁ、普通は怒る!間違いなあ!

でも、ここで怒っちゃたら
その奥に入れないのだ
少し我慢を〜

無理な人は、ページを閉じて〜

これは、ホントに
受け入れるのは難しいよなぁ~

けど、少し落ち着いて、深呼吸をして
抽象度を上げて、
次元を上げて捉えてみると
少しわかると思う
理解の幅が広くなるはず

例えば、

①病気のせいだ!思考
病気をただただ不幸ととるか?

②病気のおかげで♪思考
学びや気づきを得ることができた
長い目で見たときに、かなりのプラスやその人の成長を促した幸福な出来事ととるか?

の違いに近い

僕の家は、難病の家系で
父も弟も難病で死んでしまって
僕もなる可能性がある病気だったのだが
それを不幸と思うことは辞めた人間だ

だから、少しは説得力が在るだろう


②の「病気のおかげて♪思考」のほうが
成熟した意識が必要となる

成長のための
つらい出来事(必要な出来事)を
与えられている

みたいな取り方がある

もちろんそれが正しいと
言いたいわけではない!

解釈は自由だ

大事なことは
どっちで解釈するほうが
自分が楽で、自分が成長して
人生がハッピーになるのか?

そこが重要なのだと思っている。

自分の人生に役立つのか?
ってことだ

そして、その不幸が訪れなければ
その人はその気づきや成長
大きな愛を発露できなかったかもしれない

その不幸を与えた
憎むべき存在が、
ヒール役をやってくれなければ
その自分にたどり着けなかったかもしれない

もちろん、そのヒール役の人は
そんな崇高な意図など無いだろう

それはそれでいいのだ
仕方ないのだ、無理だ

ただ、その存在を無条件に与えられていることが、愛なのではないのか?

と言う考察である

幸(光)も不幸(不光)も

与えられる
そこにある在る
という行為のすべてが
どんなものであろうが愛だ

ということなのではないだろうか?

あのとき、もちろん虐待されたことは辛かったし、今でも許すことはできない
しかし、今その経験のおかげて、こういったお仕事で、人に喜んでもらえている、役に立てておまんま食えている

よく聞く話だ

それは、その過去不幸だと思っていたことがもたらした事だ

もし恨んだままなら
その過去の辛い経験を活かした
商売をしないほうが良くないか?

でもするだろ?普通
しかも喜ばれちゃうだろ?

全ては与えられているのだ
無条件に

与え方はむちゃくちゃだが
それも無条件なんだ

この世界はそうなってんだ
そこを選んだんだら仕方ないんだ

それをどう解釈するか?

その与えられたものが
不幸であれば在るほど
受取る側、解釈する側の
愛の大きさが必要となるのだ

大きな不幸や辛い思い出を包めるくらいの
大きな愛を自分の中から出すしかないのだ

もしそれが出せたとき

その憎むべき不幸のおかげで
出せたということになるんだ

腹が立つけど
感謝するしかないんだ

親はどんなクズな親であれ
最後には必ず子どもを幸せにするようにできているんだ

後は、それを認めるか認めないかは
自分次第なんだ

むずいぞ!
ムズすぎるぞ!!(T_T)

だから、
その境地に入ったものは
綺麗事ではなく
本当にありがとうって

感謝しかでてこなくなる

何度もいうが
僕の考えが
正しいと言いたいわけではない

本当に解釈は自由だと思う

ただ、僕は
皆がこのことに気づけれは

被害者意識
依存
他人軸にハマっていて

自ら自分を
負のスパイラルに
落とし込んでいる人が
減るのになぁ〜とは思っている


全ては自分で決めている
暴力や虐待でさえも

受け取る側が愛と思えば
どんな行為でも愛となるし

怒りとして受け止めてしまえば
どんな行為も罪となる

怒るということは
すくならからずとも

愛して欲しかった
可愛がられたかったのだと思う
子どもなら当然だと思う

愛し方を無条件ではなく
限定的な「可愛がられる」という
愛が欲しかったのだ

当然だ

でも、この世界はそうなって無い

その人の次元が高まるための
最適な設定が与えられる

その「与え」が
神や宇宙からの「愛」なのだ

たぶん!


より大人になって
人の複雑な生い立ちや人生
心情を経験し理解していくと

形としてや、表現は不器用かもしれないが
その背景には間違いなく
愛のようなものがあったんだなと
感じることもあるっちゃある

人を育てたり
人を導いたりするような
立場になると、より複雑な
わかりにくい愛情表現が増えてくる

愛するが故に
厳しくするみたいな
試練を与えるみたいな

器用な人なら
そんなときでも
上手に表現するのかもしれないが

そんな器用な人ばかりなら
人生苦労などしない

この世界は
善と悪
とか
愛と罪
とかの

2元が複雑に絡み合って
作られている

だからこそ

自分の中に愛を見出し
それを目の前の悪や闇や負の
ネガティブなものに当てて
愛にひっくり返していくゲームのようなものではないのかな?と思っている

本当にオセロゲームみたいな感じ

白と黒どちらでも良い

どちらでも良いけど
その背景に愛を見つけて
愛で染めていくようなゲームなのではないのかな?と

そんなふうに思っている

ん〜
伝わったかな?

ホンマにむずいな
生きるって


早く僕も脱出するぞ〜!

今日もあなたに
最高の気づきが訪れますように♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?