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信州には蕎麦とおやき以外、何もないから…などと、信州人にはよく言われるけれど…。【昆虫食文化 後編】

【昆虫食文化 つづき】
イナゴの佃煮は、水田稲作を主体に考える日本の農業から見れば、ごく自然に食べられるようになった昆虫であっただろう。
信州に限らず、東北地方においてもイナゴは昔からよく食べられていたし、宮城県などは、郷土の食文化としてイナゴを売り出していこうという気配すら醸し出しているように見える。
平安時代の本草和名に記述があることから、イナゴは平安時代には食べられていたと言われる。
江戸時代には、イナゴの蒲焼きなんて食べ方が、ファーストフードのように販売されていたらしい。
台湾の夜市や東南アジアの屋台で、タガメなどが売られている景色と割りとよく似た景色が、江戸の町にはあったのかもしれない。
信州では、近所のスーパーマーケットのようなところでも、普通にパック詰めになって売られていて、逆にイナゴの佃煮の置かれていないスーパーの方が珍しい。
道の駅などでは、とんでもない大容量のイナゴの佃煮が、まるでバケツかと思えるほどの容器に入れられてお惣菜コーナーに並んでいるので、昆虫食に興味があって覗いているはずなのに、そのあまりの大容量に恐れおののいてしまったほどである。
調理されているのは翅の短いコバネイナゴではあるものの、処理の仕方によっては翅のごわごわ感や、後ろ肢のとげとげしさが少し気になってしまうことがあるので、最初に食べたイナゴの下処理の状態によって、昆虫食に対する評価は変わってしまうのではないかと思う。
翅や後ろ肢をむしって調理しているイナゴの佃煮もあるということではあるが、信州で販売されているイナゴの佃煮はだいたいが肢付きのイナゴである。
南信方面で売られているイナゴの佃煮は、さすがは昆虫食の本場といったところか、翅や付属肢のとげとげしさまでカリカリに下処理されていて、肢付きの状態でも食べやすかったのを記憶している。
かりかりに煎ってから煮込まれたイナゴは、後ろ肢まで美味しくいただけるものなのかと、若干の感動を伴った。
イナゴは、東北などの米どころと呼ばれるところでは、ごく普通に食べられていた昆虫食であるけれども、その事実にごまかされて、実は大事なことを見落としているような気がしている。
信州四大昆虫食と呼ばれる食材の中で、イナゴはメジャー過ぎるがためにあまり注目されないけれども、そんなイナゴのポジションには異議を唱えたくなってしまう。
よく考えてみれば、信州という土地は、もともと稲の栽培には適さなかった土地であったからこそ、蕎麦の一大生産地となったわけである。
仙台平野・秋田平野・庄内平野・津軽平野などを有する東北とは違って、山国・信州では、白米はおいそれと口にすることが出来た食材ではなかっただろう。
今でこそ、拾ヶ堰用水に潤された安曇野のコシヒカリや、五郎兵衛用水に潤された浅科のコシヒカリなどが、信州産の米としてブランド化されてきているけれども、その背景には、やはり灌漑用水掘削の並々ならぬ努力が存在していたのである。
信州の古い時代においてイナゴとは、稲の子・田の恵みであって、豊かさや富を象徴する食材だったのではないか。
そう考えてみれば、貴重なイネの中に育まれる、貴重なイナゴは、ほかの三つの昆虫食とくらべても、見劣りするような食材ではなかったはずであろうと思えてくるのである。


蚕の蛹の佃煮は、蛹の田舎炊き、絹の子、繭子などと呼ばれている。
絹糸(シルク)を吐き出して一仕事終えたカイコ蛾の幼虫の、最後の御奉公の姿でもある。
養蚕はおそらく古墳時代の渡来人たちによって、信州にもたらされていたであろうから、カイコ蛾と信州人との付き合いは相当に古い。
その時代、信州は、文化交流都市と言っても過言ではないくらいに、渡来人たちの入植の堪えない土地柄であった。
馬の放牧に適していた高原が広範囲に存在していたことが、古墳時代の信州の発展に寄与していたと思われる。
縄文時代の黒耀石、弥生時代のヒスイ、そして古墳時代の馬牧は、古代における信州という土地を理解する上での鍵になると考えているのだけれども、馬牧の存在はまた、浄土信仰や養蚕業などの次の時代の文化もまた、信州の地にもたらしていたとも考えられるだろう。
江戸時代、田畠への桑の植付禁止令が出されていたために、農家は、蚕の餌となる桑の入手に苦慮していた。
信州は、田畠に適さない土地が多かったことから、川原や山地などに桑園を広げることが出来たことで、養蚕に携わる農家も多かったようだ。
けれども、カイコ蛾の幼虫は、お蚕様として祠に祀られて崇められるような大切な存在でもあったから、これを食べるという発想には結びつかなかったと思われる。
どちらかと言えば、実を食べたり、葉を茶として煎じたり天ぷらにするなどして、桑の方を活用することの方が自然ではなかったかと思う。
繭の中のカイコ蛾の蛹を、食材として見るようになったのは、明治の殖産興業・富国強兵の時代であった。
近代日本の殖産興業は、まず最初に、生糸によって始まった。
西欧においてカイコ蛾の伝染病が蔓延し、同地の養蚕業が衰退してしまったことが、日本の養蚕・製糸業の発展にも繋がった。
当時、蚕の卵の産みつけられた台紙、日本製の蚕種紙は、国内のみならず世界中で取引されたという。
品種改良によって病気に強健な蚕の種が作出され、よい蚕種を流通させていた上田地域は、蚕種の町・蚕都として繁栄した。
蚕種紙は、蚕の孵化をコントロールするために、夏でも冷涼な環境の風穴に貯蔵するようになっていたが、そんな貯蔵用風穴が、松本地域や群馬県の下仁田などに残されている。
蚕の繭から生糸を紡ぎ出す製糸工場が、岡谷市や群馬県の富岡市などに建設され、工場労働者が各地から集まって来た。
岐阜県の飛騨地域からは、多くの女工たちが野麦峠を越えて、絲都・岡谷を目指したという話は、有名な小説や映画の題材にもなっている。
まさに、松本、岡谷、上田、そして世界遺産となった富岡製糸場のある富岡へと至る道は、近代日本のシルクロードのような道であった。
工場では、孵化のときに繭を汚すカイコ蛾は、煮繭という工程によって蛹の段階で煮殺され、良質な生糸を得るために取り除かれる。
大量に廃棄される蚕の蛹を、もったいないと考えてどうにか食べるようにしたものが、蚕の蛹の佃煮という昆虫食だ。
お蚕様として過保護なまでに大切に育てられるカイコ蛾の幼虫は、自然界では生きることの出来ない運命の家畜昆虫である。
養蚕農家は愛着をもって蚕を育て上げ、製糸工場は不要物として蛹を合理的に廃棄する。
このあたり、蚕の蛹ひとつをネタに、様々の批評的な文章が書けそうであるが、わたしにはそんな資格はあるまい。
なぜなら、蚕の蛹の佃煮を、おいしくいただくことが出来なかったからである。
カブトムシの幼虫の飼育水槽に敷き詰めたオガクズのような独特の香りがして、自分はちょっと苦手なのである。
酒のつまみに蚕の蛹は欠かせないという人も多くいるとは聞くけれども、この癖の強さは、ブルーチーズなどと同じように、食べ慣れなければ理解できない類いのものなのだろうか。
地酒と合わせれば味わいが増すのかとも思うのだが、三度目の試食には至らないままでいる。


ザザムシとは川底に潜む水棲昆虫たちの総称で、ヒゲナガカワトビケラの幼虫である黒川虫、ヘビトンボの幼虫である孫太郎虫、カワゲラ類の若虫であるチョロ虫たちのことを指す。
渓流の川床の岩の下に隠れ潜んでいる虫たちなので、一般には目にすることは少ない虫たちではあるけれども、渓流釣りをする向きにとっては、虫餌として馴染みの深い虫たちである。
渓流釣り師ならば、この川虫たちの川底での姿や孵化直後の姿に似せて、毛鈎やフライなどを巻くことになるので、このあたりの虫たちの研究には余念がないと思われる。
ザザムシの佃煮とは、そんな川虫たちの寄せ集めの食材ということになるのだが、瓶詰めのなかに入っているのはそのほとんどが黒川虫。
チョロ虫などはほんの数匹、孫太郎虫に至っては混入を見つけることは稀である。
この比率については、どうやら黒川虫だけが草食性で、孫太郎虫とチョロ虫たちは肉食の捕食者であるため、生態系のピラミッドの理屈に従って、そもそも、捕食者としての孫太郎虫とチョロ虫の数が少ないということの現れのようである。
ザザムシを捕まえるためには、川底の石を足で踏むように動かして、虫たちを水中に浮かせ、用意しておいた四つ手網によって掬い取る。
これを「虫踏み」漁と言うけれども、ザザムシが保護されている天竜川でザザムシ漁を行なうためには、特別な「虫踏み許可証」が必要とされる。
そして、ザザムシは冬に収穫されたものが最上であるという。
夏、天竜川の水源である諏訪湖にアオコが大量に発生すると、それを体内に取り込んだザザムシは青臭くなり、食材としての質は落ちるのだとか。
夏のアオコの中には毒素を持つものがあって、それがために夏季のザザムシ漁は敬遠されるのだともいう。
そのため、ザザムシの虫踏み漁は冬の厳寒期に行なわれる。
味覚としては、濃い目の佃煮の味付けの奥に、天竜川の川底石に付着していた川藻の香りがほのかに漂う。
黒川虫の主食である川藻は、河川の水質によって微妙に変わるから、天竜川の味とはよく言ったものである。
このあたりは石に付いた珪藻などのコケを食む、鮎の風味に似ている部分があるのだろうか。
草食の黒川虫主体だからこその風味であろう。
肉食性の孫太郎虫やチョロ虫たちが主体であったならば、また違った味がするのであろうか、興味深くも感じてしまう。
千曲川の鮎は、千曲川の味とされるけれども、天竜川の黒川虫は、天竜川そのものの味であるのかもしれない。
採集された山ほどの黒川虫の映像は、はじめはなかなかショッキングだが、食べ慣れてくると、生きて蠢く黒川虫の様子が、どことなく愛らしく思えてくるから不思議なものである。
ちょびちょびと生えている付属肢や、口吻をしきりに動かす様子などは、しばらく鑑賞していても見飽きない。
ザザムシの佃煮は、佃煮という濃いめの味付けの奥の方に、ほのかな川藻の香りが感じられて、ああ、これが天竜川の風味かと妙に納得してしまう説得力を持っている。
ちょっとしたコクもあるように思われて、伊那谷のほんのり旨口の地酒と合わせると相性がよく、思いのほか酒が進むような気がしてしまう。


ここまで信州の昆虫食について書いてみたわけであるけれども、いつもより脇道にそれることの方が多かったようだ。
それもこれも、昆虫食というものが、まだまだデリケートな取り扱いを必要とされる食材のジャンルだという、負い目があったからであろうか。
若干の反省も含みつつ、まとめに入ろうかと思う。
ミツバチによって集められた蜂蜜や、クロスズメバチの幼虫などは、狩猟採集によって食物を得た縄文時代にも食されていたであろうか。
イナゴなどは、弥生時代の稲作導入の息吹きも感じられて、同じ昆虫食と言えども、狩猟採集文化とはやや異なる趣きを感じてしまう。
ザザムシは釣り餌として用いられる時期は古かったであろうけれども、佃煮という調理法が広がった江戸時代後期以降の成熟した町人文化の匂いが漂う。
そして、カイコの蛹が背負うのは、明治期の殖産興業・富国強兵の時代の雰囲気である。
信州の昆虫食とは、それぞれの時代の世相や雰囲気を映しこみ、時代時代の最先端を走る文化であったようにも思う。
地球規模での食料危機が叫ばれる昨今、信州では、今また、昆虫食文化をリードするかのように、コオロギフード開発の試みが始まっているという。
時代を越えて、信州人の食への挑戦が始まっているようだ。

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