見出し画像

秋田人として、バスケットボールについて漫然と語ってみる。

秋田人という人種には、生まれたときに、バスケの血が輸血されているのかもしれない。
パリ五輪出場を決めた男子バスケの躍進には、どうにも秋田人の血が騒いでしまったようだ。
遠い昔の秋田県では、野球の次のメジャースポーツと言えば、サッカーではなく、バスケットボールであった。
秋田県に生まれ育った子供たちが選ぶ運動部と言えば、野球部かバスケ部かの「暗黙の二択」であることも多かったように思う。


バスケの名門校・能代工業を有する能代市は、自他ともに認める「バスケの町」であり、能代駅構内にはフープが設置されているくらい、バスケという球技が身近に感じられた。
そんな伝統のある能代工業という名前も、統合による名称変更によって、現在ではお目にかかることが出来ないというから、少し寂しい思いである。


秋田県は、県全体としても「バスケ王国」の名を名乗って久しい。
そのせいかはわからないが、秋田県出身有名人のバスケ好きがTVなどで発見できると、なぜだか安心してしまう。
「そうかぁ、バスケ好きかぁ」なんて思い始めると、なぜだか温かい目で見るようになってしまう。
これは、「秋田人あるある」としても成立するだろうか。
ハナコ岡部、がんばれ。


もはや、バスケットボールは、なまはげや、マタギや、きりたんぽや、ハタハタと並ぶ、秋田プライドのひとつなのかもしれない。
けれども、今回のW杯の盛り上がりを見てしまうと、「バスケ王国」の名は、沖縄県のものなんじゃないかと思ってしまった。
それぐらい、沖縄のバスケ熱はすごいと思ったし、アメリカとの関係性からも、バスケとの近さがまったく違うんだろうなと思われた。
正直に、沖縄のバスケ熱には憧れてしまう。


秋田県を出て他県に移ってからは、バスケがあまりにもマイナースポーツの立場であったために、申し訳ないことに、自分はサッカーに浮気をしてしまった。
と、言うよりも、秋田県を出ることによって、バスケが、全国的にはマイナースポーツであるという、驚きの事実を突きつけられたという表現の方が正しいだろうか。
漫画「Dear Boys」の冒頭のように、部員すら集められないような状況の学校すらあった。


当時は、「スラムダンク」という伝説的な漫画も登場していなかったから、伝説的な漫画「キャプテン翼」で盛り上がるサッカーには、バスケは叶うすべを持たなかった。
「スラムダンク」も連載されていない、「Dear Boys」も連載されていないような時代、バスケ漫画と言えば、「ダッシュ勝平」一択だったように思う。
「ダッシュ勝平」と言えば、途中から、卓球とかアメフトとか挑戦しだして、バスケ色が薄くなっていくけれども、それはそれでバスケという球技のマイナー性を物語っていたような気がしてしまう。


秋田県を離れてからは、「スラムダンク」や「Dear Boys」を読むこと以外は、バスケからは遠ざかってしまった。
ときどき思い出したように見るのは、女子バスケの方だった。
男子バスケの記憶はあまりないというのが正直なところだけれど、意外と女子バスケについては記憶が残っている。
シャンソン化粧品とジャパンエナジー(現ENEOS)の二強対決時代と、その両者の混合チームのような90年代の女子日本代表は、熱かった。
原田裕花、参河喜久子、村上睦子、一乗アキ、加藤貴子、濱口典子なんて選手が、この時代を彩っていた。
当時の女子バスケは、3Pシュートも多くて、今回のホーバス・ジャパンの基本戦術・ファイブアウトのルーズな原型のようなバスケをやっていたのかもしれない。


女子の方がインサイドでの高さ不足や非力さについて、早くから割り切ることが出来ていたように思う。
インサイドでの勝負を割り切って、アウトサイド重視という新しいバスケが芽生え始めていたけれども、それを戦術として体系化するには、やはりそれなりの時間がかかったのだろう。
そんな日本のバスケを結実させたのが、男女両方のHCを勤めたホーバスHCだったのかと思うと、日本バスケの歴史の重みを感じずにはいられない。
サッカーのイビチャ・オシム監督の言葉を借りれば、「日本代表が日本化」できたといったところだろうか。
ところで、渡邊雄太の母・久保田久美は、その時代から1~2世代前のシャンソン化粧品の選手だったと知って、妙に感動してしまった。
それもまた、日本バスケの歴史の重みを感じさせる事実である。


チームとしてはほかに、久手堅笑美、矢野良子に率いられていた頃の一昔前のトヨタ自動車アンテロープスや、篠崎澪、町田瑠唯がいた頃の富士通レッドウェーブなんてところが好きであった。
優勝請負人・矢野良子なんて、シブかったと思う。
男子のバスケリーグをあまり見ないは、世界との差を必要以上に考えてしまって、冷めてしまうところがあったからだろうか。
このあたりは、女子のバレーボールは見るけれど、男子のバレーボールはあまり見ないというのと似ているかもしれない。
もちろん、バレーボールは、女子と男子のメディアでの注目度が違っていたことも影響しているだろう。
バレーとバスケと競技は違えど、世界に挑める女子バレー、世界との距離が遠くない女子バスケという、共通のイメージがあるだろうか。
男子バレー以上に、男子バスケは、世界との距離が遠かったと言える。
バスケの男子は、これにまた、リーグの分裂騒動も絡んでくるから、どうにも切ない。
それが今では、男子バスケが世界と互角の勝負をしているわけであるから、男子バスケを見て来なかった自分のことを、恨めしいと思える瞬間が訪れてしまったようだ…。


見て来なかった自分のことを恨めしいと思うと言えば、かつて信州ブレイブウォリアーズに一時在籍していた、ジョシュ・ホーキンソンである。
今年はもうサンロッカーズ渋谷に移籍してしまっているものの、代表選抜時には、信州ブレイブウォリアーズの選手であった。
信州在住者にとっては、今度のホーキンソンの活躍は、誇らしく思うのと同時に、もはや黒歴史かトラウマかというくらい、複雑な気持ちにさせられる。
信州の祭りにも参加して、あんなに信州に溶け込んでくれていたホーキンソンが、今ではもう東京のチームの人、そして、日本国民全体のバスケ・プレイヤーである。
フランチャイズチームというものを、もっと応援しておくべきだったと、今となってはもったいなく思う。
私が生まれ育った東北地方と言う土地は、長い間、フランチャイズチームというものには、とんと縁のなかった土地だったから、そもそも、フランチャイズチームを応援するという習慣がなかったのだ。
地元付近にフランチャイズ球団が存在するというのは、豊かなスポーツ文化の象徴である。


東北にプロ野球のフランチャイズ球団のない時代、サッカーにもバスケにもバレーにもプロリーグなどのない時代、秋田人の憧れは実業団のチームであった。
ある時期までの秋田人の憧れの実業団チームと言えば、秋田いすゞ自動車である。
秋田いすゞ自動車バスケ部は、横浜に移転して、いすゞギガキャッツを名乗るものの、しばらくして廃部となってしまう。
いすゞ自動車バスケ部が秋田を離れたあとも、それなりにパイプは残っていたようで、秋田のバスケ選手は、いすゞ自動車バスケ部をひとつの目標としていた時代があった。


いすゞギガキャッツというチームには、能代工業出身の長谷川誠というガードの選手がいて、その時代、秋田県人の期待と敬意を集めていた。
長谷川誠という選手は、実は、日本人で最初にチームとプロ契約したバスケ選手であり、アメリカなどの海外リーグに積極的に挑んだほぼ初めての選手でもあった。
少し前には秋田ノーザンハピネッツのヘッドコーチを務めるなど、地元出身者として、秋田人の思い入れの深いバスケ選手である。
秋田生まれで、秋田で育ち、そして、旅立った世界から秋田に戻って来た、秋田の愛する選手である。


長谷川誠の次の世代の能代工業のエースと言えば、バスケ界の全国レベルのレジェンド・田臥勇太である。
神奈川からやってきて、秋田で成長し、バスケ王国・秋田のプライドを満足させて、世界に旅立っていったのが、田臥勇太だ。
秋田県出身ではないものの、バスケへの情熱から、秋田県の能代工業を選択するというエピソードにはグッとくる。
もっとも記憶に残っているのは、一時期、NBAプレイヤーとしてフェニックス・サンズに所属したことだ。
チャールズ・バークレー、ジェイソン・キッド、スティーブ・ナッシュなどがいて、個人的に昔から好きだったサンズに、田臥勇太が入団するということになって、それはもう驚きだった。
悲しむべきことは、田臥勇太のライバルとなるポイントガードに、ラン&ガン・オフェンスの申し子と言える、スティーブ・ナッシュがいたことだろう。


今、そのサンズには、渡邊雄太が在籍しているわけだから、フェニックス・サンズというチームには、定期的に心惹かれる。
今回のW杯では、華やかな活躍をした、富樫勇樹、比江島慎、河村勇輝、富永啓生、J・ホーキンソンといった選手たちにやはり注目が集まるのだろうけれども、自分が注目するのは渡邊雄太の存在だ。
得点も目立つプレイもそれほどにはなかったようだけれど、もっともつらいところで崩れないように支えていたのが彼だったかと思うと、なんだか泣けてきてしまう。
セルフィッシュの足りていなかった日本というチームに、セルフィッシュさが加わったとき、それをアンセルフィッシュに支えたのが、NBAプレイヤーの彼だったなんて泣ける話じゃないか。


NBAのチームは、シーズンごとに選手ががらりと変わってしまうことが多くて、日本人的な感覚では、なかなか長期間に渡って応援し続けるのが難しいように思う。
それでも、地元のフランチャイズチームであれば、地元民としてチーム自体を応援していけるのかもしれないが、遠く離れたアメリカにあるチームでは、そんな応援もなかなかに苦しい。
NBAのチームについては、にわかファンの繰り返しのような感じになってしまって、そのチームが好きなのかどうか、よくわからなることも多々あるのだが、だいたいそんなものなのだろうか。


そんな中にあって、バークレー時代、キッド時代、ナッシュ時代と、好きになった回数の多いのが、フェニックス・サンズなので、一応、推しのチームと言えるだろうか。
ほかには、ミラー時代のペイサーズ、LJ&ZOの旧ホーネッツ、ペニー&シャックのマジック、キッド時代のネッツ、キャセール&スプリー&KGのウルブズ、ジノビリ&ボウエンのスパーズ、ウェイド&ハスレムのヒート、ラメロ・ボールに湧く新ホーネッツなんてところが好きである。
渡り鳥のクリス・ポールはサンズからいなくなってしまったけれども、渡邊雄太のサンズ加入で、今一度、サンズが推しのチームとなるかもしれない。


ところで、中継のハーフタイムに、ASAHIの緑茶「颯」のCMが流れたとき、なぜだか一瞬ドキっとしてしまったのは自分だけであろうか。
八村塁と渡邊雄太は、WBCの時の松井秀喜とイチローのような立ち位置になってしまった気がする。
ふたりの陽と陰のキャラクター性が、逆転してしまったかのような錯覚がしている。
ホームランバッター、甲子園での5打席連続敬遠の伝説、セ・リーグ読売ジャイアンツ入団、長嶋茂雄との師弟関係、MLBの名門ヤンキース入団と、それまで陽の道を歩いてきた松井秀喜。
アベレージヒッターとしてこつこつとヒットを重ねるものの、ときには、チームバッティングを無視しているとの批判も受け続けたイチロー。
第一回WBCへの不参加を決めた松井秀喜と、参加を決めて第二回WBCでは格別の輝きを放ったイチロー。
ふたりの陽と陰のキャラクター性が逆転したのは、まさにWBCへの参加・不参加を表明した、そのときだったように思う。


今度もまた、同じような錯覚が起きている。
レイカーズというNBAの名門チームに所属して、華々しい活躍をする八村塁。
その輝きに押され気味だった渡邊雄太ではあったけれども、今大会の活躍で、日本国内では間違いなく格別の輝きを放つ存在となった。
八村塁と渡邊雄太の、陽と陰のキャラクター性が逆転したように思えている。
この先、パリ五輪では、渡邊雄太と八村塁のふたつの道は交わるだろうか。
ふたりが、ともに揃って陽の道を歩むような、そんな機会となるであろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?