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映画『花束みたいな恋をした』がしんどかった話



タイトルにもある通り『花束みたいな恋をした』という映画を一ヶ月ほど前に見てきたのですが、これを見てからずっとしんどくて、しんどくてしんどくてたまらなかった。

自分はそもそも、映画を見るのが苦手です(拘束時間の長さ&感情の消費エネルギーが半端ないため)。流行の流れにもついていけておらず、尚且つ、「これ、どうせ若い人たちが”エモい~~”って騒ぐような映画だろう」と、とにかく斜めに構えていて(ごめんなさい)(自分も20代です)見てたまるか、って思っていたんですけど。友人に誘われたのをきっかけに、その掌をことごとく返して見に行ってきました。 

見に行った結果、ただ「エモい」の一言で片付けられるような、そんな映画ではないなと私は感じました。でもだからといって、劇中の彼らを「いいな」と思ったり、羨ましさを感じたりすることもなかった。私はただしんどかったです。その理由を考えてみたので、今日はそれについてお話しようと思います。

(※以下、若干のネタバレ要素があります。ご留意ください!)


「始まりには必ず終わりがある」という現実


まず感じた一つ目のしんどさは、「始まりには必ず終わりがある」という現実に対してです。

私は「恋愛映画」=「きれいなオチでぶつ切りのラブストーリー」という偏見があったのですが、この映画はそんな感じではなかった。脚本や演出がすごくリアルで、一つの恋の始まりと終わり、きれいなオチでぶつ切りのラブストーリーが終わるのではなく、この2人はこれから先も生きているのだろう、その彼らの人生の数年分を、ただこの目で見つめていた感じ。この恋があったのも彼らの人生の「一部」である、言い方を変えれば、彼らの人生の「一部」に過ぎないんだと、良くも悪くもスルッと入り込んでくるようなお話でした。

だからこそ、映画を見てから自分の過去や未来について、めまぐるしく考えてしまった。人と出会い、恋に落ちて、すれ違い、そして別れ、そしてまた、別の誰かを好きになって…。多かれ少なかれ、人は皆このような出会いと別れを繰り返すのだと思います。そんな人間の能天気さを「強いなぁ」と思うとともに、そんな事実がしんどくてたまらなかった。

「始まりには必ず終わりがやって来る」それをなんとなく頭で理解しながらも、それでも恋に落ちる自分に抗えないこと。終わりがあると悟りながらも、その人と向き合い続けること。もしその恋に終わりがやって来れば、きっとその苦しみは耐え難いものになる、でも、いずれはその別れも苦しみもきれいに消化されて、また新たな人を受け入れてしまう、そんな可能性が誰にでもあるということ。

そんな人間は酷くて、無慈悲で、そんなの考えられないし、信じたくない!って思っていたけれど。結局のところ、1番の参考文献は自分自身で、自分自身が1番の証拠なんですよね。そういう恋の始まりと終わりを何度繰り返したって、誰かを好きになることを諦めきれない、それでも誰かと共に過ごすことを選ぶ、そんな人間のどうしようもなさ、健気さ、理性では抗えない感情の大きさ、それに従う美しさと、苦しさ。そういう現実を何の脚色もなく突き出されたような気がして、それゆえに私はとてもしんどかったです。


「同じだから好き」が怖かった


もう一点、自分にとってしんどかったのは、この映画の主人公である麦(むぎ)くんと絹(きぬ)ちゃんが、たくさんの「同じ」に巡り合う中で、お互いに惹かれていった、という事実でした。

麦くんと絹ちゃんは、逃した終電がきっかけで初めて出逢います。そこから好きな映画監督が同じだと判明すると、その後も次から次へと、好きな歌も本も同じ!行こうとしてた芸人さんのライブ、2人とも同じチケット持ってた!のに、2人とも行かなかった!などなど、様々な共通点が怒涛の勢いで見つかっていく。とにかく、たくさんの「同じ」好きなものが重なって、そして「偶然」という魔法が作用して、2人はどんどん惹かれあっていきます。

これに対して「しんどい」と感じた最大の理由は、私自身が作中の2人とは正反対で、自分の好きなものを他人と共有することがめっぽう苦手だったから、だと考えています。

自分にはどこか、「人は人、自分は自分」という、他者に対する諦めがあります。そう思うようになった背景には、自分の好きなものは自分で守り抜けばいい、それで十分だ、と思う気持ちと、「へえ、そういうの好きなんだ(笑)」みたいな感じで、他人の趣味やセンスを見定めて評価する文化が、この世界には根付いている、と感じていたからです。

自分の好きなものなんて、自分がその良さをわかってるからそれでいい、だからあなたも、あなたの好きなものを好きでいなよ、私はそれについて何も口出ししないから、というマインドが自分の根本にはあるのに、それが安易に許容されない現実の不自由さが苦しかった。

だから、どんどん好きなもので繋がっていく、躊躇なくそれをやってのける、そんな他人同士の男女を見つめるのが怖かった。好きなものが「同じ」だとわかり、お互いに惹かれあっていく。それは、その人という「人間」のことを好きになる、というよりは、自分のセンスは間違っていなかった、それを肯定してくれる、そんな自分を守る鎧のような存在がいることの嬉しさであり、尚且つ、「私たちは一緒である」という強い縄張り意識のようなものが芽生え、2人はそういった「好き」の仮面を被った、何か別の物にすがりついているように見えました。

しかし、いくら自分と似ている・同じ価値観を持っていると感じた人間同士での関わり合いでも、すれ違いや衝突が生まれるのは避けられません。実際に劇中の2人も、学生生活の終焉や就活、社会人としての生活等に揉まれる中で、小さなすれ違いを繰り返していきます。

麦くんと絹ちゃんは、同じ価値観や趣味を共有するのが楽しくて、心地よくて結びついたのでしょうが、「同じである」「似ている」という意識を強く持ちすぎたからこそ、小さなすれ違いを繰り返していくうちに、「あれ?こんなはずじゃなかったのに」という違和感が重なっていったのだと思います。(このすれ違い描写がなんともリアルで生々しいので、まだ鑑賞されていない方は、是非!)最初から「似た者同士」という認識のもとで結びついてしまったぶん、「同じ」であることがそもそもの前提になってしまい、結局は異なる人間同士であるのに「わかりあえるはず」という思いが先行してしまう。

そして、最終的にはその関係性を修復するのが困難になり、2人は別れるという決断を下します。

花束みたいな恋なんかしたくない

映画タイトルにある「花束みたいな恋」という文言に対して、映画を見た人々から様々な解釈が飛び交っています。花束みたいに最初はキラキラしていて美しいけれど、いつか花は枯れてしまうように恋にも終わりが来る、だとか、麦くんと絹ちゃんのたくさんの思い出が集まってひとつの「花束」になり、花は枯れてもドライフラワーになれることから、2人が紡いできた時間は「過去の記憶」として残り続ける、だとか。

私個人の解釈としては、麦くんと絹ちゃんは2人とも「花」で、2人合わせて「花束」だったのかな、と思いました。2人の思い出=花束、というよりは、2人という「人間」自体が花束を構成している、という感じ。

花束は、「花」が組み合わさって「花束」になります。それと同じで、麦くんと絹ちゃんも、2人で一つだったし、それが絶対だった。逆に言うと、2人で一つになっていないと、うまくいかない2人だったのかもしれないな、と。

私は相手が誰であろうと、自分の「好き」を守りたいと思うし、その代わり適切な距離感で、相手の好きなものや大切にしたいものも、何も邪魔せず尊重したいって思っています。同じだから好き、分かち合えるから好き、それはすごく素敵なことに見えるけれど、自分の理想はそうじゃなくて、一人がベースだけど、一人でも楽しく生きていけるけれど、あなたといたらもっと楽しいから、私は一緒にいたいよって、そういう気持ちを大切にしていたい。

だから私は、そもそも恋が「花束」なんかじゃなければいい、と思います。花と花同士が合わさってひとつになれる、そこでようやく形になる、そんな花束じゃなくて、その辺の雑草でも、サバンナを闊歩するハイエナでも、なんでもいいんです。それぞれが自立していて、自分の暮らしや生活を持っていて、好きなものや守りたいもの、大切にしたいものがあって、それをベースに生きている、そういう個人があえて結びつく、そんな関係を築きたい。

なんて、最後の最後に個人的な恋愛観を披露してしまい、ほんの少し恥ずかしい気持ちになっていますが。でももしかすると、これは恋愛のみに対する価値観ではないのかもしれませんね。あらゆる人間関係において、「人は人、自分は自分」という毅然さをある程度保つことは大切で、自分と距離の近い人にほど、「他人である」という認識が時として必要になるのかも(少しさみしい気もしますが…)。

そしてあわよくば、お互いのことを尊重し合い、こんな理想の関係を築ける人と一緒になれたら、きっと幸せなんだろうな、と私は思います。この『花束みたいな恋をした』という映画から、始まりと終わりのしんどさを真正面から突きつけられ、それでも尚、そういったことを馬鹿正直に願ってしまうし、未来を期待してしまう。人を好きになることも、誰かと寄り添い特別な関係を築いていくことも、諦めきれずにいる。なんて、そんな私が実は一番、花束よりも浮かれてしまった、典型的な「恋に盲目」野郎なのかもしれませんね。



休んでかれ。