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「カッコいい」とか「美しい」の定義がかわる。価値感は相対的なのだ。

その昔、外でちょっと一息コーヒーでも飲もうと思ったら、喫茶店でタバコの煙モクモクが当たり前だったし、なんなら松田優作的で、カッコいいみたいな意識があったかもしれない。お酒を呑みに行けば、「とりあえずビール」以外は許されない暗黙知も、日本酒はオジサンの飲み物というのもあった。

ワカモノは、ロックスターに憧れバンドを組んだ時代もあれば、お笑い芸人がカッコいいという時もある。今ならスタートアップで、社会課題を解決するというのもある。
もちろん、どの時代でもいろいろな人がいるから一概には言えないけど。

今は、スタバのカフェで、コーヒーを飲む人の方がスタンダード。タバコ吸いながらなんて、ほとんどいない。何より、カッコいいものには、感じなかったりする。(松田優作には、また別の魅力があるから例外です)

今まで、カッコいいとか、美しいとか思わなかったコトが、ガラッと変わることがある。世の中のトレンドに引っ張られるんじゃなくて、自分の中で、「〇〇がカッコいい」の定義が変わり、価値意識が、今と違うところに芽生える。

そんな体験が、ワタシには落語です。


「意味づけ」のパワー

日常の何でもない1日が、「今日はハロウィンだよ!」って意味づけされると、突然躍りだし、特別の日に変貌を遂げる。
自分の行為に意味が与えられると、新たな価値観を持ち合わせるようになるんだと思う。この「意味づけのパワー」が原動力になり、ゴミがお宝に変わる。

落語を聴いて、ワタシは価値観が激変した。

ただのオジサン、オジイサンが、座布団のうえに座り、噺はじめると、カッコよくみえるのだ!

そんな噺家さんは、たくさんいるんだけど、1人あげるとするなら、三遊亭小遊三師。72歳のおじいさんの、噺を聴き終わった瞬間、「カッコいい」と想うキモチに気づいた。その時の演目は、「蜘蛛駕籠」。


我ながら、きもちわるいw


落語は、聴き手の想像の余地が大きい、一見弱い芸能である。だからこそ、聴き手の心象風景に呼応する形で、その表情を変える。仏像の表情が、眺める側の心象によって、変わるのと同じだ。

複数の「意味」を内包し、その時その時のワタシに、語りかけてくる落語だから、何度でも聴きたくなる。

聴くたびに、その「意味」が変わる。


いや〜小遊三師匠カッコいいなぁ。誰にも伝わらないだろうなぁw


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