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自分とのコラボから始める。|リミティング・ビリーフ(可能性を制限する思い込み)

私はライフワークとして「対話の場」というものを、近所で開催しています。呼びかけ人がテーマや問いを掲げ、それに関心を持つ方々を招きし、共感的な話し合いを通じて、より賢い道を一緒に考えていこうとするものです。

そんな取組によく参加してくれる友人が、今度は自分で対話の場をホストしてみたいと声をかけてくれて、先日、開催することができました。そこで起きた意味の流れは、私にとって大切なもので、それを記録しておきたいと思いました。

このノートの内容は、その会の中で、私が何にどのように気づき、どのように変化したのかを振り返るものです。そして、これは自分自身の内側のシステムをどのように変えていくかということの一つの当事者研究/ケーススタディになると考えています。(2019.8に一部追記)

モヤモヤと一緒にいるためのスペースをつくる

その日の会場は、私の家の近くにある大学の側で、学生たちの手によってコミュニティスペースとして改装された古民家でした。また、竹をくり抜いた中に蝋燭が置かれたランプのようになっている作品がそこかしこに置かれ、会場の暗がりを暖かく照らしていました。他にも様々なお茶やお菓子など、参加者がリラックスして過ごしやすい空間(物理的なスペース)が演出されていました。

その雰囲気づくりのおかげで、10人ほどの参加者は初めて会う方が多いにも関わらず、自然と話を始めました。その流れのまま、当日のホストから趣旨の説明があり、参加者に問いが提示されました。

「あなたにとって本当のあこがれとは何ですか?」。

この問いは予め知らされていたので、私は好きなミュージシャンの話でもしようかと思っていましたが、いざ小円坐になって、席を交換しながら話していると、様々な角度からテーマについて光が当たってきます。

・あこがれとはそもそもなんであるか。
・何に対するあこがれであるか。
・憧れを持つことで何が起こるのか。


参加者の様々な意見を聞く中で、少なからず聞かれたのはこんな意見です。

・あこがれとはあるべき姿と現状の差である。
・自分の中に無いものに対して持つものである。
・そのギャップによって人は方向づけられる。

それを話すことで憧れに向かって焚き付けられ人もいた一方で、私は黙って静かに過ごしていました。

上のような考え方が、頭では理解できるのですが、腑に落ちず、言葉を出すことができなかったのです。それどころか、考えれば考えるほど、違和感とモヤモヤが高まってきます。なにか恐怖のような感情までわき上がってきました。
 
私はホストが与えてくれた場にどっぷりと身を預けていましたし、サークルにいた皆がたっぷりと沈黙(余白、器=スペース)を与えてくれたので、私はそのモヤモヤにフタをせず、一緒にいることができました。すると、そのモヤモヤは少しずつ氷解し、溶け出した想いは言葉になっていきました。

もし、四角い会議室に押し込められて、スーツを着た人から「制限時間内で、論理的に話してみろ」などと言われたら(それを私は「スペースがない」「危険な場」と言いますが)、それは起きることがなかったことでしょう。

「憧れ」に苦しんできた私

私は、このように語りました。

「私は憧れを持つこと/持たれることによって、今ここにいる自分を大切にできず、苦しい思いをするという時間をずいぶん長く過ごしてきた気がします。」

というのも、憧れることに関して言えば、私は小さな頃から、自分の外側に正しいもの、あるべき姿があると思ってきました。 親戚が多い家の長男だったから規範意識が強かったのか、学校でそういう教育も受けて来たからか。私は一生懸命、小さな頃から人、特にオトナの言うことを聞きましたし、教科書の中身を覚えました。そうすれば、自分は正しいものになれると思ったのです。

そして、実際に正しいものになりました。細かい逸脱はあれど「国公立大学を卒業して、地元に戻ってきて、公務員になる。そして、学生時代から付き合った彼女と結婚をして、新築のアパートと、新品の家電製品に囲まれて暮らす」という。

今思えば、本当に形だけで、意味がありませんでした。

今となって理解しているのは、私は虚しいロボットのようだったということです。

外からの期待に応えるべく、まるで仮面をつけるみたいに、自分ではないもののフリをする。そのフリが上手だったのか、その仮面を褒められることが結構あり、得意な気持ちになりました。それが繰り返されて、強化されていきました。さらに仮面を厚くし、何枚もつけていったのです。
 
その結果、私は自分自身ではない自分で、人生の少なからぬ時間を過ごすことになり、様々なトラブルに見舞われました。他者とのコミュニケーション、人間関係、仕事、日々の暮らしに至るまで。自分のに無いものをでっち上げるのですから、まるで魚が木に登るようなものです。期待される姿と、本来の自分の望みとのギャップを感じ、外では正しい存在として胸を張りつつ、その実、内側では自分は「足りない人間」であると、自分を否定することを繰り返す。生きることに関してのほとんどに、顕在的であれ、潜在的であれ、苦しみや痛み抱えていました。
 
たとえば、こんな経験があります。私は、大学生の頃から、いかにも教科書的に書いてあるような感じで、きれい好きなフリをしてきたのです。当然、パートナーからはきれい好きであることを期待されました。しかし、自分で演じたほどには、実はきれい好きではない私は、求められるほどには身の回りをきれいにできずに、何度も咎められました。

私は「自分はきれい好きな人間である」と、自分を洗脳しようとしましたが、しきれませんでした。 それどころか実際は、脱いだ靴下を片付ける程度のこともできない自分がいて、惨めな思いをしました。こう書くと、くだらないことのように思えますが、日々、そのような仕組みのコミュニケーションが繰り返されると、まるで常に上司に怒られているような気持ちで、精神的に追い込まれてくるものです。

そのうちに、私は相手の価値観を押し付けられている、という気持ちになってきました。私はモラルハラスメントを受けているのだ、というような被害者意識が芽生えてきたのです。

私の問題設定がそこからですから、自ずと解決策も他責的(人のせい)でした。

物語の中に映る自分を見つめる

ともあれ、当日は、私がそんなことを語るための沈黙(=スペース)を、サークルの中にいる方々は、私に与えてくれました。

そのスペースの中を漂うように、私は自分の物語を語りました。それは、ただの沈黙ではなく、私は何人かの方から目線で「(どうぞ話を続けて、止めなくていいよ)」と、好意的な関心をもって促しを受けていました。
 
それはまるで、鏡に映る自分を見つめるような時間でした。経験を再現的に語ることを通じて、一歩引いた目線で、これまでとは違う視点から過去を見ていたのです。  そんな風にして”彼”を見つめる私からは、自然とこういう言葉が口をついて出てきました。 

「私の自業自得だったのかもしれません。私は、人から良く思われたいという自分の誘惑に負けて、自分自身ではない自分を、彼女をはじめ周囲の人々に見せ続けてきたからです。つまり、自分自身ではないものに憧れ、自分に嘘をつき続けた私の愚かさ、嘘をつき通せない私の心の弱さが、そもそもの原因だったのでしょう。」

その時、私が問題を見つめるまなざし、その矢印が、私の外側から内側へと向いていくのを感じていました。他責的な態度から、自責的な態度へと変化してきたのです。

受容、共感、肯定的意図

すると、場に再び沈黙が訪れました。

しかし、そこに、何もなかったのではありません。その場には、私に対する共感や受容があったと感じました。サークルにいる方々は、それを正しいとも間違っているとも、良いとも悪いとも、判断するようなふるまいせず、ただ「私は、私の中に愚かで弱い人間がいると思っている」ということを、受け容れてくれたのです。
 
「聞き手から、私に対する態度」は、「私から、私に対する態度」へと転化し始めました。今度は、私自身が、”彼”、つまり愚かで弱い自分を、受け容れ始めたのです。

その存在を認め、“彼”が持つ肯定的な意図を聴き始めました。そして、私は“彼”にこう語りかけるに至りました。

「愛されたくて、頑張ってきたんだね」

“彼”は愛を得るために、よかれと思って、自分に嘘をついてきたのです。自分に嘘をつくという手段は愚かだと思いますが、その目的(よかれと思う意図)は、否定すべきものではないと気づきました。“彼”が、私の中へと統合されはじめた瞬間でした。やっと帰る家を見つけたような気持ちになりました。

 そんなことを振り返りながら歩いた帰り道、気付けば夜の12時でした。会場であった大学近くの住宅街を通り抜ける夜風は少し湿っていて、季節が夏に移り変わることを私に伝えていました。

思い込みが現実をつくる

私は新しい朝を迎えました。すっきりとした晴れではなかったけれども、雲の間から朝陽が漏れ出ていることを私は見逃しませんでした。

一歩引いて自分を見つめ直してきたことで、私の中で次のようなことが繰り返されてきたことに気づきました。それは、このようなものでした。

1「思い込み:私は不足した存在だ。このままでは愛されない。」
2「感情:恐れ、落胆、欠落感、焦り、劣等感」
3「反応:依存、人の期待に答えなくてはいけない」
4「結果:人のせい、被害者意識、相手への非難」
1へ戻る「思い込みの強化:やはり私は不足した存在だ」

自分が不足していることを前提にすると、私の意識は、それを補ってくれる誰かを求めて、意識が外に向きます。その人が見つかれば、私は、その人に気に入られるように、自分に対してウソをつきます。自分自身ではない仮面を被って見せるのです。相手はそんな私に対して期待を持ち、私はさらに仮面を厚くしていきます。これが、繰り返されていくループとなっていきます。

つまり、私が自分自身でないものとして生きざるを得ない環境・関係性は、他でもない私自身がつくり、強化してきました。この「負のループ」は、単なるボタンの掛け違いにとどまらない、破滅的な結末をもたらすことがあります。このゲームを上手にプレイできるように頑張るほどに、自分の人生が自分のものでなくなって行くのですから。

このような思い込み(私の場合であれば、「私は不足した存在だ。このままでは愛されない。」という信念)のことを、リミティングビリーフ(limiting belief)と呼ぶことがあります。私たちは様々な思い込みを持ちながら生きていますが、その中でも私たちの可能性を制限するものをそう呼びます。(一方で、「きっと私たちは世界を変えられる!」というのは、可能性を解放する、アンリミティングなビリーフなのかもしれません)

前提となる思い込みを変えない限りは、対症療法

実は、私は「自分にウソをつかない」という旨の助言を、ずいぶん前に言葉では聞いていました。たとえば、「みんなで〜しよう」という誘いに対して、私ひとりでも私がしたくなければ「私は〜したくない」と言うことなどです。

それをやってみたところ、私の仮面に期待をする人ほど、「仮面を外すような行為」に対して強く反発をしてくることがわかってきました。


・過去に引き戻そうとするパターン
 「そんなのは、あなたじゃない」
 「前はそうじゃなかった」
・同調圧力をかけるパターン
 「みんなそうしている」
・危険を知らせようとするパターン
 「そんなこと言ったらみんなはどう思うかな」
 「そうやってあの人はだめになった」
・論破しようとするパターン
 「じゃあ対案はあるのか」


このように様々にありますが、いずれにしても、人を恐怖で支配しようとしている点に共通点があります。まるで底なし沼から手が伸びてきて、足首を掴まれて、凍りつくような気持ちになるのです。そして、また負のループへと引きずり戻され流のです。実際、私はそれが怖くて、また仮面をつけるということを繰り返していました。

このことから私が思ったのは、行動習慣を変え、現実を変えていくために、「自分にウソをつかない」という「する・しない(行動レベル)」についての決意をするだけでは、その変化に限界があるということです。

ゲームのルールが変わらないからです。それはまるで、「花壇に新しい花を植えたにも関わらず、枯れてしまった。なぜなら、土の中にかつて生えていた草の根がびっしりと這っていたから」というようなものです。

したがって、まずは、土台を入れ替えること、つまり、私の新しい行動・やり方を支える、新しい態度・あり方を見つめ直すことが必要です。

具体的な実践法はいくつかあって、こちらの本は私の役には立っています。

それに加えるとするならば、私にとっては、内省と瞑想が有効です。これは私のやり方なのであくまで参考にしてください。

ワーク① : 自分の内側にある自由を感じる。

とはいえ、新しいゲームのルールに基づいて、現実を再構築するためには、実際、かなりの勇気が必要です。羊の群れの中で、羊の着ぐるみを脱ぐような気持ちになることもあります。

そんな時、えいやあと、急に、無理に行動する必要はないと、私は思います。

まずは、自分に選択の自由があることを、たっぷりと感じることから始めることをオススメします。

『夜と霧』という本があります。1946年に出版されたヴィクトール・フランクルというユダヤ人精神科医が、ナチスの強制収容所で経験したことをつづったものです。彼は、収容所で起きた事実を記録するとともに、その内部にいる人々が何に絶望し、何に希望を見い出したかを観察する中で発見したことを、このような言葉にまとめています。

「あらゆるものを奪われた人間に残された、たった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である」

人間は、いかなる絶望的な状況にいても、内心で絶望するかどうかは選ぶことができると言うのです。あらゆるものを奪われた人間ですら、その「内なる自由」が心の中にあるとすれば、わたしや、あなたは、どうでしょうか。

これまで、これまでの人生の中で、自由や愛情を感じた瞬間

これまでの人生の中で、自由や愛情を感じた瞬間について、思い出してみてください。その時、あなたはどこで、誰と、何をしていて、どのようなものに触れて、どのようなものを匂っていましたか。

その時に感じた自分の状態とつながってみるというのが、私の個人的な実践としてオススメしています。 自分の内側にある自由を感じるということです。

ワーク② : 固執しているものを、大胆に諦めるように自分を誘う。

内省の邪魔をしてくるのは、ほとんどが他者との関係性です。自分の中で自由を感じようとしているのに、もう嫌な顔が浮かんで仕方ない。なんなら、トラウマ的な体験までやってきてしまいそうになることがあるかもしれません。そして、そういうものに囚われる自分に対して、非難の声まで聞こえてくる・・・・。

そんな時にオススメするのは、諦めです。

身もふたもない感じがしますが、私にはいい感じがします。

私の場合は、いくつかの思い込みの複合でがんじがらめになることが多くて、一つ一つほぐしている間に精神がやられてしまいそうになることがあります。そんな時は、もう大胆に諦めます。何を諦めるかというと、自分のが固執していそうなものです。

私の場合は、正しさや、勝つことです。その逆を自分に対して、言ってみるのです。

なんだか気が引けることを、あまり考え込まずに、あえて口にしてみます。そして、それを頭ごなしに否定せずに、じっと聞いてみます。

(例)もうさ、間違っていこう、負けちゃおうよ。そんな器は、今の君にはないよ。

「けっこうな恐怖もあるのですが、なんだか変に自由な気分」になったとしたら、成功に近いはずです。多分、その辺りに自分が固執しているものがあるということです。それで何かがすぐに解決するでもないのですが、それがとっかかりになって、次の一方が見えてくることが、個人的には結構あります。

私の場合は、「今は、できない」という自分のつぶやきが、救いでした。これは口をついて出てきたことだったのですが、今できないだけですから、私はいつかできるようになることは、諦めなくていいのだ、と思えたのです。

以上が私のやってみていることでした。すぐに人と対話、すぐに行動ということが役に立つことは多いと思います。しかし、自分と話してみること、その前段として、自分の中に何もない余白を作ってみることが最初の一歩になるかもしれません。

まずは自分とのコラボを。

自分と自分の関係が不健全な状態で、健やかに他者と建設的な関係を築くことや、まして、コラボレーションをすることができるはずは、なかったんだよな、というのは今となっての大きな反省です。

人の話を聞くのも大切ですが、まずは自分の声に耳を澄ませるということ。いいコラボレーションは、まず自分の内側から始められるのだと思います。

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