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2020年書いてよかった3本

今日の昼間は、散歩したり、日向ぼっこしながら、一年のふりかえりに今年書いた記事を眺めていました。

書いたことは、いずれも、仕事をつくって生き抜いていくために、「学ばざるを得ない」環境に置かれて、学んだことだったなと。記事は、どれも恥ずかしい出来でしたが、それでも、書けてよかったものがありました。

大袈裟に聞こえるかもしれませんが、それらは、私にとっては「これを学んでなかったら死んでたかも…」ということだったし、生意気にも、もしかしたら人の役に立ったかもなと思うものもありました。

何のお礼にもなりませんが、ここでは、今年書いた中でよかったと思う3つ紹介します。「〇〇力」と見出しをつけてみました。また、さらに詳しく知りたい方のために、私にとって助けになった本や動画、そして引用文をつけました。

三位 対話力

今年は、「対話」によく助けられました。

それは、「短い時間で、大切なことをやりとりする」「少ない量で、質の高いやりとりをする」というスキルです。仕事をオンライン化しても、コミュニケーションの質を下げないために役立ちました。noteに書いたのはその具体的スキルです。

ただ、それ以上に、わたしにとっては、対話は精神的なサバイバルスキルとして助けられました。

「内省」は、ある体験が、私にとってどういう意味があったかという解釈です。

「対話」は、それが、私たちにとってどういう意味があったかという、多角的・集合的な探求です。バラバラな点の体験を結びつけ、みんなの物語にするスキルともいえます。

今年は、ほんとにいろんなことがあった1年で、個人的には、喪失感がしんどくて、考えてはいけないことを考える時間もありました。それでも、きっとこんな意味なんだな、と友人と見出すことができたからこそ、絶望し切らずにすみました。

その補助線を引いてくださったのは、先人たちの言葉でした。特に、ヴィクトール・フランクルアンドリュー・ソロモンには助けられました。(本のAmazonリンクに飛びます)

TEDは日本語字幕あります。

誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなにやさしい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンのひと切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人たちがいる。そうした人たちは、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれたのだ。|フランクル
その子供たちは最初から「神からの贈り物」であったわけではありません。私たちが、贈り物だと考えることを選んだのです。|ソロモン

第二位 目的を描く力

私たちは、「どうにかして、なんとかしたいこと」を持っている人のそばで働きます。

もう少し丁寧にいうと、「どうにか変えたい今ある仕組みに直面しているが、今はやり方がわからない、一人ではどうにもできない。でも、なんとかしてそれを変えたい」という、心に種火を灯した人たちです。そこに、私たちは対話や参加型アプローチという手段を提供します。

そういう人たちの側ではたらくと、私は日に日に、若返っていく感じがします。岡本太郎風にいえば、若さとは、「現状をよしとせず、変えるために行動する覚悟の強さ」です。年齢は関係ありません。私は30代のオッサンですが、未だ「現実を理解するには、きみは若すぎる」と言われます。その回数を毎年どんどん増やしていきたいと思います。

「そういうふうに現実はできていないんだよ」。それも言われますね。そんなことは、とっくにわかっていますよね。その現実とやらを、今のままにしたいのか。それとも、変えたいのか。それは選択の問題です。

そんなチャレンジをする時、目的を描く力が、私たちにパワーを与えてくれます。フレデリック・ラルー、岡本太郎の話が役に立ちました。

人生の目的は、神秘のようなものだから自分で見つけたり、決断することはできない。人生なるものの目的が、私を通じて現れることの可能性を広げておくことしかできない。私たちにできるのは「人生が私に何をして欲しいのか」に耳を澄ませるだけなんだ。|フレデリック・ラルー
確かに危険を感じる。そっちへ行ったら破滅だぞ、やめろ、と一生懸命自分の情熱に自分で歯止めをかけてしまう。しかし、よく考えてみてほしい。あれかこれかという場合に、なぜ迷うのか。こうやったら食えないかもしれない。もう一方の道は誰でもが選ぶ、ちゃんと食えることが保障された安全な道だ。それなら迷うことはないはずだ。もし食うことだけを考えるなら。そうじゃないから迷うんだ。危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。本当はそっちに進みたいんだ。|岡本太郎

第一位 現場を動かす力

頭と心が死にかけているときに、私を助けてくれたのは、手と足でした。つまり、記事で言うところの「ボールを転がすこと」でした。幸せだから笑うのでも、笑うから幸せなのでもない。誰か笑わせるから幸せなんだ。

それがいいとか、悪いとかじゃなく、本当に、ただ厳しい現実を生きぬくためのサバイバルスキルとして書きました。本当に窮地に追い込まれたときに、どうしたらいいか考える指針として、誰かじゃなくて自分への頼り方を書きました。

ありがたいことに、たくさんの好意的なリアクションをいただきました。ただ、この記事は個人的には、諸刃でした。その内容は、不条理な立場に置かれた人に、「もっとかんばれ」と言っているようにも読めるからです。

それでも、書くことにしました。その意図は、私は読み手を、自由と自立を実践する人になる物語へと招待したかったからです。この記事を読んでる人は、自立する力を持つ人なのだということを信じました。

どういうことかというと、私たちのような、構造的に弱い立場にいる人々は、自分のことを「救ってもらうことを待っている、かわいそうな人」や「若いから、まだ力がない。誰かの手を借りないとなんにもできない人」と思いこむと、ドツボです。

不条理な立場に置かれたからと言って、私ってこんなかわいそうなんですという「かまちょ」や、政府や会社、大人を批判するためにぐずぐずとスマホこする「批評家」になると、私たちはますます自立が難しくなります。

それは、「被害者救済団体」が、寄付をもらうために自分たちが被害者である主張を延々と語り続けないといけなくなる、という罠にも似ています。生き抜くために、「被害者」としてのアイデンティティーを強化していくのです。もっと卑近な例でいえば、男性にちやほやしてもらうために「か弱い女」としての物語を語り続ける人っていますよね。そんな物語の続きを、読みたいのかよ?

自分が読みたくもない、否定したい物語の登場人物に、自分がなること。それが、いいとか悪いとかじゃなくて、それって苦しいことだと思うんです。そういう人はポジショントークや二枚舌が増えるので、周囲からの信頼も失ってしまいます。

そんな状況についハマらないように、若い仲間に対して、自分がどのような言葉をかけたらいいのかを、悩みながら書きました。いずれにしても、偉そうで余計なお世話ばかりでしたが、何かのとっかかりになったなら、嬉しいです。

「自由を練習する」という視点では、オードリー・タンの言葉がインスピレーションになりました。

自由には2種類あると、私は思っています。ひとつは、ネガティブ・フリーダム。もうひとつは、ポジティブ・フリーダム。
「ネガティブ・フリーダム」とは、既存のルールや常識、これまでとらわれていたことから解放され、自由になること。「個人として何かから自由になること」と言ってもいいでしょう。ネガティブといっても否定的な意味ではありません。いわば消極的な自由であり、これが自由への第一歩です。
「ポジティブ・フリーダム」とは、自分だけでなく他の人も解放し、自由にしてあげること。みんなが自由になるにはどうすればいいのか、具体的なToDoを考えること。自分の可能性を力に変え、その力を誰かのために役立てることです。|オードリー・タン


ということで以上、今年書いた3本をふりかえり+おまけでした。ここまで、私のふりかえりにお付き合いいただいた方、ありがとうございます。

最後に、今年も私がなんとか生き延びることを支えてくださった友人とご縁に感謝をしたいと思います。来年もどうぞよろしくお願いします。よいお年をお過ごしください。



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