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ギロチナイゼーション 1582 パート4

 ギヨタンは牢獄の中に響く声で目を覚ました。壁に背中を預けたまま、周囲の音に耳を澄ます。聞こえてくるのは自分と同じようにここへ連れてこられた人々の寝息だけ。再び声が聞こえてくることはなかった。

 凍えるような冬の夜だった。格子窓から部屋の中に向けて、淡い星の光が射し込んでいる。きっと他の部屋からも同じ夜空が見えるはずだ。名家の出であるとか、信条を変えなかったとかの理由で、一体どれほどの人々がここで囚われの身になっていることだろう。その数は百や千ではきくまい。いつ来るとも知れぬ死を待ちながら、檻の中で己の無力を噛み締めて生きる人々。ひょっとすると彼らはこんな寒い夜更けに、眠るように凍え死んだ方が良いのかもしれない。

「ギヨタンよ」その時房の中に声が響いた。あれが戻ってきたのだ。ギヨタンはぎくりと身を震わせ、伸ばした膝を抱えた。自分の姿を何かに見られている、という本能的な感覚があった。「お前は死なねばならぬ」声は続けた。ギヨタンは姿の見えぬ相手に向けて大声で怒鳴った。「お前は何者だ」

承前

 しばしのあいだ沈黙があった。やがてまた、「ギヨタンよ」声が言った。紙に書かれた言葉を読み上げるような、平坦な調子だった。ギヨタンの発した言葉を、相手はまるで解していないように思えた。「お前が打ち首になったのがそもそもの事の始まりだ」

「事とは。なんだ。私が死んだ後に何が始まる」声が届かないとわかっても、ギヨタンは聞かずにはおれない。「首を切られたとてお前は死ぬことはできぬ」これは以前言ったことと同じだ。ギヨタンは覚えている。記憶の中からこだましてきたように一言一句変わらない。「看守がお前に渡したものがあるはずだ」ではこの言葉は?

 ギヨタンははっとして身を壁に寄せる。彼のコートから転がり落ちたものがある。小さなナイフの柄だ。ギヨタンが見苦しく足をばたつかせると、蹴り飛ばしたそれから刃が飛び出た。彼はナイフをじっと見る。刃は星明かりの下で冷たく光り輝いている。「それで腹を斬れ」声は並々ならぬ敵意を湛えて言った。「そうでなければ死ねぬ」あくまで日用品として渡されたナイフであった。王党派の看守たちは牢の中の暮らしを少しでも豊かにするために骨折ってくれている。しかしこれは……見ようによっては、これを使って自害せよとも……。

 腹を斬れ! 声は同じ言葉を繰り返した。寸分変わらぬその科白を、芝居の稽古のように何度も何度も。ギヨタンは今や顔面蒼白となり、体中を震わせながら、その手はしっかりとロザリオを掴んでいた。「悪魔め。去れ」彼は声に抗った。「斬首の力は絶対だ」ギヨタンは信じた。断頭台にかけられた受刑者たちが、苦しむことなく死んでいったと。自分がここへ来て断頭台を恐れるなど! 「去れ。去るのだ!」

 いつしか夜が明けていた。格子を透かして朝日が部屋の中を灰褐色に染め上げている。ギヨタンは壁にもたれたまま、寒さに白く凝る息を荒げていた。その目はどんよりと充血している。「ナイフをしまえ」今度は房の前から呼びかけて来た者がある。見れば顔見知りの看守が格子越しにこちらを見ていた。ギヨタンはその足音が聞こえていなかった。

「見られるぞ」看守は苛立ち気味に言った。ギヨタンは言われるがままナイフを拾い、コートのポケットに押し込んだ。立ち去ろうとする看守を引き留める。「待て。聞きたいことがある」看守は廊下を見回した。「手短にな」ギヨタンの方を向かずに言う。わけもなくそこで立ち止まったかのように。

 ギヨタンは言うべき言葉を探した。彼は夜明けと共に落ち着きを取り戻しつつあった。確かめておかねばならないことがある。「私の隣の牢には誰がいる」ギヨタンが聞くと看守は首を巡らせ、やがて思案げに顔を伏せた。「誰もいない」ギヨタンは思わず立ち上がりかけた。が、足がもつれて前のめりに倒れ、代わりにずるずると牢屋の底を這った。伸び放題の髭や髪の先が床を舐めた。「両方ともか」「両隣ともそうだ」

「シモンは。ド・ブルトンヌだ。あの男はどうだ」「死んだ」看守は怒り始めていた。ギヨタンの声が大きすぎたからだ。「静かにしろ」「なぜだ」ギヨタンは看守の言葉を無視した。鉄格子を掴み、揺すりながら問いただす。看守はギヨタンの牢の方へ向き直った。「昨日処刑されたからだ」ギヨタンは鉄格子を掴んだまま、一言「そうか」と言って俯いた。その時看守は不可解な物を見た。見る間にその表情が怒りから不快の念を表すものに変わり、最後には十字を切って牢獄の前を後にした。

 看守は足早に廊下を歩み去る。ジョゼフ・ギヨタンがどうなったのか。誰の目にも明らかだ。罪もない者が斬首されたと聞いて、口元にひび割れたような笑みを浮かべていたあの男が。こういう死を待つだけの環境では、人は狂う。彼は床に転がっていたナイフを思い出す。そして同僚たちがまことしやかに語るギヨタンの「面会人」の事を。もはやあの男は長くあるまい。

――

「――去れ! 去るのだ!」ギヨタンが首にかけたロザリオを掲げた時、目に見えぬ力が白亜の部屋にいた男をしたたか打ち据えた。彼は自らの司る力の全てを以てこれに対抗した。部屋は震え、霧散し、その度に同じ間取りに形成された。両者の力は束の間完全に拮抗した。白亜の部屋を満たす憤怒の情と憎しみに対して、ギヨタンの信じる言わば誠意のようなもの――が部屋の存在を揺るがし、領域をひどくたわませた。

 白亜の部屋の主は次第にいくらか自分の方が分が悪いことに気付き始めた。そもそも依って立つ時空の確かさが、自分とギヨタンとでは違いすぎるのだ。それに接続を強固にした分、相手に拒絶されることで影響が及びやすくなってしまっている。崩壊と具象のうちに部屋が欠けつつあるのを見た彼は、慙愧に堪えないことではあるが、接続の維持を断念した。

 後に利休と呼ばれる茶人、宗易はゆっくりと茶碗を置いた。光輝く白亜の壁が消え、次第に薄暗い小屋の中の景色が帰ってきた。煙のような曖昧な輪郭を残すのみだった部屋には土壁の質感が戻り、大胆に切り取った窓から障子戸越しに日の光が射している。家具らしきものは置いていない。この小屋全体が茶の湯を嗜むための茶室だ。

「おのれ……」宗易は下唇を噛み締めて不満を露にした。年のころは中年に差しかかろうという、頑健そうな男だ。およそこの時代の人間らしくない大男で、彼が狭い茶室の中に小さく正座して収まっているのはほとんど手品のようである。目前の器は空。再び茶を立てても良かったが、どうせ試みも失敗したことだ、このくらいで良かろう。何より小屋の外に人を待たせている。

「サント・ミゲル」低い鴨居をくぐって宗易は外へ出た。小屋の前には司祭の祭服に身を包んだ男が一人。日本人ではない。宗易はこの老人がどこから来たのかを知らない。穏和そうな表情の下で何を考えているのかも。彼がこの古い友人について知っているのは、その昔ばてれんの船に乗ってきて、以来この堺の街にずっと居着いていることだけだ。

「首尾はどうですかな」サント・ミゲルが話すと、顔の皮膚全体が伸び縮みする。相当な老齢である。白人にしては色黒なのは、長い船旅を経て日本へ来たためだ。「しくじりました」宗易は無念そうに首を振った。「あれは首を切られます。止められなかった」「そうですか」サント・ミゲルは笑みを浮かべたままだ。

 ことの次第はこうだ。まず目に見えぬ斬首人のことを外に伝えたのは信忠の腹心鎌田新介である。彼は二条城の死地を生き延びた。敵が苛烈な攻撃を加えていた、まさにその奥の殿から脱出を果たしたのだ。当然同じ場所にいた信忠にもそれができたかもしれないが、結果だけ見れば彼は早々に腹を切ることに決めてしまった。歴史の辿る道筋は当人たちの預かり知らぬところにある。

 鎌田は信忠のことを決して人に語ろうとしなかった。ただ「同じ戦場にいながら主君を守れなかったのは無念である」と言って回っただけだ。主君が目の前で物の怪に首をもがれたと話せば狂人扱いを受けただろうし、自分でも無念のあまり幻覚を見たのだと半ばまで思いかけていた。ただ彼は宗易だけには、自分が見た、と思った通りのことを話した。それもわざわざ京から堺の街に下ってまで。

 理由はいくつかある。宗易は信長の部下として茶頭を務めており、閉ざされた茶室で武将たちと話す機会が多かった。自然彼は武将たちの良き相談役となり、元より慕われていた。これがまず一つ。二つ目は宗易がこの世のものならぬ道によく通じており、その庵にて極限まで意識を高めて喫茶することで、現世を離れ幽冥界に至るとして知られていたからだ。

 知らせを受けた宗易はすぐに仕事に取りかかった。即ち戦場から姿を消した信忠の首の在り処を『探った』。彼は薄暗い庵に一人籠り、茶を立てる。湯呑は飾り気がなく、見るからに造りが粗い安物であった。されどこれこそが侘茶の心意気であり、同じことが庵全体にも言える。調度のない部屋の中には、まるで路傍の一里塚のごとく背筋を伸ばした宗易の姿がある。彼はゆったりとした所作で湯呑を顔の前に持ち上げ、茶を飲んだ。

「何たることだ」宗易は思わず息を呑む。その時彼が見たのは信忠の首であり、あろうことか信長の首さえもがその傍らにあった。他に上杉軍の魚津在城十三将、毛利軍の清水宗治の首が。いずれもここ数日の内に攻め落とされた城の主たちだ。それぞれが異なる陣営の、名だたる武将たちの首が、同じ何者かによって落とされていた。そこには曰く言いがたい恐怖があった。

 何者だ。この首の所持者は。まだ湯気を立てている茶を前に、宗易は歯噛みした。より深く探る必要性を感じた。が、恐らくそのためにはただ茶を立てて飲む、といったありきたりの手順ではまだ足りぬ。それでは限られた領域までしか進めない。きっと何かしら偶然の力を借りなければ。宗易は思案に暮れ……我知らずその手に持った湯呑を回していた。

 その瞬間辺りが奇妙に淀み、庵の壁がまるで水面をかき乱したかのように幾重にもにじんで見えた。色はなくなり、見れば手は白亜の銅像のごとく変わっていた。その上にすでに湯呑はない。「鏡像だ」宗易は呟いたいや、本当にそう言ったのか? 「茶がかき混ぜられ、水面に映った像が揺らいだために、私自身も揺らいでいるのだ」これは誰の声だったろう?

 その場では部屋も人も抽象化され、そこで宗易は怒りや喪失感が極端に誇張された、浮世絵の中の英傑のごときものとなった。一方部屋はおよそ文明社会が始まって以来各地に点在するありとあらゆる殺風景な部屋と同質化したため、宗易は主君の仇を求めて時空間を火の玉のごとく狂い回った。その末に彼は辿り着いた。物の怪と同じ魂を持った存在へと。場所はフランス。時は18世紀末。そこで彼はすべてを見た。

 ただ自分の見たものの意味を推し量るには、あまりに宗易の世界は狭すぎた。彼が海の向こうの異教の地について知る知識と言えば、交易都市である堺の街で人伝てに聞いた話ばかりである。堺の地を訪れる南蛮人たちは茶の湯の穏やかな趣向を見て喜び、しきりに宗易と話したがるが、とても本当の意味で会話が通じているとは思えない。そういうわけだから、彼が自分の見たものの意味を知るには、知己であるサント・ミゲルの助力を得るまで待たねばならなかった。

続く

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