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ザ・ウィッシュボーン

この世界で語られる言葉は、自らに込められた意図やその目的を、自らの意志で語り始める。
――第1の願い

 第2願望期。夏。フランツの駆るバイクは打ち捨てられた廃墟の街を走っていた。辺りには霧のように濃い砂煙が舞っている。並び立つビルは水底の海藻に似て、輪郭だけがおぼろに揺れていた。

 フランツは分厚いゴーグル越しに前方を睨んだ。昼間だというのに辺りは暗い。空にわだかまるねがいの分厚い層に阻まれて、地上まで届く日の光はわずかだ。廃墟の上に降り積もっている砂の山にも、やはり幾分かは桜色をしたねがいの粒が混じっている。粉末状のねがいがもたらす人体への影響は未知数だが、触らないに越したことはない。特に他所ではこれほどの量は見られないとあっては。

 フランツは分厚いコートを身に纏い、鼻から顎にかけてを洗練されたデザインの消音機(ミュート)で覆っていた。いずれも彼の所属する組織が、過酷な任務を帯びた彼のために用意した品だった。頑丈で高機能。めちゃくちゃに吹き荒れる砂煙の中でも、動作が保障されている優れものだ。

 ふと路肩に目を留めた彼は、その場でブレーキをかけた。彼はバイクを降りると、ほんの少しの間歩いて引き返し、やがて足を止めた。そこには一枚の新聞紙が、砂の中に半ば突き刺さるような形で落ちていた。まるで地面から生えてきたみたいだ。フランツはそれを拾い上げると、軽く砂を払い、しわを伸ばして読んだ。記事の内容はこうだ。


『ソロモンの小箱』ジャクサイン氏が落札


「願いを3つだけ叶えてくれる」とまことしやかに囁かれる古い小箱を、資産家のジャクサイン氏が923786ドルで購入した。値段は13日に開かれたオークションで決定したもの。『ソロモンの小箱』と呼ばれる箱の出品者は古物商界隈では名の通ったイエメンの骨董屋で、箱には複数の専門家によって2863年以上前に作られたものであるという鑑定がなされている。

 箱を落札したジャクサイン氏は、現在コメントを控えている。オークション会場で最後までジャクサイン氏と競り合ったパウル氏は「願いを叶えてくれる、などという話を私は信じていない。ただ貴重な骨董として家に飾っておこうと思っただけ。落札できなかったのは残念だ」と語る。

 記事にはまだ続きがあるようだが、そこから先は印刷が薄れて読めなかった。薄汚れた、取るに足らない切れっぱし。願望期以前の文体で箱に疑いの目を向けているこの記事は、今となっては皮肉そのものだ。フランツが手を放すと、新聞紙は風に煽られ、断末魔の呻きを上げながら飛び去っていった。

 彼はバイクのところへ舞い戻り、再び忘れられた都市の中を走り始めた。目的地は未だその影すら現さない。が、このまま進めば直に都市の中央部、夢見の塔に至るだろう。そこはかつてはジャクサインの住まいだった場所で、今では吹き荒れるねがいの源だ。

 ジャクサインが一つ目の願いを叶えたのは、箱を落札した翌日のことだった。願い事の正確な文言は今日に至るまで明らかになっていない。さる研究機関は、願いが引き起こした事態を元に、その内容について全部で666の推測案を発表している。第1の願いはそれだけ広い範囲にわたって影響を及ぼしたのだ。世界を根本から作り替えたと言っても過言でなかった。

 十字路に差し掛かったとき、不意にフランツの頭を強いノイズが襲った。耳からでなく、頭脳の中に直接言葉が降りてくる感覚。脳伝導(テレパシー)だ。

「ねー! おい! ちょっと! 聞いてる? 「無視しないでくれる」「聞こえてるなら止まってくれるかな「エンジンの音で聞こえてないのかも」」「悪い人だったらどうしよう」」

 思考をかき乱される感覚に、フランツはハンドル操作を誤った。目前に廃屋の壁が迫ってくるのを目にして、咄嗟にブレーキを握る。さらにハンドルを最大角まで右に切ると、バイクは釣り針じみた軌跡を描いて十字路の中央までターンした。乗り手の体はほとんど地面と平行だ。

「止まって!「止まって!「止まって!

 目まぐるしく回る視界。繰り返される脳伝導が、フランツの神経を執拗に責めさいなむ。シートの上で体が水を切る小石のように何度も跳ね上がるのがわかった。死にもの狂いでハンドルにしがみつき、なおもブレーキを握り続ける。するとひと際大きな揺れとともに、ようやくバイクが止まった。フランツは車体を横倒しにしたまま、自身は地面にへたり込んだ。遅れてもうもうと立ち込める砂煙。

「あ! 止まってくれた! 「やった! これで助かる! 「もし悪い人だったら」」」

 フランツは荒い息を整えながら、自分の元に近づいてくる人影を眺めていた。絵文字付き(ピクト)だ。どういうわけか消音機をつけていないらしく、頭の中身がダダ漏れになっている。

 第1の願いが叶ったその日、旧世界のコミュニケーションは崩壊した。ひとたび言葉を話せば、その時頭の中で考えてはいたものの口にしてはいないこと、伝えるつもりのないことまで相手に伝わってしまう。それが全人類の間で起こった。その結果どうなったか。廃墟と化した町並みを見れば一目瞭然だ。

 強固な絆で結びついていると思われた者同士が、血で血を洗う争いを始めた。権力を行使する側への不信感が、野に火を放つように民衆の間に広まっていった。世界規模の動乱を資産家の道楽と結びつけて語る者のあるはずもなく、誰一人原因のわからないまま、混沌とした時代が続いた。

 ジャクサインはなぜそんな世界を願ったのか。憶測は多くあるが、最も有力なのは願いに込められる情報量を爆発的に増加させるため、という説だ。事実、第1の願い以来人間が一言で表せる情報の平均量は6524倍に増えていた。後に彼は最大限に拡張された言葉で、箱に次の願いを伝えることになる。第1の願いから8年後の出来事だった。

「ハーイ「ハーイ「ハーイ「助けて」」」」

 砂埃の中から姿を表したのは、一人の少女だった。煤けたワイシャツにジーンズ。ブロンドの頭髪には粉末状のねがいがまとわりついて、桃色に光り輝いている。襟元には壊れた安物の消音機が、かろうじてまだぶら下がっていた。

「絵文字付きがこんなとこで何をしている」フランツは吐き捨てるように言った。

「ハハ。「ひどい! 絵文字付きだなんて「馬鹿にしてる」」ちょっとした家出なの「助けて」」

「そうか」

 フランツはそれだけ言うと、頭を手で押さえながらバイクに向かった。まともに取り合うと頭が痛くなりそうだった。見たところ少女には自分の思考をコントロールする術がない。ひとたび口を開けば、出てくる言葉は『絵文字』だらけ。そういう人種だ。消音機をつけていれば人並みに会話もできるだろうが、そうでなければ相手をしないに限る。

「良かったら近くの町まで送ってってくれない? 「お願い! こんなところにいたら死んじゃう「お腹空いた」」」

 少女に会話を諦めるつもりはないようだ。頭の中身を次から次へと取りこぼしながら、それでもなおフランツに言葉をかけてくる。

「じゃ、そもそもなんでこんなところにいるんだ」

 フランツは横倒しになったバイクを引き起こしながら尋ねた。起こした後は傍らにしゃがみ込んで、傷がついていないか丹念に調べる。細かな傷なら別に構いやしないが、マフラーに真一文字に傷がついているのは大罰点だ。

「それは……えっと「車で来たの。「ヒッチハイクしたから」まさかこんなところへ来ると思ってなくて「途中で降りたわ」「近くのコロニーに行くって言ってたのに」「怖かった」」」

「ならそのコロニーまで歩いて行けよ。俺の行先は夢見の塔だ。町からは出ていかない」

 フランツはバイクにまたがり、エンジンをかけた。周囲で砂が飛沫をあげる。その傍らで、絵文字付きは怪訝そうな顔をしていた。

「夢見の塔「夢見の塔ならさっきまでわたしがいたところだよ」ならさっき出てきたところだよ「道、わからないのかな」」

「何? そんなわけないだろ」フランツがゴーグルの脇にあるダイアルを操作すると、視界に一帯の地図が表示された。GPSは空にわだかまるねがいの下にあっても正常に動作している。夢見の塔は確実にまだ数km先だった。だが、同時に脳伝道が伝える言葉に偽りがあろうはずもない。「どっちだ」

「あっち」絵文字付きは自分がやって来た方を指で指し示した。塔があった。それはフランツの進行方向の右側、十字路から764m先に佇んでいた。周囲は特に砂煙が濃く、その全貌は覗えない。しかし、およそ尋常の建物ではないことはそこからでもわかった。

 コーンから落ちたアイスクリームに似ていた。根元ばかりが地表にへばりつくかのように大きく、先端に向かうにつれ細くなっていく。輪郭はひどく歪んでいて、ある箇所は丸みを帯びているかと思えば、またある箇所は結晶のごとく鋭くとがっている。その造形は見る者におよそ作為というものを感じさせなかった。

 もっと奇妙なのは全体の色合いだ。始めは全体が群青色に見えたが、砂煙の具合によっては桜色や銀色に見えたりする。刻々と変化していて、どの色だとも言い切れないのだ。それはこの世のいかなる鉱石も発しえない、ねがいだけが持つ色彩だった。

「ひょっとして、さっきから同じところを回ってたんじゃないの?」絵文字付きが言った。フランツはしばし無言で塔を眺めていたが、おもむろにハンドルを切り、塔へ向けてバイクを発進させた。

 第2の願いは第1の願いの数倍難解であると言われる。現在のところ世に与えた影響はわずかだが、危険性は計り知れない。その点は多くの研究者の間で意見が一致している。

 ねがいの生成である。その意図は明らかだ。意味を拡張した言語だけではまだ叶え足りない願いを、物理記憶装置じみた働きをする何らかの物質に記録。それを箱に読み込ませて、もって第3の願いとする。

 元は高層タワーマンションだったジャクサインの住まいは、第2の願い以来、奇怪なる夢見の塔と化した。一体塔全体に込められた願いはいかほどだろう? 試算によればそれは、人間が一言に込められる情報量の8943093041倍にも上る。全てを望むままに。そしてまだその体積は増え続けている。

 フランツは塔の前に立った。そこでは16777216色に揺らめくねがいが、冷えて固まった溶岩のように地表を覆っていた。組成も性質も既知の物質とはまるで似ていない、正体不明の物質だ。かつてこの粒子が偏西風に乗ってコロニーまで届いたときに、人々は自分たちの暮らす世界が、一人の男によって決定的に作り替えられつつあることを知った。

 莫大な量のねがいが残らず叶えられたとき、この世界はどうなるのか。世界は終わる、と主張する者がいる。世界はより良く生まれ変わるのだ、と言う者もいる。真実は誰にもわからない。だからフランツが来た。

 フランツはコートの内側を探ると、携帯電話を取り出した。消音機についたダイアルを操作し、嘴のように湾曲した前面部を開く。発信。

「夢見の塔に到着。「予定時間通りだ。以上」身体、精神ともに異常なし。「懸念されていたねがいによる悪影響は見られない。以上「GPSに異常あり。以上「磁場の影響と思われる。以上」」」これより、箱を破壊するため塔の中へ入る」

 報告は瞬時に終わった。束の間の静寂の後、返答がなされた。経過報告の承認。まずこれが一つ目。二つ目。客観的に見て、フランツのバイタルサインにはこれといった変化が見られないこと。三つ目。これまでの道程でフランツの位置情報には何ら異常がなかったこと。四つ目。祈りの言葉。五つ目。これまで夢見の塔に近づいたきり、行方をくらました組織の人員たちの名前。六つ目。先に名前を挙げた彼らが、おそらくはすでに天上の戦士の国に昇ったであろうこと。願わくばフランツに加護があらんことを。

「了解した。以上」携帯電話を懐にしまったとき、すでにフランツは消音機の開口部を閉じていた。

 フランツは足早に塔の中へ歩を進めた。バイクは手近な廃屋の陰に止めてある。ガラスの外れた窓。開け放たれたドア。元はマンションだっただけに、出入り口は無数にあった。フランツが選んだのは正面のエントランスだ。

 まず最初に、吹きさらしの回廊が彼を出迎えた。元はガラス張りの開放的なホールだったが、長い年月を経過するうちにガラスが破れ、今では天井と柱だけを残している。通路の左手は壁だが、もう一方は外だ。強い風が吹くと、部屋中が笛のような甲高い音で溢れた。

 建物の中は天井と言わず床と言わず、全体が分厚いねがいの層で覆われている。日の射さない暗がりでは、ねがいは夜光虫のようにほのかな光を発していた。

 回廊を進むと、途中に男が一人立っていた。その肌はねがいの発する光を浴びて、透き通るかのように青白い。服装はフランツと同じく砂まみれの防塵コートにゴーグル。口元から頬にかけてを三日月形の消音機で覆っている。この砂の街を訪れるにあたっては、まず常識的と言える格好だった。

 フランツは男の前で立ち止まった。

「ジャクサインか?」

 声をかけられた男は、束の間ピクリと体を動かした。その身から砂の大きな塊が落ちた。少なくとも数時間の間、彼はここで身動き一つとらずにいたらしかった。

「まさか。おれはあの人じゃないよ」男が言った。否定しなければ人に迷惑がかかる、といったような口ぶりだった。

「じゃ、あんたは誰だ」

「おれは」男はしばし黙り込んだ。途方に暮れているらしかった。「誰にもなれなかった」

「話にならないな」

 男は何者なのか。フランツは思考を巡らせる。願いを横取りしようと、武装して塔を訪れるというハイエナか。未知の物質であるねがいを研究しようとしてやってくる研究家か。はたまた、塔を信仰の対象としているカルティストか。近頃ではそれらが日夜代わる代わる塔に来ては、消息を絶ったり、正気を失ってコロニーに姿を現したりしていると聞く。

 男はそのうちどれに属しているのか。調べる方法が一つだけある。男に組み付いて消音機を外し、洗いざらいしゃべらせるのだ。見たところ多少頭がおかしいようだが、それでも素性くらいは語らせることができるだろう。

「あの方は」男が口を開いた。ぎこちない動きで天井を指さす。それだけの動作でも、やはり全身から砂が流れ落ちた。

「会ったのか」
「話をした。この先の世界について」
「何と言ってた」
「自分で聞け」

 男は腕を下ろし、再び口を閉ざした。フランツは相手に歩み寄る。やはり、やるべきだ。この男の消音機を外す。

 不意に背後で砂を踏む音がした。フランツが振り返ると、そこに絵文字付きが立っていた。

「ダメだ「「その人」わたしがヒッチハイクした車に乗ってた人「死にたがってるの「消音機を外したら」「死ぬわ」「アポトーシスが起きる」あなたも死んじゃう」みんな死んじゃう」

「わかった」フランツは脳伝導の起こす頭痛に必死で耐えながら言った。今まさに男の方に伸ばしかけていた手を戻し、よろよろと引き下がる。「わかったから、しゃべるな」

 見知らぬ男もまた、苦痛のためにわずかに表情を歪めた。それからさも大儀そうに首を巡らせ、絵文字付きの方を見やる。

「あんたか」男はにわかに生気を取り戻したようだった。全身から大量の砂をこぼしながら、少女の方へ歩み寄る。絵文字付きは小さく悲鳴を上げた。未だ頭を抱えているフランツの腕を掴み、駆け出す。

 フランツもまた彼女の後を追った。男のそばに留まっていてはまずい。脳伝導で希死念慮を伝染させられた精神的健常者が、即座に自殺を遂げたケースは数多い。自殺を試みてなお一命を取り留めた者の語るところによれば、自殺志願者から話を聞いた途端、急に「梯子が外れたような」感じがするのだという。そうなれば後は落ちるだけ、というわけだ。

 二人は息を切らしながら回廊を走り抜けた。死に物狂いというやつだ。男が追ってきている様子はないが、距離を稼いだだけではまだ足りない。希死念慮は放射能と同じだ。防ぐには発信者との間に何枚も壁を挟む必要がある。

 だから、行く手に現れた階段は彼らにとって救いの手のように見えた。目前にはねがいで舗装されたいびつな石段が、薄暗い踊り場に向かって伸びている。フランツは回廊を振り返る。人気はなくがらんどうだが、巻き上がる砂埃の中から、今にも男が姿を現さないとも限らない。

「登ろう」 フランツが絵文字付きを促した。二人は塔を登り始めた。

 階段はつづれ折りになっていて、洞穴のように薄暗い。ねがいの放つ、まばらで弱々しい光だけが頼りだ。彼らは壁に手をつきながら、黙りこくって段を登った。周囲からは耐えずギシギシと音がしていたが、これは建物の内側でねがいが、泉に張った氷のように伸び縮みすることで鳴る音らしかった。

 フランツも絵文字付きも、途中何度となく立ち止まった。視界の端に時折人影を目にしたように思ったからだ。大方錯覚に違いないのだが、それでもその度階下の男のことを意識せざるを得なかった。

「下にいたあいつはなんだったんだ」何度目かに立ち止まったとき、フランツが絵文字付きに聞いた。

「知らない「車に乗せてもらったけど」「第2願望期に入ってから「不安で」不安で死にたいって言ってたから「それがいいよ」って言ったの。「不安は私も一緒だから」そしたら一緒に塔から飛び降りようって」」

「単なる自殺志願者か」
「あなたは「どうなの?「死にに来たわけじゃないの?」」」
「違う。使命を果たしに来ただけだ。俺をここに送り込んだやつがいる」
「使命って?」

「箱を壊すことだ」フランツは大して興味もなさそうに答えた。「全人類の代表として……といっても、コロニーの奴らが勝手に言ってるだけなんだけどな。そいつらが言うにはソロモンの小箱とは悪魔の誘惑で、願い事の内容は関係ないんだと。三つの願いのすべてが成就した時点でおしまい。この世は悪魔の跋扈する地獄に変わるんだそうだ。で、それを阻止するのが俺ってわけ」

「ひょっとしてあなた、信じてもないのに来たの?」

「そういうことになる」

 フランツはそう言うと口をつぐんだ。沈黙はねがいの立てる異音が埋め尽くした。音は二人が進むにつれ、激しさとその威圧感とを増していた。まるで馬鹿げた大きさの機械の中に入り込んだみたいだった。

 塔を登り続けるうちに変化があった。まず、高まる一方だった異音がぱったりと止んだ。次に開け放たれた扉の前に行き着いた。扉をくぐった先は、小規模な展望台だ。ここもかつては壁がガラス張りになっていたのだろうが、窓が外れて吹きさらしになっている。外の景色はといえば、一面の砂嵐だ。下界にある民家の影一つ見いだせなかった。

 階段はこの階で終わりだ。が、外から見た塔の高さを思えば、まだまだ最上階に辿り着いたとは思いがたい。フランツと絵文字付きはさらに上へ登るすべを求めて、フロアの中を散策し始めた。

 周囲は相も変わらず廃墟の景色だ。長い年月を経て調度の類は砂と化して流れ去り、かつての様子を偲ばせるものは何もない。床から外に零れるねがいの欠片の、サラサラという音だけが周囲を満たしていた。

 絵文字付きは窓に近づいていき、砂にけぶる外の景色を見ながら、ぽつりと呟いた。

「世界の終わりって感じだわ……マジで」

 それからしばらく外を見ていたが、ふと何かに気づいたらしく、びくりと身を震わせた。彼女はじりじりと窓の下へと身を寄せた。ついには窓辺にしゃがみ込み、外へ向けて手を伸ばし始めた。しきりに腕を動かし、宙を掻くようなしぐさをして見せる。

「何をやっている」

 絵文字付きの様子に気づいたフランツが声をかけた。彼女は振り返って言った。その手は窓の外の空から砂を拾っては振り落としていた。

「ここ、一階だ」

 少女は未だ半信半疑の面持ちだったが、そう言うなり立ち上がって窓の外に足を踏み出した。砂を踏む感触があった。続けてもう一歩。もう一歩。彼女は今や窓から数メートル先に立っていた。そして振り返ってみてみれば、自分たちがいるのは紛れもなく始めに入ってきた回廊ではないか。

 フランツもまたその場で茫然と立ち尽くしていた。もはや疑うべくもない。自分たちは一階に舞い戻ったのだ。塔を登っていたつもりでいたが、その実ずっと一階にいた。上下の感覚を狂わされたか。それとも塔が狂っているのか。答えを知る者がいるとすれば、それはあの自殺志願者の男ではないのか。

 フランツは男の存在を思い出した。回廊の先に目をやると、そこにボロボロのコートを着た後ろ姿が佇んでいた。男はフランツに気づいて振り向いた。消音機が外れて、顎の下に引っかかっていた。

「戻ってきたね」

 彼は普通に話したが、それだけでフランツの心に呪詛や厭世感、無力感、自己否定感、その他多くのものがのしかかり、彼を瞬く間に食いつくした。脳に暗い霧が降りた。シナプスの一つ一つが取り外され、二度と元に戻らないようぐしゃぐしゃに丸めて捨てられた。それは永遠に引き伸ばされた日蝕のようだった。

 男は続けて何か言ったが、その言葉はほとんどフランツの耳に届かなかった。ただガラガラ、ゴロゴロと風車の回るような音が頭脳の中を転げ回っていて、はっきりしない頭で彼は「これが希死念慮なのだ」と一人納得していた。

 意識を失う直前に見た幻覚はもっと妙だ。塔の内壁や天井が透き通り、そのさなかに幾重にも枝分かれした階段や回廊が、血管のように張り巡らされているのが見えた。中には生きた人間がその上を歩いているものもあり、その中の何人かは先ほど塔の中で見た覚えがあるように思った。

 彼にはその意味がわからなかった。じきに何もわからなくなった。フランツはもんどりうって倒れた。

 どさっ、という音が聞こえた。フランツはうつ伏せに倒れ付したまま、目を薄く開いた。頭からまぶたの上にかけてがひどく痛む。顔の半分が何かどろりとしたものに浸かっていたので、目線を下にやると消音機の隙間から漏れた吐瀉物だった。

 フランツは腕に力を込めて、自分が立てるか試してみた。立てない。体に力が入らないのだ。五体を地面に釘で縫い付けられているーー本気でそう錯覚した。

 彼は靄がかった思考で、ここで起きたことを思い出そうとする。たしか、女がいたはずだ。亀のように首を巡らせて、周囲を見渡す。いた。絵文字付きは塔からそれほど離れていない砂の上に倒れていた。近くには見慣れたボロいコートの男が転がっている。二人はピクリとも動かない。フランツのようにその場で意識を失ったのではなく、塔の上から飛び降りたらしかった。

 フランツはそれを見て、何も思うところがなかった。うらやましい、とすら考えない。ただまだ自分は目的を達成していない、塔に登らねばならない、箱の元にいかなければならない、という思いだけが、オンボロの計算機が吐いた煙みたいに彼の頭を満たしていた。そして、今ではそれすらも叶いそうになかった。

 彼は自身に降り積もる砂の重みを感じていた。ねがいがゆっくりとフランツの体を覆い尽くし、彼岸とも夢幻の国ともつかないどこかへ彼の意識を連れ去ろうとしている。今では彼は多少なりとも以前のことを、塔に来てからのことよりも、今の名前を名乗る前のことを思い浮かべることができるようになっていた。

「起きろ。「こんなところで寝てるな」」

 頭上で嘲笑うような声がした。先ほどから何者かが近づいてきていることに、フランツはとうに気がついている。ただ、そちらを向く気力がどうしても起きずにいた。彼の目はじっと塔の外を見据えたままだ。

「だんまりか「せっかく降りてきてやったのに」「これを見てもだんまりかな」」」

 そばをうろつく人物はフランツの頭の隣にしゃがみこむと、ちょうど視界を遮るようにして、床に何か置いた。フランツはわずかに目を見開いた。それは黒檀でできた小箱だった。願いを叶える箱。これまで二度効力を発揮し、三度目にしてついに世界を滅ばさんとしている、まさにその箱である。

 箱を手にした男は、消音機をつけていない顔いっぱいに嫌らしい笑みを浮かべた。青白い痩せぎすの体に、薄汚れたボロきれを纏っている。信仰されなくなって久しい神のような風貌をしていた。彼はジャクサインだ。

「反応があったな「邪な目だ「昔と変わらない」箱を奪いに来たんだろ」」塔の聖人は唸るように言った。「顔を隠したってわかるぞ「お前はパウル」「昔おれと箱をめぐって争ったな」」

 パウル。フランツはその名を頭の中で反芻した。奇妙に親しさを感じる名前だった。例えるならそれは、遠い昔に知り合いだった者の名前のような。かつてパウルは、目前にあるこの箱を求めていた。彼は箱の力を、心の底から信じ込んでいたのだ。箱を手に入れた彼は、一体何を願うつもりだったのか。思い出せない。覚えているのはショーケースに入った箱を目にした時に、「これは自分のものだ」と確信したことだけだ。

「一目でわかったよ「お前は邪悪な野望を胸に秘めていた「だからだ」お前に箱を渡すわけには行かなかった」おれの作ったものを見たか?」

 ジャクサインは床からねがいをつまみ上げた。フランツの目前で手からこぼして見せると、それは百万もの色彩の粒となって落ちた。

「おれの言葉から生まれたねがいだ「おれの生んだ言葉と同じに「空間を幾層ものレイヤーに分けて表すことができる」ここにあるねがいは外から見える分だけではない「無限のレイヤーの隙間で「無限のねがいが「今この瞬間も生まれ続けている」」」箱はその全てを叶えるぞ。理想の世界が来る」」

「無理だ」フランツがぽつりと言った。小さな掠れ声だったが、彼は今やそれだけの声を出すために気力を振り絞っていた。「そりゃ無理だよ。俺が先に箱に願い事をしたんだから」

 ジャクサインはまだ笑っていた。目前の男を嘲り、自分の成し遂げたことを見せつけたつもりでいた。それが表情はそのままに次第に青ざめ、顔からゆっくりと血の気が引いていった。フランツはなおも続けた。

「箱はもう願いを三つ叶えた。空っけつだよ。ねがいは一つも叶いやしない」

「嘘を吐くな」

 ジャクサインは怯えていた。見るからに気力が尽きかけているようだった。彼はフランツの言うことを否定した。地団駄を踏んだ。全身を掻きむしった。息を荒げた。が、フランツは何一つ譲らなかった。

「本当だよ。お前は騙されたんだ。オークションで競り落としたのはお前だったけど、その時には俺はもう第1の願いを叶えてたんだ……金も先に払ってね。売り出した連中は俺たちの両方から金をもらったし、お前は2つ分の願いしか残ってない箱をそうとは知らず買ったんだ。残念だけど、あんたのしてきたことは無駄だったな」

 ジャクサインはふらふらと後ずさった。手近な柱に手をついて体を支えようとしたが、それも適わず、床の上に倒れ伏した。

 フランツもまたわずかばりの体力を振り絞って、上体を起こした。箱に手をかけ、持ち上げる。古物商から受け取った時と同じ手の重み。第1の願いをした時と同じ重みだ。箱は彼のものになった。

 彼は自分のした第1の願いを思い起こす。『自分の願いだけを聞き入れる第4の願いを追加すること』だ。自分のものなのだから、これくらいの用心はしておいて当然だろう。付け加えれば、ジャクサインが願い1つあたりの情報量を爆発的に増加させたのは嬉しい誤算だったと言える。

 フランツは箱を開いた。そして、何も願いが思い付かないことに気がついた。何も言わずただ箱を前にしている彼の上に、ねがいと砂だけがしんしんと降り積もっていった。

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