見出し画像

俺の家に聖火が一時的に安置されることになって半年が過ぎた

 俺の家に聖火が一時的に安置されることになって半年が過ぎた。誰が決めたわけでもない。成り行きでそうなったのだ。あれは四月のある晴れた日のこと、俺は朝早く近所のゴミ置き場にゴミを出しに行った。俺はいつも朝は早くに起きて仕事に行くのだが、ゴミを出す日には特別早く起きる。そうすれば近所の住人と顔を会わせずに済むからだ。

 俺がゴミ袋を持ってアパートの二階の部屋から外に出た時、まだ東の空には日が出ておらず、空の色だけが夜明け前の藍色をしていた。ゴミ置き場はアパートから少し離れたところにある。前まで行くと日付を間違えて出された粗大ゴミだとか、行儀の悪い住人が前日の晩にすでに置いていた、異臭を放つ寸前の生ゴミだとかが転がっていた。俺はその只中にゴミ袋を放り込んだ。すると隅の方に打ち捨てられている円筒形の容器が目についた。

 俺はゴミ置き場を囲うブロック塀の内側に入って行って、容器を抱え上げた。見覚えがあった。TVで見た聖火を運搬するランタンだ。見た目はキャンプに持っていくランプのような感じで、円筒の途中がガラスでできていて、中が見えるようになっている。筒の中にはアルコールランプに似た火の吹き出し口があった。

 誰かがここにランタンを捨てて行ったらしいのだ。持ち上げてためつすがめつ調べてみたが、特にどこが壊れているというわけでもなく、土埃も被っておらず捨てられたばかりと言った風情だった。もちろんのこと中に火は灯っていない。ふとあたりを見回すと通りに人はなく、早起きのカラスがやかましく鳴き声を上げながら電線の間を飛び移っていた。俺はランタンを部屋に持ち帰ることに決めた。

 ランタンを部屋に置いて会社に出掛けた。面白くもない仕事だった。早良という男が上司で、俺にはほとんど何を考えているのか分からない。やつは俺が職場に顔を出すなりこう言った。

「住田さん、昨日取引先に領収書送った?」

 送った、と私が言うと早良は子供のように苛立ちをあらわにした。

「先方が来てないっていうんだ」

 それっきりどうしろとも言わない。ただ「お前が悪い」と目で訴えかけてくるだけだ。仕方なく俺は送ったかどうか確認すると自分から申し出た。午後になると取引先から連絡が来て、問題の領収書は実は受け取っていたのだが、自分たちが見逃していたと言われた。早良は機嫌を直したが、俺は朝から不快な思いをした。そういうわけで家に帰る頃には拾ったランタンのことなどすっかり頭から消えていた。

 夜遅くアパートに戻ると道路から見える二階の自分の部屋の窓にほんのりと明かりが射していた。見ているとそれがちらちらと瞬いているのがわかった。TVはしばらく見ていないので、画面を消し忘れたとも思えない。こういう場合は空き巣を疑って然るべきなのかもしれないが、俺はくたびれていたので構わず二階に上がって部屋の戸を開けた。

 部屋の中に踏み込むと、そこには誰もいなかった。代わりに行きがけにテーブルの上に置いたランタンに、小さな種火が灯っていた。火は心もとなく揺れながら燃えていて、それに合わせて部屋を照らす明かりも広がったり縮んだりしていた。

 ――聖火だ。

 俺はその火を一目見て確信した。どういうわけだが知らないが、近所のゴミ置き場に捨てられていたのは本物の聖火のランタンだったのだ。火は遠くギリシャで点火され、乙女たちの手によって運び渡され、はるばるこの国までやって来た。厳かな儀式の所産だ。日本へ来てからは聖火ランナーたちの手によって各地を回った後、道端のゴミ置き場に捨てられた。一度はそこで失われたかに見えた火が、またこうして奇跡的に蘇ったのだ。

 俺は聖火を見つめた。瞬きながら次々と色を変える炎は弱々しくも美しく、いつまででも眺めて居られそうだった。神聖な、俺の暮らしとは縁遠いものがそこにあった。この聖性を誰かが取り戻しに来ないだろうか。俺は急に不安に駆られ、外から明かりが見えないよう窓の前にカーテンを降ろした。それからカーテンの隙間を少し開けて、何となくゴミ置き場の方に視線をやったが、朝見たときと何も変わりはなかった。

 俺はほっとして聖火の方に向き直った。そして火の勢いが先ほどと比べて明らかに弱まっていることに気づき、愕然とした。燃料が切れかかっているのだ。このままではせっかく息を吹き返した火種が、再び失われてしまう。俺は洗面所に向かって走った。物が床に散らばるのもかまわず戸棚を漁り回り、隅の方に以前部屋の電気を止められた時に買った蝋燭があるのを見つけた。それから居間に戻る時に、足元に転がっていた消毒液を拾い上げた。

 不思議とランタンの構造はわかっていた。TVで見たのかもしれない。ガラス部分が開いて、火を自在に出し入れできるようになっていた。俺はランプの中に蝋燭を差し込み、今にも消えてしまいそうな火を一時的に蝋燭の先に灯した。ガラスの覆い越しでない聖火はごみごみとした部屋をより一層妖しく照らした。

 ランタンの中の火も惜しかったが、こちらは一思いに吹き消した。火の吹き出し口に向けて消毒液を目いっぱい注ぐ。その後で蝋燭の火をランタンの中に帰した。火は炎孔で赤々と燃え上がり、再び威厳を取り戻した。部屋の中は暖色の光と少ない家具が織りなす影で満たされた。俺は気持ちがこれ以上ないほど浮き立つのを感じた。自分だけの聖火だった。

 翌日も会社に出かけた。その日早良は訳もないのに朝からいら立っていた。

「ボサッとしてる暇があるのなら備品の補充でもしてよ」

 やつは深い訳もなくこちらにつっかかってきた。近ごろ業務は閑古鳥が鳴くありさまで、備品などろくに減ってなどいなかったのだが。けれど俺は平気だった。上司に対し従順に受け答えして、備品置き場へと出かけていく。というのも家に聖火を置いているからだ。早良などには及びもつかない、万人にとって尊いもの。それを自分が密かに独占している。これが愉悦でなくてなんだろうか。俺は密かに笑みを浮かべた。

 退勤後は寄り道をしてから帰ることにした。アパートの方面とは反対方向へ行く電車に乗り、適当な駅で降りた。駅前に立体駐車場があったので、そこで目当ての物を探した。蛍光灯の照らす薄闇の中で目を凝らすと、場内の監視カメラのおよその位置が把握できた。俺は身を屈めて車体と車体の間を移動した。

 そしてちょうど監視カメラに映らない位置に、一台のミニバンを見つけた。俺はアスファルトの冷たい床にはいつくばって、車の下から辺りを見回した。誰もそばにいないことを確認するためだ。それから行きがけに買ってきたポンプと灯油缶を取り出し、吸い口を車の給油口に入れてガソリンを吸い出した。灯油缶がいっぱいになると再び車体と車体の間を縫って駐車場を後にした。事が終わるまで誰にも見つからなかった。

 アパートに帰ると、部屋を出た時と変わらずランタンは宅上で淡い光を放っていた。その時は燃料として消毒液のアルコールを使っていたが、実際にこのランタンに対して適切な燃料がなんなのかはわからなかった。どちらかと言えばそれは化石由来の燃料なのではないかと思い、ガソリンをたんまりと調達してきた。聖火はやはり、一度も絶えることがなくてこそ、だ。

 それから数日が経った。ある日早良が怒りに満ちた顔で俺のデスクまで来て、書類を叩きつけた。

「昨日指示した仕事やらずに帰ったでしょ。住田さん、最近たるんでるんじゃないの。返事もなんだか気持ちがこもってないし」

 俺は書類を一瞥し、すいません、と謝った。興味のない仕事のことなど前日の出来事であっても思い出せないが、確かに昨日は仕事中に聖火が頭に思い浮かんで居ても立っても居られなくなり、気がつくと家に帰って火を眺めていたようだ。

「すいませんじゃないんだって。きちんと心を入れ替えたってことを見せてくれないと」

 早良の小言はそれから十分以上続いた。俺は内心鬱陶しく感じたが、その間聖火を頭に浮かべて謝り続けた。その後もやつはいかにも周囲に機嫌悪げに振る舞っていた。定時間際になると作業をどっさりと持ち込んできて大した意味もなく俺を会社に引き留めた。

 業務が終わった後、俺は薪が燃えているところが見たくて堪らなくなった。これまで俺はランタンの中で燃える種火を見て満足していたが、そもそも聖火と言うのは聖火台の上で燃えているものだ。大勢の観客に燃えているところを見せてやりたいわけではない。俺だけの聖火が、どこか開けたところで、ランタンとは比べ物にならないほどの大火となって燃えているところが見たかった。

 家に帰るまでの間に焚き木を調達した。そのままでは持ち運びづらかったので、ホームセンターで薪割り用の鉈を買って、人目につかない雑木林でバラバラにした。日ごろ力仕事をしないので薪割りは一苦労だった。鉈を振りかぶるたび二の腕が痛み、打ち下ろした時には手のひらがビリビリと震えたが、それでも一心不乱に薪を割り続けた。薪が燃えているところが見たかった。

 アパートの各階の廊下に火災報知器があるのはわかっていたので、点火は屋上ですることにした。ブロックをコの字型に並べて簡素な聖火台を作り、中に薪を組む。燃え広がりすぎない程度にガソリンを撒き、トーチの先につけた聖火を聖火台に移した。ほんの一瞬で薪は勢いよく燃え上がった。煙がもうもうと空高く上がったが、真夜中の住宅街で目を留める者はいないだろう。

 俺は聖火台で燃える火炎の美しさに目を奪われた。手に収まるほどの大きさだったランタンの中の種火が、今や小さな子供ほどの背になって目前で燃えていた。俺は火の前にしゃがみ込み、傍らにあった薪を継ぎ足した。間近にいて飛んでくる灰もまた聖なるものに思え、避けることすらはばかられた。

 俺はまた薪の燃える馥郁たる香りに酔いしれた。そして遥かな距離も悠久の時をも超えて、太古の昔のギリシアの地に思いを馳せた。そこでは四年に一度、オリンピックの原型となったオリュンピア大祭が開かれた。ギリシア神話の主神ゼウスへの捧げものだ。祭りは女人禁制で、男たちは裸になって技を競い合った。当時ギリシアにあった多数の国々は、この祭りの間だけ一時的に戦争を取りやめたという。聖火を灯すのはその時代からのならわしだ。ならば俺の前で盛んに熱と光を発するこの炎は、歴史のリレーの最先端と言えはしまいか。

 ふと気が付くと俺は夜空の下で全裸になって寝転んでいた。どうやら火を見ているうちに寝入ってしまったらしい。見ると薪はほとんど灰に変わっていたが、火はまだ燃えていた。聖火を危うく風に晒して消してしまう寸前だったことに気づいて、俺は肝を冷やした。俺はランタンに火を移すと、予め準備していたバケツの水を即席の聖火台にかけ、手早く屋上を片付けた。脱ぎ散らかした服を着て見上げた空に春の星が出ていた。

 以来聖火台を自作することはしていない。ランタンの聖火はずっと俺の部屋に置かれたままだ。捨ててあったのを拾ったのだから誰が探しに来るはずもない。きっと直前になったら、オリンピックの運営者たちはまた新しい聖火を灯すのだろう。だがそれは前回大会を開いてから一番目に着火した聖火ではない。二番目の聖火だ。一番は俺のところにある。職場では相変わらず上司の早良と険悪だったが、俺はそれだけで満足だった。

 聖火を拾ってから七か月目のある日のことだ。仕事から帰ってきてテーブルの上に置いた聖火を眺めていると、部屋のインターホンが鳴った。滅多にないことだった。訪ねてくるものもいなければ、ネットショッピングも俺はしない。どちら様ですか、と言ってドアを開けると二人連れの警官がいた。

「なんで私たちが来たか、わかりますよね」それが警官の第一声だった。俺はわからない、と正直に答えた。すると警官は捜査令状を見せてきた。TVの刑事ドラマなんかで見た覚えのある場面だが、まさか自分が立ち会うことになるとは思わなかった。

 俺は大人しく警官を部屋の中に招き入れた。いつからか電気をつけずに聖火の明かりだけで生活を送るようになっていたが、周囲が見づらいだろうと思い明かりをつけてやった。

「これは?」警官の一人が部屋の隅にあるTVを指さして言った。画面が壁の方に向けられているのが気になったらしい。俺はTVを見なくなったので壁に向けてあるのだ、と説明した。そうする間にもう一人がテーブルの上のランタンを見て同じく説明を求めてきたので、聖火だと答えてやった。途端に警官の顔つきが険しくなった。

「ではトーチを盗んだことを認めるのか」

 警官にそう言われ、俺は相手が勘違いをしている、と思った。この聖火はランタンごとゴミ置き場にあるのを拾ったのだ、と正直に話すと、警官は「そんなわけはない」と言った。

「お前はランナーを装って聖火リレーのコースに現れ、前のランナーから聖火を受け取ると走って逃げただろう」

 警官はそう言うなり、やおらリモコンを手に取ってTVの電源をつけた。青白い光が画面のすぐ前の壁に映り込み、女の声がニュースを読み上げているのが聞こえた。

「半年前に起きた聖火強奪事件について、警視庁は容疑者の名前を発表しました」

 TVをつけた警官はディスプレイを持ち上げ、俺の方に向けて置いた。大勢の人間で賑わう白昼の街並みが映っていた。画面をこちらに向けて走ってくるのは聖火ランナーの陸上選手だ。手には燃え盛るトーチを持ち、周囲には二、三人の護衛がついている。

 やがて次の聖火ランナーがフレームインした。オリンピックのロゴの入ったキャップを目深に被り、サングラスをかけた男だ。男がトーチを受け取ったところで映像が止まり、カメラが男の顔にズームした。

「住田容疑者は聖火の付いたトーチの窃盗の容疑で指名手配されています」

 キャスターが読み上げたのは俺の名前だった。嘘だ、という言葉が思わず口を突いて出た。この聖火は拾ったんだ。どういうわけかランタンが道に落ちていたのだ。反論する間にもTVの画面越しに見た聖火を自分の物にしてしまいたいと歯噛みしたいつかの記憶が薄っすらと蘇ってきたが、今はそれどころではなかった。濡れ衣を着せられそうになっているのだ。

「しらばっくれるな。ランタンのことは調べがついてるぞ」警官がうんざりだという風に言った。早良がこの半年間俺に対して何度となくとった態度だった。「ランタンは半年前に近所の中古用品店で買ったものだろう。こっちには監視カメラの映像もあるんだ」

 その時部屋を調べ回っていた警官が棚の上にあった新聞包みを取り上げた。中には以前聖火台に火をつけるときに使ったトーチが入っていた。包みを開いた警官が眉を釣り上げてもう一人に視線を送るのを見たとき、俺の身体は弾かれたように動き、テーブルの上のランタンを取り上げていた。警官は部屋を飛び出していく俺の動きに着いてこられなかった。五輪のロゴが入ったトーチに気を取られていたためだ。

「逃げたぞ! 確保だ」背後に聞こえる警官の叫びで、廊下の先から三、四人の警官がこちらへ向けて殺到してきた。俺は意を決して二階の廊下を囲う柵から飛び降りた。アスファルトに着地する瞬間、俺の身体はぐにゃりと下方向へ沈んだ。同時に両の足の裏と左の腿に激痛が走り、俺は束の間痛みで息ができなかった。

 だが持ちこたえた。俺は痛みを堪えて立ち上がった。両腕に抱えたランタンとその中で燃える火を見ると、捕まってたまるか、という気持ちが込み上げてきた。俺はその場を離れようと歩き出した。それどころか次第に痛みの感覚が麻痺してきて、走ることさえできるようになった。緊張とアドレナリンで体が火照っているのを感じた。

 背後からは警官たちの怒号と、アパートの階段を駆け下りる足音が聞こえる。遠くで鳴るパトカーのサイレン。住宅街を死に物狂いで走る俺の視界の端を街灯の明かりがいくつも通りすぎていく。遥か先の方には光り輝くビル群が見えたが、一体自分はどこまで走れば逃げ切れるのだろう。ほとんど想像もつかなかった。

 走っているうちに俺の頭に浮かぶ光景があった。四月の晴れた日のことだ。大勢の人々に見守られながら、トーチを持って大通りを走った。トーチの先には聖火が灯っていて、正面に太陽があるので逆光でキラキラとより一層輝いて見えた。それを見ているだけで俺の胸は誇らしさで一杯だった。

 ――俺は一人笑みを浮かべた。そして後続を引き離すべくスパートをかけた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?