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ウィキ・ザ・デスペディア

1.

 ナジャドは追われる身だ。走り去る列車に飛び乗って追っ手を撒いたこともあれば、神父に化けて検問を突破したこともある。百戦錬磨とは言わないまでも窮地を脱するだけの才覚はいつでも持ち合わせていたし、何より彼には集合知が味方についていた。集合知とはつまり、ウィキペディアのことだ。彼は脳幹に搭載したHDDをウィキペディアと同期していて、そこから尽きせぬ泉のように情報を汲み出すことができる。

 ナジャドはその日も目立たない安ホテルに部屋をとった。始めに大通りに面した部屋に通されたのを、外の明かりが眩しいと言って路地に面した側に変えてもらった。その上で窓を閉め切り、カーテンを降ろし、カビ臭いタオルケットに包まって眠った。ベッド脇の棚に置かれたランプは点けたままで、傍らにはコップ一杯の水がある。この頃は悪夢ばかり見るから、どうせすぐに目が覚めるのはわかりきっていた。

 夢の中で、彼はベッドに縛り付けられていた。タオルケットの上から簀巻きにされていて身動きが取れない。おまけに部屋の中が水浸しだ。テレビだの冷蔵庫だのがプカプカ浮いていて、ナジャドにしてみても背中側の半身が水に浸かっている。首を巡らせてベッド脇のランプに目をやると、もうどこかに流れ去っていて見当たらなかった。ガラスのコップだけがまだそこに残っていて、中から水がこんこんと溢れ出ていた。

「……よせ。やめてくれ」ナジャドは呻いた。その声は彼自身の耳に遠い雷のようにくぐもって聞こえた。彼はとっくに自分が夢を見ているのに気がついていたが、だからといってどうなるわけでもなかった。

 ナジャドはまた、自分の方に無数の船影が近づいてきているのを見て取った。一隻がちょうどマルチーズ犬くらいの大きさだ。強力なサーチライトを備えていて、それが部屋の壁を幾筋もの光の帯で照らしている。中にはクレーンを搭載している船もあり、ワイヤーの先でフックが不穏に揺れていた。ナジャドはそれを見ると堪らなく嫌な予感がした。首吊りの縄みたいに見えた。

 船はナジャドのそばにつけると、ゴムボートに載せて乗組員を次々と吐き出した。彼らは揃って人の皮でできたつなぎを着ていた。そして、ナジャドのことを解体するつもりでいた。その肉を、髪を、歯を、はらわたを、一つ残らず切り分けたいと考えていた。

 船乗りたちは速やかにナジャドに上陸を果たすと、腹の上をうろうろと歩き回った。彼の体を包むタオルケットに、どこか生地の薄くなっているところはないかと探しているのだ。やがて目星をつけた漁師たちは、足元に鋸を突き立て、ギリギリと刃を引き始めた。すると下から柔らかな肌が現れた。

 肉を切り分けるのには長い柄のついた包丁を使うが、その薄い刃は驚くほどの切れ味を発揮した。何せ皮膚に突き立てた先からずぶずぶと先端が埋まり、血管をへし折ってさらに奥深くへと割り入って行くのだ。さすがに骨相手には歯が立たないが、そこを強引に砕き割って取り除いていくのがクレーンの役割だった。

 夜明け前にナジャドの腹は空っぽになった。今彼はクレーンの一つに吊られた右目から、自分の姿をぼんやりと眺めている。血は残らず抜かれた。毛は刈られた。脂の一摘みまで丁寧に削ぎ落とされた。外向きに開かれて結婚式場のアーチみたいになったあばらの先に、カモメがとまってゲーゲー鳴いている。船のライトに照らされた水面はどこもかしこもドス黒く濁っていた。

「もういい」ナジャドの見下ろす先で、彼の口がそう言った。もう十分だ。そう思うと同時に彼の目玉はいとも簡単にフックを逃れ、宙に投げ出された。夢の中の自分に別れを告げ、朝露みたく水面へ向けて落ちていった。

 今度こそ本当にナジャドは目を覚ました。ベッドサイドに灯ったランプを、彼は知っている。傘の下で5ワットの電球が、己のフィラメントをじりじりと焼き焦がしているのを知っている。同じように隅で震える冷蔵庫のことも彼は知っている。壁にかかった風景画は画風こそ印象派的だが、題材がなぜか画家の近所の公園らしく最悪に退屈だ。自分がオーナーならこんな絵は一秒たりとも客の目に触れさせておかないだろう。

 彼はベッドから身を起こして、周囲にある物を一つ一つ数え上げていった。それが終わると窓の方へ歩いていき、カーテンを開けて外を見た。夜空に欠けた月が出ていた。手前のガラスに映る男には、目も鼻もちゃんとついていた。切れ長の黒い目は逃亡に疲れ果ててどんよりと濁っていた。

 ナジャドは自分と繋がった集合知を疎んじていた。その訳は、頭の中身をほしがる連中に追いかけ回されるのがまず一つ。それからそうでない時にも、頭の中が騒がしいのが困りものだった。夜寝るときに見る悪夢などはその最たる例だ。見るのはいつも筋らしい筋のない、それでいてどことなく不安な気持ちにさせられる夢だった。

 反対に彼は月を見ると安心した。地上の知識がせわしなく移り変わるのに対して、月に関する知識は滅多に増えないからだ。それに月はどこにいたって同じように見ることができる。彼にとって得難いものだった。

 ふとナジャドは、口の中に違和感を覚えた。正確には舌の根元の方だ。例えるなら、喉の奥から胃液が込み上げて来たような。口中で薬剤の入ったカプセルを弄んでいるうちに、中身が零れ出てきて後悔した時のような。犬歯で臓物を噛み切ったときのような――つまり「苦い! 何でだ!!!」

 ガンガン! ガン! 返答は隣の部屋から返ってきた。壁を叩く音が続けざまに二回。今ので聞こえたか不安になったのか遅れて一回。ナジャドは茫然と音のする方を見つめていた。敵の追っ手だろうか? まさか居場所がばれたか。いや、きっとそうではない。隣の宿泊客だろう。だって壁を叩いてるんだから。

 隣人の怒りは留まることを知らなかった。バリッという木材の割ける音。今ぶつけたのは椅子だろう。さらにブチブチという何かを強引に引き抜く音がして、恐らくはブラウン管テレビが壁に跳ね返って落ちた。

 黙っていれば大事になるかもしれない。ナジャドはしぶしぶといった様子で腰を上げ、窓を開けて外に身を乗り出した。叩けよ、さらば開かれん。安宿なりに空調の効いた部屋の中に、初夏の熱気が流れ込んでくる。ムッとするような蒸し暑い夜だった。

「おい」

 ナジャドが隣の部屋に向けて声をかけると、中年の男が苛立ちも露わに、同じく窓から顔を出した。ホテルの外壁に入ったでかいヒビが、遠からぬ決裂を暗示しているみたいだった。

 「夜中だぞ……馬鹿みたいに騒ぎやがって」

 男がぼやくように言った。暴れたことでかえって冷静になったのか、隣人の態度は案外落ち着いているのだった。ナジャドは返事をする前に思いきり外の空気を吸った。民家の屋根ばかりが目に映る路地の景色とは裏腹に、どこからか若葉の匂いが香った。が、舌の上に乗った苦味は少しも薄れなかった。彼は溜息を吐いて、言った。

「いや、申し訳なかった」

「気を付けろ。次大声出したらただじゃすまないぞ」中年男はそれだけ言うと部屋の中に引きさがり、窓を閉めようとした。

「ちょっと待ってくれ」ナジャドは男を引き留めた。怪訝そうな男の顔が再び窓辺に現れる。

「俺は追われてる」ナジャドが言った。「秘密結社なんだ。自分たちでは『ワイナリ』って言ってる。そういう符丁なんだな。それが俺の頭にチップというか、記憶装置を埋め込んだ……わかるだろ? それで俺という人間が良くなるって、連中はそう考えてるらしいんだ……ほら、俺の目を見て」

 中年男は言われるがまま、彼の両の目を正面から見た。奇妙なことだが、ナジャドは自分がなぜ男にこんなことを話しているのかよくわかっていない。

「で、俺の頭にはウィキペディアのデータが全部ダウンロードされてる。いつも最新版になるよう更新させられててさ。でも脱走したんだ。映画みたく」

 ナジャドは話しながら、自分の説明がいかにも要領を得ていないのに自分で笑った。なにせ苦い舌が口の中に絶え間なく苦い唾を送り込んでくるのだから、まとまる考えもまとまらないと来ている。でも中身は残らず本当だ。

「奴らしつこいんだ。うかうかしてるとそのうちここにも来るかもな」

 ナジャドは神憑りのように話し続けた。隣部屋の男もまた、神託を聞くように彼の話に耳を傾けていた。そのうちナジャドは甘い飴が舐めたくなった。これはたぶん視界の端に映る欠けた月がそう思わせたのかもしれない。時に英語で菓子全般を表す『candy』という言葉は、一説によれば昔インドで食されていた菓子『kandi』に語源を持つそうだ。と、彼は思った。

「メネスは知ってる? 伝承だと上下エジプトを統一したエジプト第1王朝の初代ファラオなんだけど、実在していたか怪しいんだ。生贄の慣習を作ったし、色んな伝説も残ってるんだけど、カバに殺されたんだとさ。本当か嘘かはわからないけど。そういう話が伝わってるのは本当だ」

「メネス」

「アンタには色々話すぎたかもしれない。いつもはもっと無口な男なんだよ。俺は。けど、やることはやるっていうタイプさ。けど、近ごろ何だか情緒不安定で……おかしいよな? いつも俺がどんな風だったと思う? ……知らないか。会ったことないものな。俺がこんなにしゃべったなんて、誰にも言うんじゃないぞ」

「メネス」中年男がぼんやりと繰り返した。ナジャドは男の反応に満足すると、窓から身を引いた。

 部屋の中に戻った彼は、再びベッドの縁に腰かけた。そしてついさっきまで自分が危険な連想行為をしていたことに思い当たって、ブルッと身を震わせた。会話の最中でほとんど意識せずにいたが、始めに一粒のキャンディを頼りにインドへ向かい、インドはデカン高原から時を遡り古代ギリシアへ飛んで、果てはギリシアからエジプト古王国まで行き着いたのだ。大したグレートジャーニーではないか。

 自身の経験とは無関係にいつの間にか頭の中を占めていた知識を、数珠繋ぎにして引き出すなど! 沖合いで船底に穴を開けるにも等しい行為だ。急いで栓を詰めなければ、今頃彼は"沈没"していただろう。さておき、歴史上文献に残っている船の沈没事故は多い。イギリスの作家ジョゼフ・コンラッドは……

「ちくしょう! クソ食らえだ!」

 彼が怒鳴ると同時に、部屋の電話が鳴った。今度は一体何の騒ぎだろう。もしかすると下の客がホテルのフロントを通して苦情を寄越したのかもしれない。何にせよ気を紛らわしてくれるものは歓迎だった。

 ナジャドが受話器を取ると、電話から男の声がした。どこにもいない誰かの真似をしているような声だ。外国映画の吹き替えでもしてるみたいだった。

「おはようナジャド。『ワイナリ』だ」

 ナジャドの罵声が爆発した。彼は受話器に向けていくつも汚い手真似をした。それは一つ一つの動作で風切り音が鳴るほど熾烈を極めたものだった。

「君と話すのは2週間ぶりだね。何か困ったことは起きていないかな?」

 男は構わず自分の話を続ける。やがて手真似のレパートリーが尽きると、ナジャドは受話器の向こうの相手を半ば呪うような、半ばすがるような声で言った。

「苦い!」

「ほう。何がですか?」

「何でもだ。吸う息も吐く息も全てが不味い」ナジャドは後から付け加えた。「対処のしようがあるのならお前たちに会いに行ってやっても良い。そこでお前らの言うことをちゃんと聞くかはその時決めるが」

「味がするんだな。いつからですか?」

「ついさっきだ。寝て起きたらこうなってた」

「なるほど! 想定外のケースだ! とにかく一度ラボに戻ってきてくれ」ナジャドは電話を切った。一瞬でも連中が頼りになると思った自分が情けなかった。いや、情けなくなんてない。連中の仕打ちが常軌を逸しているのだ。こんな目に遭わされれば誰だって人を頼りたくもなろう。それにしても自分は一体いつからこんなおしゃべりになったんだ?

 ナジャドは窓際の椅子に乱暴に腰掛けた。 こうなれば自分の頭だけが頼りだ。これから行うのは野放図な連想ゲームではない。情報に優先順位をつけ、発狂をまぬがれうる最短のルートで必要な情報にたどり着くリサーチ行為だ。それで苦味の正体を探る。

 とはいえ、手順は先ほど物思いに耽っていたときとそう変わらない。身近な物から始めて、別の物へ別の物へと、順繰りに思考を移していくのだ。この場合もやはり出発点は月が良いだろう。ナジャドは目を瞑り、夜空に浮かぶ満月を思い浮かべた。頭に思い描くビジョンは大味で、精彩を欠くもので構わない。水も張っていないような窪みを月の海と呼んで、地図に書き加えるような真似はしなくてよい。この場では気の利いた例えは命取りだ。連想の連続でどこまで連れていかれるかわからない。

 ナジャドは意識を最大限に高め、月から下へ伸びるはしごをかけた。はしごの一段は集合知から得られる1トピックに等しい。降りていく先は暗い星の世界だ。彼はこれを伝ってより深く、より対象を限定しつつ、情報の海の中へ身を潜らせるのだ。 

 彼ははしごに手をかけ、慎重に下り始めた。月から伸びるはしごはいかにも心もとなく、高所ゆえ風でぎしぎしと揺れた。風は外領域から吹き来るもので、長く浴びていると精神に悪影響がある。下方に目をやると底が知れなかった。闇の中でまばらに光る色とりどりの星が、訪問者を物珍しげに見つめていた。時にひと際強く輝いて消え去り、時に引き合って混ざりあい、時に新しく生まれる。これがウィキペディアを漂う情報だ。

 降りるに従って、手に持ったはしごの段が急速に冷たくなっていった。月面から伝わってくる陽の光のぬくもりが、次第に失われつつあるのだった。それに気づいたナジャドはつかの間先へ進むのを躊躇した。だが、ここで止まって何になろう。自分はこの世の全ての知識を得るためにここまで来たのだ。それには無限にはしごを降り続けなければならない。ナジャドは意を決して足を踏み出した。彼はすでに、自分が何を調べようとしていたのかを忘れていた。――沈没。

2.

 その晩、カフェテリアには黒服の男たちが続々と集まりつつあった。テラスの席を占領する彼らの中に、日ごろこの店で馴染みの顔は一人として見当たらない。彼らが囲むテーブルにはいずれも軽食が並んでいるが、誰も手をつけた様子はなかった。いかにも手持ちぶざたを避けるためだけに頼んだという感じで、大勢の男たちが黙って客のふりをして座っているのは不気味だった。

 服装は揃ってジャケットを羽織ったスーツ姿だ。茹だるような夜風の熱さは、男たちにとって苦にならないらしい。彼らの荷物はただ一つだけで、テラスを囲うように吊るされた白熱灯の、明かりが届かない隅の方にスーツケースが置かれていた。

 テラスは石畳の道路に面している。道路の先はそのまま街の中心である市場に続いており、そのせいでこの辺りは夜中でも人通りが絶えないのだった。街灯の明るさは昼を欺くばかりだ。車が一台塗装の鈍い色を閃かせて走り去っていった。

 一体きっかけはどこにあったのだろう。カフェでは黒服の一人がやおら立ち上がり、スーツケースを手近なテーブルの上に置いた。ケースを開くと、そこには一瓶のワインが入っていた。ラベルには冗談みたいな『ボトル・ニューロン』の銘が入っている。男は瓶を取り出して手際よく栓を抜くと、テーブルを回ってほかの男たちのグラスにワインを注ぎ始めた。色の濃い赤ワインだった。

 やがてワインが全員の手に行き渡ると、一人の黒服が乾杯の音頭を取った。その声は低く、静かで、町のざわめきにかき消された。けれど他の男たちには彼の言うことがわかったらしい。ある者は頷き、ある者はグラスから目を離さないままで――次々に杯を飲み干した。

 そして道路を挟んだ向かいの建物の方を見た。そこはナジャドの泊まっているホテルだった。男たちは『ワイナリ』だった。

 彼らは舌に秘密があった。ある種のワインに秘匿された暗号データを味蕾を介してデコードし、人知れず機密情報をやり取りすることができるのだ。今度の任務における機密情報とは、即ちナジャドの居場所、人相、生い立ち、職歴、内緒の打ち明け話、あるいは本人すら忘れ去った心の傷などだった。

 つまり男たちはナジャドという人物を、余すところなく飲み干したのだった。それで彼らがどういう感想を抱いたのかは、よくわからない。任務の際に彼らが無駄口を叩くことはないからだ。

『ワイナリ』の男たちは速やかに席を立った。彼らの動くさまはまるで無数の足と頭を持つ一頭の生き物だ。道路を黒い霧のように通り抜け、向かいにあるボロいホテルに雪崩れ込む。先頭の一人が受付の男をやり込めにかかったかと思えば、その間に残りは影絵のようにロビーを行き過ぎ、壁紙の剥がれきった階段を上っていく。任務をどのように遂行すべきかは、先ほど舌先を洗って行った美酒が残らず教えてくれた。

 ナジャドのいる3階に辿り着いたとき、先頭を行く黒服がふと足を止めた。片手を上げ、後から着いてこようとする黒服たちを押し止める。というのも行く手に中年の男がいて、彼らの目的地である304号室のドアを執拗に叩いていたからだ。男は声の限り怒鳴り散らしていた。

「おい! ちょっとは静かにできないのか!」

 先頭の黒服は素早く手を動かして部下を促した。――対処せよ。後方にある階段の踊り場で身を屈めていた部下の一人が、夕暮れ時に影が伸びるかのようになめらかに進み出た。部屋にナジャドがいるのであれば、その前にいる中年男に自分たちの存在を悟られるのは好ましくない。"対処”は静かに、そして速やかに行われなくてはならない。

「さっきからずっと唸ってるんじゃないのか! 大丈夫か! 救急車を呼ぼうか!」

 自分自身大声を出している男は、黒服が音もなく近づいてくるのにまるで気づかずにいた。背後に立った恐るべきエージェントは手を大きく広げ、まず彼の口を塞ぎにかかる。その時。

「メネス」男が叩く扉の向こうから、ぽつりとつぶやく声が聞こえた。「メネス」中年男がオウム返しに言った。「カバに殺された男」彼は踵を返すと、廊下の奥に歩き去って行った。最後まで『ワイナリ』たちに気づくことはなかった。間近に迫っていた黒服は掲げた手を降ろし、困惑した目で自分の隊を振り返った。

「恐れるな」隊長格の男が言った。無精髭を生やした、餓えた獣の目をした人物だ。「記録にあったはずだ。奴の言葉には力がある。何のために奴が閉じ込められていたのか忘れたのか」

 隊長の号令で黒服たちは部屋の前に集まった。押し問答する暇もあればこそ、躊躇なく扉を蹴破る。古くて軋んでばかりのドアは、ラムネ瓶のビー玉のように悪気なく吹き飛んだ。中へ入ると、そこにナジャドの姿はなかった。窓が開いている。机の上に開いたまま置かれた本のページが、風に煽られてはためいていた。

 すかさず隊員たちが部屋を物色して回る。彼らの隊長はと言えば、その間窓から身を乗り出して外を見ていた。この高さでは到底下まで降りられそうもないが、その逆はどうか。周囲を見渡すと、窓から数メートル先離れた先に、ちょうどお誂え向きに屋上へ続くはしごがかかっていた。

「奴は外だ。総員屋上へ」隊長は冷徹に指示を出した。抜け目のない被検体のことだ。逃走経路くらいは当然確保しているだろう。この辺りは建物が密集しているから、屋上へ出れば屋根伝いに遠くへ逃げられる。

 黒服たちが部屋を後にしようとすると、どこからか電話の鳴る音が聞こえてきた。隊長がまず歩みを止めて、部屋の中を振り返った。部下たちに踏み荒らされ、足の踏み場がないほどのひどい散らかりようだ。床にはテレビが転がり、冷蔵庫の上下がひっくり返っている。

 少し時間を食ったが、それでも電話は見つかった。見つけ出した黒服が恭しく隊長に受話器を差し出す。隊長は受話器を耳につけて二言三言話すと、部下たちに自分をここに残して先にナジャドを探しに行くよう指示を出した。こうして部屋の中は彼一人を残してまた空っぽになった。

「ナジャドと話せるかな?」隊長がとった電話の相手は、先ほどナジャドと話した『ワイナリ』だった。その声にはどこか困惑し、途方に暮れたような色が浮かんでいる。

「話せません。ナジャドは逃げました」

「ああ、そうですか。そう。手ごわい相手だからな。ゆっくりやってくれ」

「お任せください」黒服の隊長はほとんど吠えるように言った。

「うん。ところで君の名前は何と言ったかな?」

「私はハーシムです、閣下」

「そう、じゃあハーシム。これからするのはとても大切な質問です」

「はい、閣下」

「初めて嘘をつかれた時のことを話してもらえるかな?」

 ハーシムは質問に答えようとして、言いよどんだ。「閣下、その」

「覚えている範囲で構わない。記憶している中で一番始めに嘘をつかれた時のことを話してくれ。頼むよ」閣下は言った。相手を包み込むような、あくまで穏やかな声だった。

「私は」ハーシムは周囲を見渡した。部屋にいるのは彼一人だった。今ごろ部下たちは我が身の危険を省みずナジャドを追っていることだろう。彼は内心後ろめたさを覚えつつ、スーツの懐からスキットルを取り出して安物のワインを呷った。

 舌を改造している『ワイナリ』たちにとって、何の調整も加えられていない市販のワインの味は奇妙なトリップ効果をもたらす。そこに含まれているのは解読したところで一貫した解釈の成り立たない天然の暗号文だ。彼らの中にはそこから得られる意味不明な情報のシーケンスを音楽のように楽しむ者もいれば、レム睡眠じみたトランス状態に入り、何らかの物語を自分の中に投射しようとするものいる。

 ハーシムはどちらかと言えば後者だ。ほんの一くち口に含むなり、彼の脳裏に様々な単語が躍った。彼は解読を試みた。「――好き――だった――女の――――冬の――」1センテンスが終わると、蝋のような深い酩酊感が彼の中に沁み渡っていった。部屋の中を照らすランプの明かりは穏やかだった。受話器の向こうには慈愛に満ちた閣下がいた。この状況で何を恐れることがあろう。彼はぽつりぽつりと、昔のことを話し始めた。

 話している間に、ふと壁にかけてある絵が目に留まった。そこにはうろこ雲のようなざらざらとしたタッチで、ひとけのない公園が描かれていた。先ほど黒服たちが部屋を手入れした拍子に、少しばかりかしいでいる。ハーシムはそれをまじまじと見て、寂しい絵だ、と思った。それが引き金になり、彼の頬を涙が伝った。

「ありがとうございました」自分の体験を語り終えたハーシムへ向けて、閣下がねぎらいの言葉をかけた。「良ければ今と同じことをナジャドにも話してやってくれないか。今の彼にはそれが必要だ」

 ハーシムは承諾し、受話器を下ろした。思い出の品を衝動的に捨ててしまった後のような虚脱感があった。頭では部下と合流しなければ、今の話をナジャドに伝えなければと考えながらも、知らず体が座椅子に腰を下ろしてしまう。正直言って何をする気も起らなかった。

 彼はほんのりと熱を放つ手を左目の上にかざした。先ほどから頭のその辺りがひどく痛んだからだ。心なし瞼も重たい。今夜ばかりは、少し飲みすぎたかもしれないな――と、彼は思った。膝の上で手を重ねると、温かかった。

3.

 ネット上で"ミスター・スレンダーマン"のハンドルネームで知られる男は都市伝承収集家だった。また地球外来生物研究家であり、幽体力学研究の第一人者でもあった。彼の研究はいずれも独創性に溢れていた。近所の人々は気味悪がって彼との付き合いを避けたが、ネット上には関心を寄せてくれる人が大勢いた。

 特に彼の提唱したいくつかの仮説は、反響が大きかったので本にして出版した。『地球は帯だった――滅亡へのカウントダウン 10……! 9……!』『アポロ計画の嘘 ~月へ行ったのは私だ! ~』などがそのタイトルだ。何ぶん出したのが数年前のことなので、書店にはもう並んでいないかもしれない。けれどアマゾンにはまだ在庫があるし、地元の図書館にも寄贈したので、読もうと思えば読める。

 ミスター・スレンダーマンは郊外の住宅地に一軒家を持っていた。親の代から住んでいた土地だ。ただし畑は潰して駐車場に変えた。おかげで働かずとも食っていける、というほどではないが、そこそこ自由にやっていけている。

 彼の家のラボは物で溢れ返っていた。部屋を埋め尽くす棚の上に、何に使うかわからないものから何にも使わないものまで、雑多な品が所狭しと並んでいる。そしていつでもその中央を占めているのは一台のデスクトップコンピューターだ。彼がその前に座ると、ちょうど周囲を囲うタリスマンや仏像に手が届く。副葬品のような距離感。彼のアイディアの源だ。

 その日も彼はコンピューターに向かい、とある大型フォーラムサイトに宇宙じみた自論をしたためていた。近ごろ彼が提唱している仮説は、まだ証明段階だ。ゆえに自分でも論理展開に飛躍があるのでは、詭弁なのではと思わされることがしばしばあった。だがこうして人に向けて説明していると、論理に欠点らしき欠点が見当たらず、逆に強靭な構造を持っていることが自分自身飲み込めてくる。

 この先理論が成熟していけば、裏付けとなる証拠をいくらでも挙げられるようになるだろう。だがそうでないうちは、内なる声に従い、想像力の翼で論理の大空を飛翔するのが最も良い。科学的研究とはそういうものだ。彼は冷蔵庫からコーラを出して口に運んだ。陰謀と罪の味がした。

 斬新な仮説を披露する他に、すでに確立された理論を世に広めるのも彼の仕事だ。彼が喧伝して回るのは何も自分で生み出した理論ばかりではない。信頼できる相手の言ったことであれば、受け売りするのに何も恥じることはないというのが彼の信条だ。その点ミスター・スレンダーマンは人よりもコイルに近かった。感電したものは何でも伝えてしまう。

 今日も彼は己の知る世界の秘密を書き込んでいた――ウィキペディアに。作業に熱中するうち、彼はいつの間にか打ち込んでいる内容を逐一声に出していた。

「バーガー・キングはサルの肉を使ってハンバーグを作ってる……ある日バーガー・キングの食肉加工工場の近くに住んでいた少年が買っていた子ザルのケイティ(2)をうっかり逃がしてしまった……落ち込む少年を父親はバーガー・キングに連れていく。そこでワッパーを買ってもらった少年がみたものは……こればっかりは間違いなし!」

 彼は全文打ち込んだ後で「こればっかりは間違いなし」の文言をコメントアウトした。後には熱っぽい調子をそぎ落とされ、いかにも真実をありのままに話しているかのような官僚主義風の文章が残った。アップロード。百科事典に新たな1ページが植えつけられ、今しもはち切れそうな表紙がまた少したわんだ。さっそくその記述に目を通した一人の少女が、知らずにサルを食べさせられるのはどういう気分だろうと少し考えて、すぐ忘れた。彼女はその話を信じないことにした。

 ミスター・スレンダーマンの家では外の門につけたインターホンが鳴った。ミスター・スレンダーマンは訝しんだ。というのも彼の家には滅多に人が訪ねてこないからだ。これまで出版社とのやり取りはメールだけだったし、家まで訪ねてくるような友人は、彼にはいない。

 ふと彼は、近頃自分の説に感動したと言って、盛んにコンタクトを取ってくる者がいたのを思い出した。ともすれば家に押しかけてきかねない勢いだったが、ひょっとするとその予感が当たったのだろうか。だとするなら、正直言って迷惑だった。きっと狂信者のたぐいであろう。ミスター・スレンダーマンはアヌビスとホルスの名において、彼の者にネバダに帰るよう告げなくてはならない。

「どなたですか」ミスター・スレンダーマンはインターホンの通信機能をオンにした。門の前を映すカメラにはスーツを着込んだ、長身の痩せた男が映っている。眉間に皺を寄せ、一心に家の玄関の方を睨んでいる。荒れ野に住むオオカミのような顔だ、とミスター・スレンダーマンは思った。さては不吉の前触れか。「アヌビスとホルスの名前において告げる」彼は言いかけたが、相手の男が遮った。

「俺はバーガー・キングの者だ」

「馬鹿な。早すぎる」ミスター・スレンダーマンは目を剥いた。ウィキペディアで真実を衆目の目に晒してから、まだ2分も経っていない。「バーガー・キングよ。いいかね、抗議の申し立ては無意味だ。ウィキペディアが広告を掲載しないのは特定の企業の肩を持たず、あくまで知の神殿として在り続けるためなのだよ。この世の原理は公平性だ。わかったらフロリダに帰るが良い」

 門の前のナジャドはインターホンのマイクが拾わないように小声で毒づいた。ある程度までは予想できていたことだが、ここまで話の通じない相手だとは思わなかった。このままフレイマー(荒らし)がターゲットにしている企業を名乗っていても、大して脅しにはならなそうだ。

「そうか」

 ナジャドは門の前を立ち去った。だが、ここで引き下がるつもりはなかった。彼の舌の苦味は日を追うごとに強まってきている。今ではしゃべるのに多少困難を感じるほどだ。そしてこの家に住むフレイマーを止めない限り、それは永遠に彼を苛み続けるだろう。

 きっかけはホテルでの瞑想だった。脳内世界のリサーチを始めてまもなく、ナジャドは未整理の情報の海の中に沈んだ。彼は自我の参照先を制御できなくなり、ハイパーリンク間で数え切れないほどのジャンプを行った。舌の違和感の正体を調べるどころか、かの隣人が怒鳴り込んでこなければ危うく現実へ戻ってこれなくなるところだった。

 ただ、収穫はあった。それに気づいたのは、その晩『ワイナリ』の刺客を撒いたあとのことだ。頭の中で埃を被っていた何万もの記事を取得し、相互に突き合わせたことで、記述と記述の間に矛盾を見つけ出した。ある記事で19世紀の終わりに死んだとされている人物が、別の記事では第1次世界大戦の時代に暗躍したとされているのはなぜか? ある霊魂の不滅を信じる秘密結社のメンバーとされている人物が、生前大のオカルト嫌いを表明していたのは理屈に合わないのでは? 超古代文明の存在を示すオーパーツなんてあったのか?

 食い違いがあったり、疑わしく思われた記述についてはその投稿者を調べた。その結果全てとは言わないまでも、ほとんどが一人の人物を出所にしていることがわかった。その人物のハンドルネームは"ミスター・スレンダーマン"。彼のほかの投稿にも目を通したが、そのどれもが信憑性の低いサイトか、もしくは自著を出典としていた。有体に言って、問題外だった。ウィキペディアは思いつきを載せる場所ではないはずだ。

 ミスター・スレンダーマンの最新の投稿は、ちょうどナジャドが舌に苦味を覚えた日時と一致していた。一説によれば、人が夢を見るのは寝ている間に脳が過去の記憶を呼び起こすためだという。であれば自分もまた夢を通して外部記憶を撹拌し、新しく得られた情報と結び付け、無意識下で集合知に潜む嘘を探り当てたのではないか。それゆえの舌の苦味だ。彼はそう確信していた。

 ナジャドはウィキペディアに投稿した際に取得されるIPから、ミスター・スレンダーマンの住所を割り出した。調べた住所を訪ねてみることは、彼の中で何の迷いもなく決まった。何せこいつは自分に嘘をついて信じ込ませようとしたのだ。これまでもずっと、嘘を信じさせられ続けてきた。たまたまそれに気づいたのが安ホテルのあの晩だったというだけの話だ。とうてい許されることではなかった。

 ナジャドは庭の木が生い茂っている箇所にあたりをつけ、鉄柵をよじ登って敷地の中に侵入した。途端に周囲に警報が響き渡った。ナジャドは眉根を寄せた。ただの民家とばかり思っていたが、これでは軍事施設なみではないか。だが、彼は気にせず歩みを進めた。公安に捕まる程度のことなら構わないと思っていた。

 庭の茂みの中でナジャドはふと立ち止まった。ミスター・スレンダーマンの屋敷は広く、ここから手近な窓まで10メートルといったところだ。家主が人を寄せ付けないので、日ごろ庭の手入れに精を出す使用人の類はおらず、一面雑草が伸び放題になっている。今その生い茂る雑草の海を、何かが草を分けながらこちらに近づいてきていた。

「まずいな」ナジャドは家の方に駆け出した。

 必死の形相で走るナジャドを、後ろから追いかけてくるのは一頭の訓練されたドーベルマンだ。その走る速度はほとんど自分と同じ背丈の草木の中にあっても、全く衰えるところを見せない。対してナジャドはどうか。遅い。遅すぎた。彼は窓から遠く離れた庭の中央で犬に捕まり、引きずり倒された。

 犬は強か彼の足を噛んだ。ナジャドは苦痛に呻いた。彼の頭はフルスロットルで犬に関する知識を呼び出した。犬の歯は42本あるが、切歯が上下各3本、小臼歯が各4本と多く、大臼歯は上顎で2本、下顎は3本と少ない。イヌ亜目に共通の身体的特徴として、犬歯のほかに、裂肉歯と呼ばれる山型にとがった歯が発達している。この歯ははさみのようにして肉を切る働きをもつ。裂肉歯は、上顎の第4小臼歯と、下顎の第1大臼歯である。それと、食べた物はあまり噛まずに呑み込んでしまうのだそうだ。

 次に犬は彼の上半身にのしかかった。彼は顔に噛みつこうとする犬の胴を掴んで辛うじて押しとどめた。視界いっぱいにドーベルマンの鼻面が広がる。その毛並みは赤銅色をしていた。

「バーガー・キングよ。思い知ったか」

 ナジャドの頭の上でガラガラと窓が開く音がして、そこから甲高い男の声がした。先ほどインターホン越しに聞いたのと同じ声だ。ミスター・スレンダーマンは彼を間近で見てせせら笑っていた。

 ナジャドは毒づき、全身の力を振り絞って犬を引きはがした。体を起こし、声のした方に目をやる。窓辺に眼鏡をかけた小太りの男が立っていて、憮然とした表情で自分を眺めていた。ミスター・スレンダーマンはどこにでもいそうな、労働者然とした顔つきをしていた。

「もっと思い知れ」

 ミスター・スレンダーマンはドーベルマンを抱いていた。犬を外に放つと自分は窓を閉じ、奥の方に歩み去った。これで犬は二頭になった。ナジャドは窓と逆方向に駆け出した。逃げなくては。殺されてしまう。だが足の噛まれたところが痛み、すぐ草の中に転んだ。彼は這って逃げた。

「ア、アヌビス。ホルス」ナジャドは振り返り、犬に向けて呼びかけた。犬はピクリと体を震わせ、彼に対する攻撃を取りやめた。しかしまだ飛びかかった方がいいか迷っているという風情だ。ナジャドは始めに襲い掛かってきた方がアヌビス、後から放たれたほうがホルスだとあたりをつけた。

「お、お前らの飼い主は犬にも劣る畜生だ。卑劣な嘘つきだぞ」ナジャドは後ずさりしつつ言った。アヌビスとホルスの両方を交互に見る。「知らない方が幸せだったな」

 二頭の犬は唸り声を発しながらも、徐々にナジャドに向かう歩みを緩めて行った。ナジャドは立ち上がり、ズボンについた砂を払った。ついでに腹立たしさを抑えきれず、地面を二度ほど蹴った。二匹に向き直って言う。

「よし。アヌビス、ホルスよ。お前らに砂山のパラドックスを教えて進ぜよう」

 「もの」をその「もの」たらしめる条件とは何か? そうした問いを考えるのに役立つのが砂山のパラドックスだ。まず砂山がある。これは万人が認める砂山だ。混じりけなしに砂ばかり。十分な高さがある。ここから砂を取り除いていく。なぜそんなことをするのか? 砂を焼いてレンガを作るためだ。たかが砂と侮るなかれ。砂を焼いてつくったレンガにはかなりの強度がある。砂は丈夫なレンガに変わる。

 さて、文明の担い手たちによって徐々に持ち出されていった砂山の砂であるが、早くも枯渇寸前だ。といかもう一粒だけしか残ってない。これでもまたこの砂は砂山と呼べるか? それは無理だろう。では一体、いつから砂山は砂山でなくなったのか。砂の量が閾値を下回ったときに、誰かがホイッスルを吹いて「これはもう砂山とは呼べない」と宣言しただろうか。そんなことはない。はたまた砂山は丸々レンガに置き換わったのか。そうではない。レンガになったのは持ち去られた砂の方だからだ。では砂山はどこへ? これが砂山のパラドックスである。

「それは違う」とアヌビスは思った。彼はナジャドの言葉に耳を傾けることで、齢7の老境にして初めて論理的思考を得るに至った。「それは問題設定のために『砂山』という言葉の意味を恣意的に取り違えているに過ぎない。我々は『砂山』をさも実体のあるものかのように扱うが、本当は『砂山』とは砂が山のようにあるという状態を差しているに過ぎないのだ。そして状態を指す言葉に明確なオン/オフの境は必要ない」

「恐ろしいことだ」とホルスは思った。彼はまだ年若く、物事をありのままに捉えることができた。「この問いは『砂山』という言葉がある状態を指しているに過ぎないことを、我々に嫌というほど教えてくれている。であればここにいる私もまた『ドーベルマン』という状態に過ぎず、柴犬やラッコと何の違いも持たないということではないか。そして私たちは確たる自己もないまま移り変わっていくことを宿命づけられているのではないか」

 アヌビスとホルスの2頭の犬は顔を見合わせた。アヌビスは年下のホルスに、年長者として『砂山』の理論は詭弁に過ぎないのだと教えてやりたかった。一方ホルスの中ではすでに、自身の存在を危ぶむ気持ちが、自分は何にでもなれるのだという感激の念にとってかわっていた。彼は反対にそのことをアヌビスに伝えてやりたかった。

 だが、彼らは理論を共有する言語を何一つ持ち合わせていなかった。だから、いつまでもそうして互いを見つめあっていた。

4.

 ミスター・スレンダーマンはラボに鍵をかけて閉じこもり、PCに繋いだ監視カメラから絶えず家の中の様子を監視していた。庭でアヌビスとホルスが向き合ったまま動かない理由が、彼には見当もつかない。ただ自分では盟友と思っていた者たちの裏切りにあって戸惑うばかりだ。一方バーガー・キングの使いを名乗る者と言えば、番犬を退けたあと家の中を歩き回っていた。犬に噛まれた足をかばっているが、別段動作に支障はないらしい。

「ミスター・スレンダーマン! ミスター・スレンダーマン! いらっしゃいますか! バーガー・キングです!」男は叫びながら、目についたドアを片っ端から開けて回っていた。自棄気味の動作が、何かしら底知れぬ物を感じさせた。絶対にかかわりたくないタイプだ。ミスター・スレンダーマンは心の底からそう思った。

 また、彼は柵の外についたカメラの映像にもしきりに目をやっていた。男が柵を乗り越えた時点で、警察に通報がなされている。警察署は歩いて5分のところにあるはずだが、連中は公安の務めを忘れたのだろうか。それともすでにバーガー・キングが手を回しているのか。何にせよあてにできそうもなかった。

「よかろう」ミスター・スレンダーマンはひとり呟き、PCの前から腰を上げた。いつかはこういう日が来ると思っていた。"やる"か、"やられる"かだ。そして自分はもう"やられ"たのだから、後はもう"やる"しか残ってない。彼はそばのキャビネットに山と積まれた怪しげな呪物の中から、古びた鞄を引っ張り出した。留め具を外して開くと、中には錆び付いたクロスボウが収まっていた。

 彼は同じ鞄に入っていた矢を、クロスボウの台座につがえた。そして獲物をキーボードの上に置いた。ここならドアから入ってきた侵入者にとってはPCの陰になってクロスボウが見えない。ミスター・スレンダーマンは一度ドアの前に立ってそのことを確認した。問題なかった。

 背後でノックの音がした。続いて鍵のかかったドアをガチャつかせる音が。続いて体をぶつける音が。徐々にその音は大きくなっていく。ミスター・スレンダーマンは落ち着いた態度を崩さないまま席に戻った。ドアの外を映すカメラの映像を見る。バーガー・キングの男が、階下にあった人間大の仏像を抱えて立っていた。どうするつもりかと思って見守っていると、男は仏像を頭からドアにぶつけて扉を破ろうとし始めた。まさしく悪魔の所業だ。この聖別された矢で仕留めるにふさわしい。

 やがて悲鳴のような音を立ててドアが破られた。バーガー・キングの男が、仏像を抱えたまま部屋に入ってくる。

「バーガー・キングよ。目的はなんだ」ミスター・スレンダーマンは椅子の上で尊大に構えて言った。

「俺はバーガー・キングの者じゃない」侵入者は一切歩を緩めることなく部屋の中に踏み込み、仏像のスパイクのついた頭をPCに打ち付けた。PCは前のめりに倒れ、キーボードを押し潰した。「ナジャドだ」

「嘘をついたのか」

「許される嘘だ。お前とは違う」ナジャドは用の済んだ仏像を床に下ろした。それが済むとミスター・スレンダーマンのかける机に手をつき、身を乗り出して、相手の目を正面から見た。その拍子にミスター・スレンダーマンが片手に持ったクロスボウに気がついた。ナジャドはクロスボウの知識を呼び出した。

 クロスボウが開発される以前の弓矢は、決して扱いやすい武器とは言えなかった。弦を引き絞って構えるための筋力と、その状態で狙いをつけて放つための高い技術が要求されたからだ。これらの難点を克服すべく、固定された弓と、弦をはじく引き金を持ってクロスボウは生まれた。あらかじめ弦を引ききっておき、所定の位置にセットした上で、後から矢をつがえる。これなら素人でも狙いを定めやすく、手では引けないような強力な弓を搭載できる、らしい。

 ミスター・スレンダーマンの撃ったクロスボウの矢はナジャドの首に刺さった。矢じりがいとも容易く首の肉を裂き、震えながら血管を引きちぎり、奥へ奥へと潜り込んで行った。そして脳髄に接続されたHDDにぶつかり、そこで止まった。彼はもんどりうって倒れた。その際盛大に周囲の棚を巻き込んだので、乗っていた数珠は切れて散らばり、陶器の類は床に落ちて割れた。

 ミスター・スレンダーマンは足元に置いた鞄を取り上げ、中から二本目の矢を取り出した。矢をつがえるためにクロスボウの弦を引こうとするも、年季物のその弓は思いのほか弦が固い。とてもじゃないが、彼には引けそうもなかった。彼は結局弓を机に置いた。そして追い打ちをかけるにしてもナジャドのそばに近づきたいとは思わなかったので、椅子から立ってその場で様子をうかがっていた。

 ナジャドは床に手をついて立ち上がろうとしていた。首の矢が刺さったところだけが、花が咲いたみたいに敏感になっている。つまり、はちゃめちゃに痛んで意識が飛びそうだ。舌の苦味が気付けの役割を果たしていて、お陰で彼は辛うじて目を開けていられた。それにアドレナリンが痛みを和らげた。

「首じゃなかったら死んでたな」

 ナジャドはとうとう立ち上がった。傷ついた喉から出る声は、掠れてホワイトノイズのようだった。ナジャドは有無を言わせずミスター・スレンダーマンの頭を掴んだ。そして怒りに任せて、フレイマーの顔面を机の上に叩き込んだ。彼は頭を押さえつけられたままで、抱き寄せるかのように腕を回し、持っていた矢をナジャドの背中に突き立てた。

 ナジャドは悲鳴を上げ、腰を丸めてうずくまった。その間にミスター・スレンダーマンは壁際に走り、曰くあり気にかかったタペストリーをめくり上げ、裏にある装置に何やら顔を近づけた。すると傍らで壁の一部が横にスライドして開いた。中は隠し部屋だ。

 ミスター・スレンダーマンは部屋の中に逃げこんだ。もう十分戦った。戦士としての務めを果たした。そろそろ自分の身の安全を優先しても良いはずだ。彼はそう考えていた。その後をナジャドが追った。背後で壁に偽装した扉が音もなく閉じたとき、彼はここなら駆けつけてきた警官に見つかる心配はなさそうだと思った。

「私が述べているのは真実だ。嘘だという証拠がどこにある」

 ミスター・スレンダーマンは椅子に座らされ、後ろに回した手を縄で縛られていた。ナジャドはここがどういう部屋なのか知らないが、近ごろはもっぱら物置として使われているようだ。壁際にボール箱が山と積まれている。おかげでフレイマーを拘束するための品にも事欠かなかった。

 窓はないが、部屋の中はまばゆい光で溢れていた。天井に敷き詰められた蛍光灯の明かりだ。出入り口が閉じたときに、独りでに点いた。そのため今ここにいる二人の男には影がない。

「証拠か。そんなものはいらん」ナジャドは獲物に食らいつく直前のハゲタカのように、ミスター・スレンダーマンの周囲を歩いて回る。首と脇腹の背側にはまだ矢が刺さっていた。白いタイル張りの床に赤い血が点々と垂れていく。「強いて言えばお前の悲鳴がエビデンスだ」

 ナジャドは一冊の本を手に、床から伸びる石筍じみた段ボールの山の一つに腰かけていた。手に持った本は百科事典だった。隠し部屋を物色している最中に見つけたものだ。一方でミスター・スレンダーマンはと言えば、未だ椅子に縛り付けられたまま、ぐったりと力なくうなだれていた。

「わかったか。これが真実だ。大半はお前に何のかかわりもないし、およそ役に立ちそうもない。お前のほしい情報が目につくようにソートされているわけでもない」

 ナジャドはそう言いながら、適当に百科事典のページを繰った。ある箇所でふと手を止め、じっとそのページに見入る。そのまま彼は5分以上動かなかった。その間矢の羽を血が伝い、ボタボタ垂れて本を汚した。気を失っているのだ。

 入れ違いにミスター・スレンダーマンが顔を上げた。彼はお洒落なモザイクパターンがどうとか、チリコンカンの作り方がどうとかブツブツ言っていたが、結局この場に適したセリフは何一つ吐くことができなかった。やがて自分でも自分の言動のおかしさに気づいたのか、急に真っ青な顔をして、うなだれたきり身じろぎ一つしなくなった。

 ナジャドが目を覚ました。百科事典の開いていたページを見て言う。

「よし。これにしよう。次、ベルツノガエル」

 ナジャドは門を開け、家の正面から堂々と帰って行った。

5.

 ナジャドは街灯の光の下を歩いていた。季節は冬。立ち並ぶビルの合間から、身を切るような冷たい風が吹きおろしてくる。喉に傷跡のできたナジャドは、歩きながら空咳ばかりしていた。すれ違う人々は皆厚着をして急ぎ足だ。彼にはそれが街の明かりに追われてるみたいに見えた。

 彼は他にも色々なことを考えた。例えば、眠らない街と呼ばれるような土地では、誰かが寝ているときにも必ずほかの誰かが起きている。では、たまたま皆の寝ている時間が重なって、起きている人間が一人しかいないときに、その街は眠らない街と呼べるだろうか。

 まだある。残らず本当だと信じていた話に、嘘が一つ混じっていた。注意深く調べてみると、他にも嘘が見つかった。さてここで、一体いくつ嘘が見つかった時に、人はその話のまだ調べてもいない箇所を頭から信じなくなるだろうか。

 ナジャドはウィキペディアを信用するのをやめた。ミスター・スレンダーマンをやっつけて、彼の投稿したデマを残らず削除してみても、舌の上の苦味は全く引かなかった。だが、ウィキペディアの記事を信じなくなった途端、それは毛ほども感じられなくなった。多分、あれはただの幻肢痛だったのだろう。彼は自分が真実を見失ったのを認められなかっただけなのだ。

 彼はふと、足元に広がる石畳の道路に気が付いた。周囲を見渡すと、傍らに半年前に泊まった安ホテルがあった。ホテルはおよそ感傷というものとは程遠い、のっぺりとした四角い建物だ。ナジャドは歩を早めてその前を通り過ぎようとした。すると声をかけられた。

「ナジャドか」

 ホテルの向かいには薄汚れたカフェテリアがあった。そのテラスの隅に男が一人座っている。肌寒い冬の晩のことなので、他にテラス席を利用している客は誰もいなかった。

「お前をずっと待っていたよ」

「誰だ」ナジャドは男に見覚えがなかった。ただ彼の顔が妙に晴れやかで、満ち足りているのが気にかかって足を止めた。

「俺は君を知っている」

 ナジャドはテラスに登った。近づくにつれはっきりとわかったが、男はアルコール中毒者だった。テーブルに置いた手が小刻みに震えている。顔面は赤を通り越して蒼白だった。そして男の前には赤ワインのボトルがあった。男が手振りで向かいに座るように促したので、ナジャドはその通りにした。

「前にお前を追ってた」男が言った。昔の夢を懐かしむかのように、複雑な気持ちを湛えた声だった。

「今はどうなんだ」

「やめたよ」ハーシムはそう言ってワインを手に取り、グラスに注いだ。眼窩は落ちくぼみ、顔つきこそやつれたが、まだ目にはかつてあった鋭さが残っている。

「嫌になったんだ。秘密結社とか、偽装工作なんてのが」

 ナジャドはそうか、と言った。男が今しもグラスに口をつけるかと思ったが、彼はただ自分の注いだワインをじっと眺めているだけだった。まるで中に飛び込んで死のうとしてるみたいだ。

「よし。よし。お前に話さないとな。俺が初めて人に嘘をつかれた時のことを」

 ハーシムはぎこちない笑みを浮かべて言った。そしてナジャドに自分の過去を語って聞かせた。ナジャドはその間相槌一つ打たなかったが、それでもじっと耳を傾けていることは明らかだった。

「どう思った」尋ねられたナジャドは感じたままを述べた。まず客観的に見て嘘をつかれていた、と訴えるにはあまりに些細な出来事であること。しかし自分で信じていた相手に裏切られたと思ったのだから、その点は共感できること。ときに、あんたはアルコール中毒なのではないか。

「うむ」ハーシムはまさか話が自分の体調のことに及ぶと思っていなかったので、少し動揺した。それから急にワインがそばにあることで恐ろしくなり、グラスを脇に避けた。

「あんたも色々あったようだな」

「そうだ。色々あった」

 ナジャドはここで半年間にあったことを全部打ち明けようかと思った。だが、先ほど咳き込み続けたせいで喉が酷く痛んだのでやめた。彼は前にこの辺りを通りかかった頃に、自分のしゃべり過ぎに苛立っていたことを思い出した。そして、どうやら自分にとって人生で一番おしゃべりだった時期は終わったらしい、と思った。

「あんたは何か信頼できるものを見つけ出したほうがよさそうだ」ハーシムがぽつりと言った。

「信頼できるものって何だ」

「わからん。だがあれば後々の支えになる」

「いいか」ナジャドはテーブルに手をついて身を乗り出した。「自分がそうだからって、俺のことも厭世家の人間不信だと思ってもらっちゃ困る。今のところ俺が信用していないのはネットの情報だけだ」

「今時ネットの情報より信用できるものなんてあるのか」

「そりゃ、まあ……わからんさ」

 ナジャドは話しているうちに馬鹿馬鹿しい気分になった。自分はいったい何が悲しくて、こんな辻説法野郎に言いくるめられているのだろう。それにも増して、カウンセリングに熱が入っていくにつれて段々と輝きを取り戻していく相手の目が気になった。まさか酔いが覚めたのか。アル中なのに?

「俺にはある」

「何だ」ナジャドは聞いた。聞いても聞かくなくてもどちらにしろ相手は話すだろうが、一方的にまくし立てられるよりはまだ自分の意思で尋ねたのだと思って聞いていた方がマシだろうと思った。

「いいか。かつての俺のような『ワイナリ』は全員舌を改造させられてる。ある種のアルコール飲料からベロを介して情報を読み取れるんだ。だから上からの指示は全部ワインで来てた。半分泥水みたいなマズいワインだ」

「初耳だな」

「だろ。だから俺らはその辺の酒を飲むと悪酔いしちまう。何の機密情報も入ってないワインの味にあることないこと読み取っちまうんだ。言わば天然の暗号らしきものだ」

 ハーシムは話しながらワインを口に運んだ。飲みながら少し驚いた顔をしていた。どうやら先ほど飲まないと決めて自分でどかした物を、無意識のうちに口に含んでしまったものらしい。だが結局全部飲んだ。

「『見せて……ない……シカ……』……ウッ!」彼はしばらく俯いて何も言わずにいた。まるで吐き気を堪えているみたいだが、実際には彼の中にありとあらゆる物が降り来たっているのだった。

「……とまあこんな具合だ。質問は?」やがて顔を上げたハーシムが言った。ナジャドは無言だった。「ない。それじゃ本題だ。今聞いたからわかると思うが、もともと情報伝達のために調合されてないワインから取得できる文章は意味不明だ。霊感的といってもいい。だがこれまでに一度だけ、しっかりと文章として読めるものが降りてきたことがある」

 ハーシムは上着のポケットに手を突っ込んだ。しかし目当てのものがそこになかったらしい。全身のポケットを手でまさぐりながら話を続けた。

「恥ずかしい話だが、『ワイナリ』を抜けた俺は昼間から酒を飲む他には何もしていなかった。店じまいまで飲んでは追い出され、次の店に入り、そこでつぶれ、気が付くとまた別の店にいて――その繰り返しだ。その間の出来事だから、今になってみるとそれが降りてきたのが、どこでどんな酒を飲んだときだったか覚えてないんだ。フレンチの店で年代物のワインを飲んだときだった気もするし、はたまたうらぶれたバーで不味いカクテルを飲んだときだった気もする……ああ、あった。これだ」

 彼はどこからか、一度濡れて乾かした跡のあるメモ用紙を取り出した。そしてそれを何も書いていない面を上にしてナジャドに差し出した。

「お前にやるよ。正真正銘の神託だ。俺はもう何度も読んで覚えたからな。お前も読めばきっとここに書かれている内容を信じるだろう」

 ナジャドは思わず聞いた。聞かずにはいられなかった。

「信じると思うか? お前の転落話はどうでもいいが、ここに書いてある文章は俺が納得するようなものだと、本気でそう思ってるのか?」

 ハーシムは何も言わず、ナジャドの目をまっすぐ見て頷いた。ナジャドはメモ用紙を裏返した。

『――ハチャトゥリアン氏は賭けをし、コインを投げた。一回目は裏が出た。二回目は裏が出た。三回目も裏が出た。四回目も裏が出た。五回目も裏が出た。六回目はきっと表が出るはずだ。しかし、六回目も裏が出た。それなら七回目はきっと表が出るはずだ。しかし、七回目も裏が出た。八回目はまだ投げていないが、きっと今度こそ表が出る。(それが真実だ)』

 そこに書かれているのは一見最もらしいが誰にでもわかる嘘であり、最もらしいというその一点でもって捨てがたい真実でもあった。そしてその二つは少し頭を捻れば簡単に行き来できるのだった。ナジャドは顔を上げた。向かいに座るハーシムは二ヤリと笑い、新しく注いだワインを一口舐めた。

「どうだ?」

 ナジャドは答えた。

「悪くはないな」

終わり

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