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【アニメ】平家物語第5話「橋合戦」感想とか解説とか

今夜には第6話放送でほぼ1周遅れとなるが第5話感想。
前回の感想は下記よりどうぞ。

前回死去した重盛の「亡者を見る目」を受け継いだびわ。
左目の色の変化は単なる演出ではなく、劇中でも度々言及される。

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重盛の跡を継いで平家の棟梁となったのは弟の平宗盛であった。

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清盛の正室・時子の長子であり、常に重盛の嫡男の座をうかがう存在であり続けた。
重盛の小松家の子らはまだまだ政治経験も未熟で、朝廷の位階でも叔父・宗盛に及ばない。棟梁の座を宗盛が継ぐのは順当であったと言えよう。
原典の『平家物語』では兄重盛や弟知盛と比較して愚かな人物で、棟梁の器ではなかったというような人物像になっている。
九条兼実曰く、「天性大食の人」。大食いだったらしいので、太っていたのかもしれない。劇中でもぽっちゃり系。

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その宗盛の弟・知盛が本格的に登場するのも今回から。
こちらは九条兼実曰く、「入道相国(清盛)最愛の息子」。父・清盛に最も期待された息子だったらしい。
兄宗盛とは異なり武勇にも優れていたが、惜しむらくは病弱であった。後の源平合戦でも病を理由に一時戦線を離脱している。

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その知盛と時子、びわとの会話の中で言仁親王(安徳天皇)に母が異なる弟が生まれたことが語られる。
高倉天皇の第二皇子・守貞親王のことである。
この親王は史上初めて天皇に即位することなく治天の君となり、後高倉院と称されることになるが、それはずっと未来の話
守貞親王は知盛が乳母夫として養育を担当することになる。

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重盛の死のショックから清盛が回復せぬ中、鹿ケ谷事件で近臣を処分された後白河院が関白・松殿基房と結んで政治的に反撃に出る。
摂政・近衛基実の死後、摂関家の家産は基実の正妻で清盛の娘・盛子が管理していたが、盛子が死ぬと後白河院はこれを自らの管理下に置く。
この措置は、摂関家の家産を基房の子息・松殿師家に継承させるためのものであり、基実の嫡男・近衛基通に継承させて、近衛家を摂関家嫡流と位置付けたい清盛の方針とは異なるものであった。
そして後白河院は自らの構想の布石として、20歳の近衛基通を差し置き、8歳の松殿師家を権中納言に昇進させる。
さらに、後白河院は清盛に挑発的な姿勢を維持し、仁安元年(1166)以来、平重盛の知行国であった越前国を平家一門から没収したことで、平清盛の怒りは頂点に達する。

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治承3年(1179)11月14日、軍勢を率いて福原から上洛する平清盛。
いわゆる「治承三年の政変」と呼ばれるクーデタの始まりである。
早速、翌日には松殿基房・師家親子が解官され、近衛基通が関白・内大臣に任命される。まず、関白人事から切り込んだ所に、摂関家の家産・嫡流問題が清盛の大きな関心事であったことがわかる。
強烈な先制パンチに後白河院は今後政治に口出ししないことを清盛に伝えるが、清盛が手を緩めることはなかった。
高倉天皇に働きかけ、後白河院・前関白基房と親密な貴族39名の官職を解き、遂に清盛は後白河院を幽閉する。
一般的にこの後白河院政の停止をもって平氏政権の樹立とされる。
ただ、清盛は政変を完了させるととただちに福原へと帰ってしまい、この時点での政権の性格は必ずしも清盛独裁とも言い難い。
政治を主導する高倉天皇、関白近衛基通、平宗盛の3名はいずれも未熟であり、政治を安定的に進めるには結局、九条兼実のような後白河院とも距離のあった中立的で経験豊富な貴族に諮問を求めざるを得なかった。
政変により平家知行国は17カ国から32カ国に激増する。これによって既得権を脅かされることになった地方武士の不満が、この後の未曽有の内戦の舞台を用意することになる。

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寿永4年(1180)年、4月22日。
安徳天皇が即位する。
天皇の即位礼がアニメーションとなったのはおそらく史上初。
令和の即位礼の記憶がまだ新しいので「見たことある風景」と感じた人も多いだろう。

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高倉上皇に厳島神社への参拝を求める平清盛。
実際の上皇の厳島参拝は3月のことなので、ここは時系列がおかしい。
アニメではあっさりと流されたが、上皇譲位後の初社参は畿内の神社が選ばれるのが慣例であり、上皇の厳島参拝は畿内の宗教勢力の強い反発を招いた。
これまで平家と協調的であった比叡山との関係にも亀裂が入ることとなる。
なお、新たに院政を始める高倉上皇を院庁別当として補佐したのが源通親である。

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宗盛、知盛の弟・平重衡も登場。
妻が安徳天皇の乳母を務め、自身も儀式に臨む幼い天皇の介添え役を務めるなど文字通り天皇を支えた武士。兄・知盛同様、軍事的才覚にも恵まれていた。

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そんな中、以仁王が平家打倒の兵を挙げる。
以仁王の挙兵については鎌倉殿の13人第3回の感想で解説を書いたので今回は省略。

『平家物語』ではこの挙兵は源頼政の主導で描かれ、アニメもそれを踏襲するが、頼政はこの時、77歳の老齢。
2年前には清盛の推挙で武家源氏として初めて従三位の公卿に列しており、平家に恩義こそあれど深い恨みはなかったと思われる。
挙兵の主導権ははやはり頼政ではなく以仁王にあったと考えた方が自然。

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初陣となった重盛長男・平維盛の視点で戦場の恐ろしさを描く演出は非常に良かった。この後の戦場の厳しさはこの戦いの比ではないのだが……

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以仁王と源頼政が討たれた後の徳子とびわの会話から、高倉院が徳子とは別の女性(殖子)との間に新たに皇子を得たことが語られる。
第四皇子・尊成親王、後の後鳥羽天皇である。

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徳子は高倉院が、平家の女である自分とその子の安徳天皇への愛を失っていることを理解する。
その上で、次のように語る、
「私は許すの。父上も上皇様も法皇様もみんな。どちらかがそう思わねば憎しみ、争うしかない」

許し合えない憎しみの内乱は目前に迫っている。


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