『ルポ 日本の土葬』について
今回は先月発売になった『ルポ 日本の土葬』(宗教問題刊)について書きたい。
著者の鈴木貫太郎氏は東京電力退社後、ニューヨーク・タイムズ東京支局、フィリピンの邦字新聞記者等を経て現在はフリーランスで活動されている。
講談社現代新書の『土葬の村』(高橋繁行著)を読んでいたこともあり、土葬という葬送の方式については私は以前から関心があった。
その上で、この本で中心に置かれている大分県日出町で起きたイスラム教徒の土葬墓地問題である。(この問題についての概略は省力。各自Google先生を使って調べて下さい)
まず、問題のきっかけとなった立命館アジア太平洋大学(APU)。別府在住のイスラム教徒が増えるきっかけとなったこの大学に私は学生時代にサークルの交流で2回ほど足を運んだことがある。なので、この点でまず心に引っかかるものがあった。
それ以上に引っかかりを覚えたのが、墓地建設に反対するネット上の意見の多くが「日本では土葬は認められていない。郷に入れば郷に従え。土葬を望むなら日本から出ていけ」という趣旨のものであったことだ。twitterで私はこうした意見を数多く目にしたが、これは事実関係の上でも誤っており、私は全く賛同できなかった。
我が国では昭和天皇まで天皇は約400年土葬で埋葬されてきた。
神道の葬儀である神葬祭も本来は土葬の考えが強く、明治時代には神道の強い影響で火葬禁止令が出されたこともあったぐらいだ。昭和中頃までは民間でも土葬は珍しいものではなかったのである。
そして多くの人が勘違いしているが、現状でも土葬は我が国の法律で禁じられていない。
葬送の選択肢として合法である。
上皇陛下は天皇在位中に火葬を望む意思を表明されたので、おそらく天皇の土葬はひとまず絶えることになるし、日本人の99%以上が火葬で葬られているのは事実だが、歴史と伝統を重んずる1人の日本人として「郷に入れば郷に従え」と火葬をイスラム教徒に迫ることはやはり私には抵抗がある。
一方、墓地建設に理解を示す一部マスコミやネットの声は地元で反対の声を上げる人たちには「国際化の流れに反する排他的なレイシスト」と決めつける雰囲気を感じだ。私はこれにも疑問を覚えた。
土葬、火葬にかかわらず墓地や葬儀場の建設は地域のトラブルになりがちなテーマだ。ゴミ処理場、原子力発電所なども同様である。「必要性は認めるが、よそにつくって欲しい」という思いが地元の人に生じるのは自然であり、これを東京に住む者が差別的と決めつけて良いのか。
結局、この問題は賛成派、反対派ともにネットやテレビで地元とは無関係な人が火をつけて問題を大きくしているのであり、本質はどこにでもある地域の建設トラブルなのではないかという思いを私は抱くようになった。
そういう思いで『ルポ 日本の土葬』の発売を楽しみに待っていたわけだが、著者の丁寧な取材は私の見立てが大筋で間違っていなかったことを明らかにしているように思う。
著者が取材した登場人物に悪人はいない。むしろ真っすぐな善人しかいないと言ってもよい。
建設を進めたい別府ムスリム協会もそれに反対している日出町の人たちも無茶苦茶なことを言っているわけではない。だからこの問題は難しい。
著者の多面的な取材により、かつては珍しくなかった日本人の土葬が少なくなり、今日には難しい原因も見えてくる。端的に言えば土葬のための穴を掘って埋めるにも労力が必要なのだ。
単に遺体を燃やして埋葬するかか燃やさず埋葬するか、の話ではない様々な手間が生じる。
都市一極集中で地域共同体が崩壊したことにより、土葬は難しくなってしまった。一方でイスラム教徒は信仰で結びついた共同体をつくりあげることで、異国でも土葬を可能にしているとも言えるだろう。
共同体と信仰。
この2つをともに軽視してきた日本人が土葬を手放すのは悲しい必然であるが、それを維持する在日イスラム教徒に「郷に入れば郷に従え」と迫ることはやはり私にはできない。
根本の問題は、国際化の流れに乗った行政が今なお無策であることに尽きるように思う。労働者、留学生として日本にやってきた外国人が日本国籍を取得し、日本で亡くなることになれば必然的に生じる葬送の問題に行政は思い至らなかった。それは仕方ないことなのかもしれない。
しかし現実に生じている問題に向き合わないのであればは無策と言わざるを得ないだろう。
事実、本書が取り上げた日出町の土葬墓地問題では、国と大分県の影が極めて薄いと感じる。
この日出町と同様の問題はいずれ他の地域でも生じることになるだろう。
外国人を受け入れる国際化は進めるが、葬送の問題は放置して無策。それは通用しないだろう。私は日本国政府にはこの問題と向き合う責任があると思う。その責任を果たせないのならば、国際化なんてやめてしまうべきなのだ。
行政が腹の括り方が問われているのだと本書を読んで思わされた。