努力すれば運命の人に出会えるのか?|デミロマンティックの私に見える世界
「運命の相手なんて私そんなのいないと思うのよ。運命の相手にするの。」
あの超ヒットドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で、みくりのお母さんが言ったセリフだ。
こういう類の話って、よく耳にする。
努力せずに運命の人には出会えないとか。この世に完璧な理想の人はいないとか。人間なんだから嫌なところがあって当然だとか。理想が高すぎると恋愛できないだとか。
仲の良い芸能人夫婦のエピソードを聞いて、羨ましいと思うことがあるのだけど、そういう人たちも努力して今の関係を築いているのだろうかと、ときどき疑問に思う。そうであるならば、いよいよこの先私に恋人ができる未来が見えなくなってくる。
自分が無理をしてまで、恋愛関係や夫婦関係を続けたいとは思えないからだ。
というより、その人のことをよく知ったうえで好きになっているつもりだから、自分にとっての大事な部分はクリアされているはずで、「無理」していると自覚している時点で、それは果たして本当に好きな人と言えるのだろうか?と思う。綺麗事だろうか?
夫婦のように同じ人と何年も長く過ごしたことはないから、経験者が「長く一緒に暮らしていると不満は出てくるもの」と言うのであれば、たしかに我慢は時に必要なものなのかもしれない。
でも私は、電気をつけっぱなしにしたり、靴下を裏返しにしたまま洗濯に出したりされただけで、たぶん怒ったりはしない。
みんなは、どんな努力をしているのだろうか?
例えば、条件的な面の妥協はどうだろう?
金銭感覚、子供が欲しいか、喫煙者かどうか、どこで暮らすのか…
こうして列挙すると、どれも譲れないような気がしてくる。上手くいっているカップルが、妥協をしているとはあまり考えにくい。合致する人同士が一緒にいると考えるのが自然だ。努力すべきはここではなさそう。
私が好きになるのはどんな人?
私が大切にしていること、私が相手に求めることは、優しさと、リベラルさだと思う。これは、ある程度長い付き合いがないとわからない。曖昧な基準だということは、私自身も自覚している。
無理やり説明するなら、例えば、ゲイカップルを街で見かけたときに「気持ち悪い」と相手が発言したとして、そんなときに努力して相手の考えを尊重することなんてできない、と説明すればいいだろうか(そもそもそういう思想の持ち主を好きにならないが…)。
例が極端すぎるかもしれないけど、そういう考え方の違いは、私にとっては不安要素になるし、共感できる場合はプラス要素になる。こういうときにこういう言動をとる人は、こういう場面になったときも…と良くも悪くも想像してしまう。
一方で、見た目に関してはさほど重きを置いていない。見た目がタイプでないと無理、という人が世の中に少なくないことも知っているので、その点私は妥協しているのではないかと思う。いや、重要視してないから努力して妥協しているわけではないのだけど。
何も私は、イケメンで高身長でお金持ってて優しくて…というような王子様を待っているわけではない。私は私なりの価値基準で人を好きになっているつもりなのだ。ただ、やっぱりそう簡単に人を好きになることはできない。
何かを譲ってお互いを尊重すれば、人を好きになることができるのだろうか?
でもそれって、本当にその人を好きになったと言えるのだろうか?
こうして私は、鶏が先か、卵が先か、みたいな議論にいつもひとりで陥ってしまう。
これじゃあやっぱり、当分好きな人ができそうにはない。
それ以前に、好きな人やパートナーがいないことがマイナスに捉えられてしまう風潮の方に変わってほしいけれど。
※デミロマンティック:感情的なつながりを感じる人にのみ惹かれる恋愛指向。Aセクシャルのスペクトラム。
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恋愛しない人が浮かない世の中に変える活動をするために使います。エッセイ以外にも小説を書いたり、歌も作っています。