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「HOTEL315」 5/17話

「やあ沙奈」
「よろしくお願いします」
悟志は小さな白い陶器を用意してシャモジは入れたまま小さなレードルを使っって中のスープを白い陶器に移し替える。沙奈はそれをまた腰をおりながら両手で受け取る。
 
  まず匂いを嗅ぎながら、少し息を吹きかけて温度を調節し口にする。目を見開き更にもう一口。小さく息を吐くと残ったスープを一気に飲みほした。
「あ~、結構なお点前で・・・」
少し息を吐くのと言葉が混じったように。
「それはどっちの意味かな」
「もちろん、美味しゅうございました、の方です」
「かたじけない」
  沙奈の目が細く目じりが下がる。
「これが今日の魚で、こっちが肉の」
  悟志が小さな容器で用意したそれぞれのソースをスプーンでその味を確かめる沙奈。
「う~ん、結構なお点前で・・・」
少しシビアな表情で。先ほどスープを飲んだ時とは異なり和んでいない様子。

「それは?」
「少し濃いかなって思いました。魚は卵黄がキツめで肉はフォンが強いかなっ、と」
「今日の客前はソースが先でその上にスズキのムニエル」
「なるほど」
「で肉は・・・あっ食べた方が早いや」
  調理場の澄のスペースに座れば壁を眺める事になる為、椅子を逆転して座り調理場内を一望してこの空気感を感じる沙奈に悟志が肉料理を持ってくる。
「今日のメインはチキンピカタ風。あえてグランヴヌールを基にした」

「エセイエ(essayer)

  悟志がナイフとフォークを沙奈に手渡すと肉料理を左端からフォークで刺してナイフをたてて奥の方から少しずつ上下に動かしカットして口にした。
「んん、そんなに感じない」
「今回は魚と同じでソースの上にメインをのせるスタイル。最初に直接舌にソースを味わう事になるが上にかけた程ソースの量が多くない。卵で緩和もされるしね。またカットした時に出る肉汁が味変させるんだよ」
「どれどれ」
  沙奈はまた一口大に肉をカットすると今後はナイフで皿にひかれたそのソースを肉に乗せるように絡めるように密着させてから口に入れる。どうやら納得の表情。既にナイフ・フォークを手にしていた悟志も沙奈に提供した皿から肉をカットして横取り。少しフォークで肉を押し込むと口の中に追いやる。
「う~ん。この肉汁が混ざる事で・・・」
  悟志は目を閉じながら自分の口の中に小さな楽園が訪れた事を感じた。
「今日のロティは?」

「私ですが何か」

  壁一枚向こう側にロティスール部門とアントルメティエ部門があり、そこから村本良子(ムラモト・リョウコ)が顔を覗かせる。
「さすが良子。その肉汁の具合最高だわ~」
「だろ?でも後にはこれがほしくならない?はいバゲット」
  良子は悟志に半分サイズのバゲットを投げる。それを受け取る悟志。
「気が利くね」
  良子はニッコリ笑いながらまたそこから顔を消す。悟志はバゲットをその半分に手でちぎって半分を沙奈に渡して自分の分をソースにつけてから自身の口の中へほうばる。
「いや~たまらん」
  沙奈もたまらずバゲットをちぎっては悟志と同じくソースをつけて口の中へ。
「さすがです」
「じゃついでに魚もいこうか」
  悟志は自分が担当する料理場にまた戻り直ぐにフライパンで魚をソテーする。直ぐ隣のコンロで一人前のソースを温める。鼻歌を歌いながら料理をする悟志はすごく楽しそう。それを見ている沙奈も楽しそうに笑顔。沙奈はもう一口ずつ肉とソースにつけたバゲットを食した。そして身震い。そうこうしている内に悟志は最初にミートプレートへソースを流し込むと直ぐにスズキのムニエルをその上に盛りつける。
「レモンかけるよ」
  沙奈は右手を上げて合図する。悟志は魚にレモンカットをつぶして生レモン汁をかける。その後パセポン、ハーブを飾り付けその皿を沙奈の待つテーブルに急ぐ。 悟志は肉の食べかけた皿を奥に追いやって魚の皿を沙奈の前に置いた。「エセイエ(essayer)」

  適度に小麦粉をまぶして焼き色も丁度良いきつね色とでも云うべきか。ソーシエとしてポアソニエ(魚料理担当)としても素晴らしい腕をもつ料理人で沙奈が尊敬する1人でもあった。悟志は直ぐにシーフードナイフを用意すると、
『いただきます』悟志と沙奈は同時に声をだす。そしてほぼ同時にその料理を口にする。
「あああ云う事なし」
「光栄です、グランシェフ」
  今度は悟志が沙奈に敬意を払うように頭を下げる。残っているバゲットも魚ソースをつけ、そして肉・魚料理共2人で完食した。沙奈は両手を合わせて肉・魚が乗っていた皿に目を閉じて頭を下げる。
「これは私が・・・」
  沙奈は食した後の食器・シルバー類を持って洗い場へ。悟志はその後を見ながらまた自分の立つ場所へと戻る。
「お願いします」
  沙奈は洗い場に従事するスタッフへ声をかけ食器・シルバー類を差し出した。

  そしてまた調理場内を歩いていき調理場奥に位置する小さな個室になっている場所に着く。真ん中で左右に分かるその部屋は、扉は透明で仕切りの壁も中が透視できるようなガラス張り。右側では肉を捌いているブーシェ肉担当の東条章夫(トウジョウ・アキオ)が。
  左側では魚を捌いている女性コミ・ブーシェ魚担当の遠坂真依(トウサカ・マイ)がもくもくとまな板の上にいる者と格闘していた。
沙奈は右側の扉を開き中に入る。
「おはようございます」
「おはようございます。ちょっといい?」
  2人は挨拶を交わすと章夫は包丁をまな板の横に置いて場所を沙奈に譲るように横の位置へと移動する。章夫はコックコートの上に白いエプロンを着用。そのエプロンはお腹のあたりを中心に、それが血だと分かるように染みていた。靴は白い長靴を履いており床は水浸し。肉を捌く量が多いと血が溢れ出しそのまま床へ流れだすことが少なくない。ホースを使って水で流すためにほぼ常に床は水浸し。部屋の中は生肉を扱う為、通常の温度設定より低い。それは隣の部屋も同様。沙奈はまな板の上にあった皮付チキン胸肉の皮を剥ぐ。

「こうやって肉と皮の間に包丁を差し込んで、自分の手で皮を握れるぐらいの所まで切って、後はその皮を引っ張るように剥がす。方向さえ間違わなければそんな力も要らないし剥がれやすい。丁寧にね。極力包丁を入れない方が鮮度は落ちないから」
  沙奈はその言葉通りにするとキレイに胸肉と皮が剥がれた。
「あとは慣れだから」
「ありがとうございます」
「剝がした後の皮は捨てないでひとつの所にまとめて冷凍しておいてください」
「はい」
  章夫は沙奈に頭を下げる。沙奈はその場を譲るとその隣の部屋に。外から見ると分れていた部屋の中央には透明の扉があり2つの部屋は行き来ができるようになっていた。
「おはようございます」
「おはよう」

  真依と沙奈が挨拶を交わす。真依も肉担当と同様白いエプロンを装着しているが肉担当のようにエプロンはそれほど赤く染まってはいない。圧倒的に肉類の方が血の出る量が多いのが良く分かる。真依は鯛を三枚卸しにしているところだった。その仕上がった数枚はフィレと骨に分かれてそれぞれ銀トレイに並べられている。沙奈はそのフィレと骨を見る。触る。匂いを嗅ぐ。
「大分慣れたみたい。キレイに仕上がっている」
「ありがとうございます」
「今日のディナー用に60グラムのスクエアカットでお願い」
「はい」
「骨と切り落としは中込さんに渡して」
「はい」
「じゃ~、もう少ししたらガルドマンジェに行こうか」
「はい!」
  真依は沙奈の言葉が嬉しかった。ひたむきに一つの事をもくもくと突き詰めればそれは自分の技術となり武器となる。その武器は多い方が良いが、新しいものを追って既に習得した技術が疎かになったらそれも問題。いつまで経っても1は1のままで止まってしまう。1から1が足されて2に成り、また1つ足されて3に成る。時には足された数字がそれ以上に成る事だってありうる。確実に、そして過信しない事。沙奈はそう教わり、そう継承していく。それは沙奈の信じる道。沙奈はニッコリ笑いながらその部屋を後にした。
「良かったな真依。初めてじゃね?グランシェフに褒められるの」
  隣りから2人のやり取りを見ていた章夫が真依の所に近づく。真依は一度作業を止め苦笑いを浮かべる。
  章夫も真依もまだまだ駆け出しのコミ(調理師)だが切磋琢磨しながら少しずつ自分に自身のスキルを蓄積している。魚の匂いがいっぱい付着したであろう両手をシンクで洗剤をつけて洗い流す。
  水道の蛇口は上下に取っ手を動かせば水が出る、止まる仕組みの物。その取っ手を右手の腕で下に降ろし水の流れを止めた。そしてまな板も同様に洗った後タオルで拭くとまた近くにある鯛の尾のつけ根を左手で握りまな板の上に寝かせる。
  その鯛の目は涙が溢れる寸前のように水分が溜まっていて、やがてその目から涙のように水が溢れてくる。それは少し赤みがかったようにも感じられた。

〇水の場面
1・地区予選会場 競技場内
  水の中を勢いよく息もできない潜水泳法で泳ぐ若い男性。頭には紺の帽子と目にはゴーグル。競泳用の小さな短い男性用パンツで、力強いバタ足と水をかき分ける様に両手を突き出してから勢いよく左右に水を追いやる力強い泳法。他の選手よりは明らかに潜水している時間が長い。ゆっくりと水面に頭から出てくると次には両手が水を絡ませながら進む。水しぶきとは違うその状態はモーターボートが水面を走りぬける、と云える程スムーズな無駄のない泳ぎ。それは創り上げられた身体からはなたれるストロークが他を圧倒していた。やがて目的地のゴールに手を着くと水の中に全身を隠した次の瞬間、勢いよく水中から水上に頭を出す。それは水中から放たれたロケットのように飛び出した、という表現が正しいかもしれない。魚住海人(ウオズミ・カイト)。水難大学二年生の水泳部競泳部門所属。

6/17話へつづく


ありがとうございます。いままでの展開とは異なる役者が出てきました。
あれ?と思った方。さすがです。
つづきを読んでいただければ幸いです。


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