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パリ五輪開催式の反キリスト性

2024年仏五輪の開会式は、大きな騒ぎとなった。マリー・アントワネットの斬首の演技、そして、トランスジェンダーによる露骨な踊りがあり、男性の陰部も見えていた。そして、主の晩餐を模したからかいがあり、その前に現れた青色の男は、酩酊の神ディオニュソスを模していた。それから別に、演技で青白い馬が登場したが、これは黙示録6章に出てくる「死」という名の、青白い馬を容易に想起させるものだった。

なぜ、ここまでして、猥雑な演技を喜び、キリスト教信仰を意図的に侮辱するのか?そして、これが一種のお笑いになっているのか、世界の多くの人々は首を傾げていることだろう。このことについて考察したい。

侮辱に対しては、愛で

私はキリスト者だが、仲間の信仰者の多くが傷付き、怒っているのはよくわかる。しかし、私は哀れにしか思えなかった。仏の歴史と文化に、反キリスト的で、暴力と混乱、不品行を、称賛しているものがあるのを、前もって見聞きしていたからだ。

むしろ、演じた人々に神の憐れみがあるように祈った。彼らが侮辱した、主イエスご自身は、私だけでなく、彼らを本当に愛して、彼らの罪のためにも死なれたんだよ、ということを伝えたい。

(米国で用いられている伝道者、グレッグローリー氏が、福音を伝える必要性をさらに感じたと説教している。)

フランス革命は「理性崇拝」

ここで、フランスの歴史をおさらいすれば、彼らのしていることが、まさにその延長であることが分かると思う。

今の仏国の政府は、フランス革命の伝統を引き継いでいる。18世紀、革命が絶頂に達し、ロベスピエールの独裁が確立した。彼は人間の理性を絶対化して、教会を迫害し、その制度を破壊した。

ロベスピエールは、キリスト教の神に代わる「最高存在」を革命の象徴として造り上げ、それを祝う祭典を計画、1794年に「最高存在の祭典」を挙行。今回の開会式は、まさにその祭典の延長だ。

 彼らは、文字通り、ノートルダム大聖堂の内陣中央に、ギリシャ風の神殿を建て啓蒙思想家の胸像を設置、その神殿から、「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるという、「理性の祭典」を設けた。

パリのノートルダム大聖堂での「理性の祭典」(1793年11月10日)

アンティオコス・エピファネスの「荒らす忌まわしいこと」

これは、まさに、かつてギリシアの王アンティオコス・エピファネスが、ユダヤ人とその信仰を根底から覆すために行った迫害、荒らす忌まわしいことと、酷似している。彼はユダヤ人の神殿を荒らし、豚の血をまき散らし、祭壇で豚を献げ、ゼウス像を敷地に立てた。

ダニエルは、マカバイの戦いを前もって、神の霊によって預言した。

 背きの行いにより、軍勢は常供のささげ物とともにその角に引き渡された。その角は真理を地に投げ捨て、事を行って成功した。

ダニエル書8章12節

敢えて、ディオニュソスを演じた背景

ところで、その理性の祭典は、「記録によれば、民衆が反宗教劇を酒肴におおいに飲み、熱狂的に歌い踊るカーニヴァルのような連日のお祭り騒ぎであった」という(ウィキペディアから)。主の晩餐の前に、酩酊の神ディオニュソスを前面に出したのは、まさにこれに相当する。

当時もこの神を奉じた人々は、祭典において、酩酊と遊興、乱痴気騒ぎが伴い、カルトのような熱狂と精神錯乱に陥っていた。

そのようなギリシャ・ローマ社会で、イエスが、イスラエルの信じているメシアであることを伝えていた、ユダヤ人パウロが、信仰を持ったキリスト者たちに警告を何度となく行ったのだ。

あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。

Ⅰコリント6:9-10

終わりの日に現れる「荒らす忌まわしい者」

ギリシアの王、アンティオコス・エピファネスのしたことに戻ると、ダニエルの預言では、彼に似た人物が、古代ローマ帝国が復興した後に現れ、世界を荒らし、不遜にも、ユダヤ人の再建された神殿の中に入り、荒らす忌まわしいものを据えることを預言している。

主イエスは、オリーブ山で弟子たちに、この忌まわしい者が聖所に入るのを見たならば、ユダヤ人たちは急いで荒野に逃げなさいと前もって警告しておられた(マタイ24章)

この男こそが、世界に荒廃をもたらす、黙示録で預言されている「獣」であり、黙示録において、主イエスが再び来られる前に世に現れ、全世界の住民を惑わす者として出てくるのだ(13章)。そして、イエスがユダヤ人たちに逃げなさいと言われているのは、同人物が悪魔の力によって、イスラエル人に対して大迫害を行うことも黙示録で預言されているからだ(12章)。

イスラエルを示す女は、太陽を身にまとい、12の星の冠をかむり、足には月がある。竜は七つの頭と十本の角を持って、産まれた男の子を食い尽くそうとする。天では、イスラエルのために戦うミカエルと、竜(悪魔)の軍勢が戦い、竜が敗北して、地上に投げ落とされる。

したがって、今回の開会式の反キリスト的な祭典は、フランス革命の伝統でもあるし、これから起こる、荒らす忌まわしいことの前兆であるともいえる。

今、仏国が、イスラム主義による暴力に満ち、反ユダヤ主義が蔓延しているのも、偶然ではなく、当然の結果だと言える。彼らは多様性と平和を言及するが、この開会式が行われる前後で、新幹線に攻撃があり、夜にパリが停電になるなど、暴力が押し寄せているのだ。

フランス革命を批判した英国政治思想家

最後に、フランス革命で起こったことを見て、政治においては「保守主義」というものが生まれたとされる。英国の政治思想家、エドマンド・バークだ。彼は米国の独立革命運動は支持したが、フランス革命には反対し、「フランス革命の省察」を書いた。これが現代の保守主義の胎動と言われている。

さらにバークは、一見、不合理に見えるような伝統や慣習でも、過去から続いているものにはそれなりに理由があることを重視しました。それが理解できないからといって、直ちに破壊するべきではない。その前提には、人間が不完全だという認識がありました。人間の理性や知性ですべてを把握することはできないのです。(太字は筆者)

https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/D_00201.html

大事なのは、人間の理性や知性には限界があり、不完全だというこということだ。日本にも通底する、「神を信じる者は、妄信的で危険だ」と揶揄、こき下ろす姿勢は、特に知識人にありがちだが、結局は、自分自身が神であるかのように絶対化していくのだ。神を信じるとは、盲目的になることでも、独善的、非寛容になることでもなく、人間がいかに限界があるか、へりくだる姿勢なのだ。

英五輪の開催式に流れた「炎のランナー」

その英国では、過去の五輪において、国民的コメディアンMr Beansが、これまた国民的映画「炎のランナー」の生のオーケストラ演奏の中でお笑いを世界の人々に与えた。比較すれば、どれほど後者が品格を重んじるかが分かる。

映画「炎のランナー」は、実話に基づいており、そこには麗しい贖いの物語に満ちている。熱心なキリスト者エリックと、ユダヤ人エイブラハムスのライバル意識と、違いを超えた友情がテーマの一つだ。

炎のランナーでの贖いは、日本に届く

そして、実話では、エリック・リデルは中国の宣教師になる。しかし日本軍の捕虜収容所に入れられた。そこで、日本を憎むのではなく、愛しなさいと、収容所の子供たちに教え説いたのだ。「敵を愛しなさい」という、イエスの命令に従って。戦争が終わる直前に収容所で病死した。その棺桶を担いだ子供の一人が、日本への宣教師になり、数多くの教会を建てたのだ。

こういった麗しい、神の贖いの歴史が、英国五輪の開会式で題材にした映画にはある。

神の栄光と地の平和

つまり、こういうことだ。神からの権威を侮辱し、全否定し、人間や理性が一番になると、暴力と荒廃が残る。反キリスト、獣は、そういった人物として現れる。しかし、神の前にへりくだり、神の賜物としての個の尊厳を大事にすれば、そこには平和と、傷の癒し、回復がある。

「神の名を唱えて、どれだけの戦争が起こったか」という人はいるだろう。しかし、その愚かな行為も、結局は自分を高めるために、神の名さえも利用したに過ぎない。そのことも含めて、人ではなく、神の名があがめられるべきなのだ。

「天にいます私たちの父よ
 御名が聖なるものとされますように」
(マタイ6章9節)

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