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総延長およそ150キロ!「ベルリンの壁」跡地を自転車で辿ってみた。(16)/記憶され続ける悲劇

チェックポイント・チャーリー

 「ベルリンの壁」を辿っていくと、人であふれる大通りが見えてきます。それは東西の境界に設置された検問所「チェックポイント・チャーリー」です。壁の歴史に触れられる場所として多くの観光客で賑っています。ベルリンには当時約10カ所の検問所がありましたが、その中でも最も有名な場所でしょう。今では多くの観光客が行き交う場所ですが、東西ドイツ時代は誰もが通過できる場所ではありませんでした。ここでは「西側」の市民も「東側」の市民も利用できず、外国人と外交官などが利用できる場所だったのです。

検問所「チェックポイント・チャーリー」。普段は観光客であふれているため、あえて人出の少ない時間帯に撮影しました。
「チェックポイント・チャーリー」の近くにも「ベルリンの壁」あった場所を表示する印を見つけることができるでしょう。

「東側」と「西側」が向き合う場所

 「チェックポイント・チャーリー」は壁に関連する場所の一つですが、残されているものは決して多くはありません。通りの中心にあるのは復元された初期の検問所の建物。境界付近に建つ小さな小屋が観光客の撮影スポットになっています。そんな小屋の近くには、大きく引き伸ばされた顔写真が見えるでしょう。これはドイツ再統一後に設置されたもので、「東側」を向いて設置されているのは、当時ベルリンに駐留したアメリカ兵の顔写真。そして「西側」を向くのは、同じく当時ベルリンに駐留したソヴィエト兵の顔写真。これらは「東側」と「西側」の分裂だけでなく、アメリカ側とソヴィエト側という冷戦の状況を感じさせてくれるのです。

「東側」を向くベルリンに駐留していたアメリカ兵の写真。
「西側」を向くベルリンに駐留していたソヴィエト兵の写真。

通りに残されたモニュメント

 「チェックポイント・チャーリー」周辺には壁に関連した施設が幾つかあります。「ベルリンの壁」に関連したものを展示するチェックポイント・チャーリー博物館や屋外展示などで、多くの人々で賑わっています。ですが、観光客に気付かれることのない重要な場所が近くにあるのです。それがあるのは「チェックポイント・チャーリー」から100メートルほど東に向かった場所。観光地から離れてオフィス街へと入っていくと、茶色のモニュメントが目に写るでしょう。それは壁によって命を落としたペーター・フェヒター(Peter Fechter)の慰霊碑です。

「チェックポイント・チャーリー」横の壁のあった場所を表示する印。
「チェックポイント・チャーリー」横に広がるオフィス街。

壁によって失われた命

 当時18歳だったペーター・フェヒターが壁で命を落としたのは1962年の8月のことでした。彼は友人と共に「西側」に向かうために壁を乗り越えようとします。友人は乗り越えることができましたが、彼は「東側」の警備兵に狙撃されて、壁の手前で崩れ落ちたのです。助けを求めて叫んだにも関わらず、誰も助けることはできませんでした。なぜなら落ちた場所が「東側」だったからです。「西側」からは助けられず、一方「東側」では「西側」への刺激を避けて近付くものはいませんでした。最終的に「東側」に彼が収容された時には50分も時間は経っていました。それは命を救うには遅すぎたのです。

ペーター・フェヒターの慰霊碑。
慰霊碑を訪れる観光客は少なく、周辺で働く人々が通り過ぎていきます。

記憶される続ける悲劇

 ペーター・フェヒターは「ベルリンの壁」のために多くの人の前で見殺しとなったのです。このような悲劇的な出来事はいつまでも忘れられることはないでしょう。私がそれを実感したのは、この場所を通り過ぎた時でした。その日は2020年の8月13日、「ベルリンの壁」が築かれた特別な日です。慰霊碑の前を通りかかると、目に入ったのは無数の花の輪でした。事件から約60年の年月が経ち、壁が街から無くなって30年以上も経っても、そこには多くの花が手向けられていたのです。この時に、多くの人が「ベルリンの壁」が生み出した悲劇的な出来事を忘れることなく記憶し続けていることに気付かされたのです。

8月13日「ベルリンの壁」が築かれた日に手向けられた花の輪。

こちらのnoteマガジンで「ベルリンの壁」を走破したことをレポート記事でまとめています。ぜひこちらもご覧ください。


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