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ロシア語を知らないモスクワ駐在員

見本市の怪人

突然、辞令が出て、岩波の露日辞典だけ買って飛行機に乗った私が着陸したのは、モスクワ郊外のシェレメーチェボ空港でした。

時候は5月、ロシアの遅い春が始まっていましたが、前任者の迎えで車に乗せられモスクワ市内に向かう私には、美しい白樺並木も目に入りませんでした。
駐在員の引継ぎは、合繊メーカーの輸出部が主催するモスクワ商品見本市の期間中に行われます。
日本からたくさんのスタッフや、関連メーカーの社員、必ず行われるファションショウのモデルたちが、2週間ほど滞在して目が回るほどの忙しさです。
会場はモスクワ郊外の ソコリ二キー公園の中にあるパビリオンを借ります。
その中に、明らかに服装の違う若い日本人が数人いました。日本から来たスタッフは殆どロシア語が判らないので、モスクワの大学に留学してきている日本人学生を通訳で雇っていました。モスクワ大学、モスクワ演劇大学、ルムンバ大学などいろいろです。

中でも少し年嵩のいかつい顔をした男がいました。
皆が「ガンさん」と呼んでいたので、ここではそう呼びます。
見本市の騒ぎが収まって、お客さんがほとんど日本に帰って行ったある日、私のホテルの部屋にノックもせずヌッとガンさんが現れました。

「石井さん、貴方はロシア語はできませんね。私が教えてあげます。」
「それは有難いが、貴方は何者ですか?」
「私は、もと関西全学連の執行委員長をしていて、在学中赤旗を振りすぎてすべての警察に顔写真が出回り、大阪大学理学部数学科を卒業はしたものの就職口がなく、仕方なく、日本共産党に紹介状を書いてもらって、ルムンバ大学に留学してきました。」
「でっ、そこを卒業した後はどうします?」
「日本でロシア語の先生をするつもりです。貴方は最初の生徒で、授業の練習なので月謝はいりません。」
「それでは、私の気が済まないので、週1回、月に15ドルでどうですか?」


当時、1ドルは360円1ルーブルは400円が公定の交換レートでしたが、ルーブルにはそんな実力はなく、闇レートは、ドルキャッシュなら1ドルを5ル-ブルで交換していました。

「そんなにもらっては悪いけど、週1回でなく2~3回来ますよ。」

ガンさんは、見本市のスタッフが大量に持ち込んで、余ったのを置いていった、ラーメンや日本食品の山を横目で見ながら、静かに言いました。
そのほかにも、スコッチならジョニーウォーカーの黒ラベルが、12本入りの箱ごと転がっていました。当時日本では、一本1万円近いジョニ黒もモスクワのハードカレンシーショップ(ベリョーツカ=白樺)でなら千円ぐらいで買えました。日本での値段は、殆どが、輸入税、酒税、物品税等が積みあがってコストの10倍以上になっていたのです。

ロシア語事始め

授業の初日は、ポタポーバ女史の書いたロシア語教科書の1巻から4巻までの紹介で始まりました、最初は、私の学習意欲が高く、順調に進みました。授業が終われば,早速酒盛りです。
二人とも日本人にしてはお酒が強いほうで、ウヰスキーを1本ぐらいづつ飲んでいました。
そのうち、

「これだけ飲めるのなら、飲みながら授業をしても大丈夫なのではないか」

どちらからともなく言い出して、ロシア語教科書ポタポーバは、31課から先には一歩も進まなくなりました。今でも31課のタイトルを覚えています。

「サマリョート リティトナ シーベル」
(飛行機は北に向かって飛び立った)

後の話ですが、ガンさんとはそれから50年ほど付き合うことになるとは、夢想もしませんでした。

贅沢な通訳たち

もう一つの問題は、外国貿易省傘下の公団との商談です。担当窓口は、英語、フランス語、ドイツ語を1つ以上話せましたが、もちろんロシア語の商談が歓迎されました。
手も足も出ません。
しかし、ガンさんのロシア語講習が始まると、石井駐在員の部屋には、日本食が沢山あって、お酒も飲み放題らしいという噂が徐々に留学生の間で浸透し始め、いろんな学生さんが訪ねてきました。
中でもガンさんのルームメートの和田君、モスクワ大学の石井君(のちの石井紘基衆議院議員)など多士済々でした。
彼らも暇だったらしく、私の部屋で長時間遊んでいましたが、公団から電話がかかって来ると、代わりに電話を取ってくれて、

「ペレボーチク ガバリ-ト」(通訳がお話しております)

と応対し、アポイントの確認から、商談の内容まで代わりに聞いてくれました。公団の方も便利だったのか、よく電話がかかってくるようになりました。


そこで、ルールを決めて、

「公団の電話を取ってくれた人は、公団での商談の際、通訳として雇い、1回5ドル払う。

としたところ、私の部屋には常に2~3人の留学生が屯するようになりました。
もちろん英語での商談も可能でしたが、商談の規模が大きく、(1デザイン400万メートルのトリコット生地、納期3か月等というのもありました)1つでも聞き違いがあると、莫大な損害が出ます。5ドルは安い経費でした。
そんなこともあって、商売は出だしから順調に始まり、最初の年には、一人駐在員としては破格の70億円の成約ができました。

ロシア語の達人たち

大手商社、メーカーの駐在員は殆どが、外大のロシア語科卒業か、中には、ハルピン学園卒業などという年配の人もいました。ハルピン学園は、戦争中スパイ養成機関として、当時の満州ハルピン市にあった語学養成所で、ロシア語のレベルは母国語同様という水準でした。
同じ敷地内に同文書院という中国語の養成機関もあり、中には、両方がべらべらという豪の者もいたそうです。

繊維関係の商売で中堅どころの川上貿易という会社と付き合いがありました。そこに杉原さんという年配の方が居て、ロシア語の達人という噂でした。後で聞くと、杉原千畝さんと言って、ユダヤ人に「命のビザ」を発給し、それがもとで、外務省に居ずらくなった有名な方だと聞きました。当時はまだ、戦前と時間的につながりのある時期だったと言えます。

外大卒の若い人たちは、学校で習ったロシア語が現地でなかなか通用しないので苦労していました。でも基礎はしっかりあるので、短時間で不自由なく話せるようになっていました。
私のロシア語講習は遅々として進みません。とにかく文法の変化が膨大で覚えきれないのです。
ソ連を代表する新聞、「プラウダ」(共産党の機関紙)の日本部長にファン・ボリスという朝鮮民族系のソ連市民がいました。
日本語の達人で、見本市の来賓や日本からくる要人の通訳を依頼していた関係で親しくなりました。
彼によると、ロシア人の記者でも文法は間違えるので、ロシアを代表する新聞としては困ってしまい校正部という文法チェックの専門部署がすべての記事をチェックすることになりましたが、校正部のスタッフはすべてユダヤ系ロシア人が担当したそうです。(やっぱり、ユダヤ系の人は緻密な頭の持ち主なのだと感じました。)

赴任して半年ぐらいたった時に、決めました。

1.仕事上のやり取りは必ず通訳を使う。
2.自分の日常生活は、自力で処理する。

多少費用は掛かりますが、生まれて初めて露日辞典を買った私を、翌日モスクワに飛ばした会社も問題だ!!
そう決めたら、ロシア語の勉強は急に楽になりました。ガンさんのいるルムンバ大学の寮に押しかけて、学生間で使われている、辞書には載っていない汚いロシア語で一緒に食事をしたりするようになりました。

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