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広州交易会Ⅱ

中山先生(孫中山)

私は30歳台の後半は毎年、年2回の「広州交易会」に参加していました。一担当者から課長になってからもそれは続きました。
団長は、例の飢狼のような風貌の空手の達人から、温厚な大人風の伊知地部長に替わっていました。
私のNOTEで実名を書くのは初めてですが、今回は実名を出さないわけにはいきません。

大会会場の一隅に防織品公司の商談室として、長い廊下に沿って、取調室のような小部屋が並んでいました。安普請で大声で話すと、廊下で待機している他メーカーの交渉団に聞こえてしまいそうです。新しく団長になった伊知地部長がまず挨拶をします。
公司も最初なので背筋を伸ばして応対します。

 「伊知地先生は、わが国とは今までに何か商談などの経験はありますか?」
 「特に、申し上げるようなことはありませんが、私は、母の実家が九州で、生まれたときに、貴国の孫文先生には随分可愛がって頂いたと言われましたが、赤ん坊の頃の話なのであまりよく覚えていません。」

瞬間、商談室の空気が凍りつきました。紡織品公司の毛経理は社会主義国の高官らしくない洒脱なお人柄でしたが、やはり固まっていました。
当時、蒋介石との内戦を勝ち抜いて国家主席になった毛沢東氏は、のような存在でしたが、毛さんでも一歩譲るビッグネームは「孫文」その人でした。
事実、北京にも台北にも、「毛沢東道路」とか「蒋介石道路」など聞いたことはありませんが、台湾にも、中国の各都市にも、「中山南路」中山北路」「中山記念病院」など孫文の号(中山)を冠した道路、病院、学校などなど山のようにあります。つまり孫文先生は、中国、台湾の両国にとって今でも「国父」と言う位置付けがされています。

孫文先生は清朝の支配に反抗する運動を指導していた初期には、一時清朝の弾圧を避けて日本に逃れてきていました。
其のとき身元を引き受け書生として雇い入れて面倒を見ていたのは、明治の右翼の大立者、頭山満(とうやまみつる)と言う人です。
その娘さんが伊知地家に嫁いで誕生したのが、わが伊知地部長だったのです。
お母上が出産のため里帰りしていたときに、孫文大先生は、頭山家の書生として、伊知地部長をおんぶして世話をしていたと言うのです。
其の日の商談は、短く、そそくさと言う感じで終わりましたが、翌日、本番の商談にいくと、いきなり取調室のような商談室を素通りして、奥の立派なソファーのある貴賓室に案内されました。全員にお茶まで出てきます。競合他社は何故我社だけが、奥に通されるのか理解できず、困惑していました。
当社との商談は、価格について譲歩とかは、ありませんでしたが最後まで言葉のやり取りは丁重そのもので精神的には楽な商談となりました。

越秀山公園飯店事件

当時、広州交易会の会期は30日、孫文先生に纏わるハプニングはありましたが、商談も煮え詰まってきて交渉団全員のストレスも溜まっていました。
お世話になっている友好商社をねぎらう意味で、広州一の料亭である越秀山公園飯店(「聴雨軒」と呼ばれていました。)を予約して、慰労会が行われました。
会期も終わりごろになると、公団も招待してお別れのパーテイーも数多く行われます。
普通、社会主義国では、商談の相手と宴会するなど、もってのほかと言うことになりますが、交易会では、お互い商談の相手を招待して宴会をすることは、認められていました。
公司からお返しの宴会に招待されたこともあります。出てくる献立は我々が莫大な料金を支払って用意したメニューと全く遜色ないレベルでした。この国は「面子(メンツ)」の国です。公司と国営のレストランの間には、料金についても暗黙の了解があったに違いありません。

交易会の会期も終わりに近づいてきて、レストランは満員の盛況です。
しかし、あまりにも混んでいたので、注文したお料理がなかなか出てきません。公司主催の宴会もあったらしく、そちらへのサービスが優先されます。一方、お酒は、すぐに出てきました。いずれも酒好きのメンバーなので、当初、茹でたピーナツあたりで飲みながら楽しく談笑していました。
その後、1時間たっても、出てくるのは、お酒だけということが続きました。
豆だけで、大酒を飲むと、やがて悪酔いする人が出てきます。
日ごろ、少しだけ引っかかっていたことが、大袈裟に言い立てられて、雰囲気はどんどん悪くなります。最初の前菜が出てきた頃には、ほぼ収拾のつかないような雰囲気になっていました。もうお料理に箸をつける人はいません。
最後に出てきたチャーハンを、匙ですくって投げ合ったりしています。
レストランの従業員が泣きながら止めに入りました。当時、あまり食糧事情の良くなかった中国で、チャーハンを食べないで撒くということは、許されることではありません。
お酒に弱い人はもう座っていられなくて、床に倒れています。
最後に、パトロールカーと救急車が駆けつけて何とか宴会は終わりました。

結果として、其の宴会は日本人だけの宴会であったため、大事には至りませんでした。

しかしながら当社は、其のレストランとは永久に予約できなくなりました。

それでも翌日には、四分の一USセント刻みの商談は、続けられました。
今でこそ、ネットであらゆる情報が入ってきますが、何万人もの交渉団やバイヤーが右往左往し、料亭は毎日満席と言うお祭り騒ぎの裏で深刻な中国情勢は進行していました。

其のことについては、会期中我々には一切入ってきませんでしたが、中国国民と同じレベルの情報が入る友好商社の人たちにとっては、大変な事態が進行して居ることがよくわかっていたようです。

公司の商談員は昼間の商談が終わった後、宿舎に帰ってから「学習」があると聞きました。毛沢東が仕掛けた「文化大革命」と言う権力闘争に中国全土で、学校、工場、公司も巻き込まれ夜毎に革命精神について勉強会があると言うのです。

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