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酒でも飲まずにゃやってられません!

アル中、依存症又は酒乱

私は、生来の酒好きで、今でも毎日かなりの量のアルコール飲料を摂取しています。
平均的に云えば、一週間で、焼酎2升、ウイスキー又はジンかウォトカ1本そして水代わりにビール少々、家内がワインを飲むときは勿論付き合います。
日本酒もよく頂くので、食事時には料理にあわせて1合ほどいただくこともあります。(要するに、酒なら何でも良いのです
しかしながら、80歳ともなれば夕食時にお酒を飲むと9時ごろには寝てしまいます。
そして5時間寝ると目が覚めます。
年を取ると一度に5時間以上は寝られないのは私だけでしょうか。
つまり午前2時には、すっきり寝足りて目が覚めてしまいます。
それから寝られないので、仕方なく仕事や雑用をこなします。
翌日(といっても、もう当日の朝ですが)のするべき仕事のレジメを箇条書きにしたり、メールを見て返事を書いたりしますが、やはりもう少し寝ようということになれば、そこでまず1杯となって酒量が増えるわけです。

私の父も、やはり酒好きで、しかもヘビースモーカーでした。
煙草は「光」又は「缶入りのピース」を吸っていました。
私が高校生の頃、家族が全員寝てしまって私だけ起きて受験勉強していましたので、微醺を帯びて帰宅した父のため玄関の扉を開けるのは私の仕事でした。

「お帰りなさい」
「うむ!」

という短いやり取りがあって、お互いに何をしているのかは、解りあっていたと思います。
父については、いつか触れることになると思いますが、終戦直後の混乱期に、6人の子供を抱えて働いていました。

「酒でも飲まずにはやってられない」

のは今なら痛いほどわかります。
そして、60歳で胃癌で亡くなります。
今の私なら、それを処理できたかも知れません。

胃癌は日本人の国民病で早期に発見すれば8割が生還できる病気になりました。

私は、タバコを飲まないので、ほぼ父とは同じ量を飲んでもまだ元気にしております。
もうひとつ違うのは、毎日大量のミネラルを摂取しています。
わが社の製品なので、まさに「売るほど」あるので毎日お酒の後に飲みます。
この20年間二日酔いになったことはありません。
今の会社に拘わることになった事の発端は、例のガンさんが

「いくらお酒を飲んでも二日酔いしない水があるんだけど、発明者に会ってみますか?」

と云ってきたのが始まりです。創業者の嶋西浅男氏については、これからも触れることがありますが、まさに孤高の研究者でした。

さて、私の現状は、アル中なのでしょうか、それとも依存症又は単なる酒乱?

アル中については、本場のモスクワで沢山見てきました。
私にとってアル中の定義は

「目の前にアルコールがあればなくなるまで飲む」

という事です。お金があれば当然買いに行きます。
お金がなくなれば、家族のオーデコロン(90%以上がエチールアルコール)でも飲んでしまいます。
末期のアル中が真冬のガソリンスタンドで、車に給油した後のノズルから滴るガソリンのしずくをコップに受けているのも見ました。
飲めば、「のどにカーッと来て後、朦朧となる」という飲酒の疑似体験ができるそうですが、流石に長くは生きられません。

私の場合、昼間は飲まないと決めたら、飲まないでいることはできます
。しかしながら、一旦飲み始めたらなかなか途中で止められなくてついつい飲みすぎてしまいます。
お酒に強かった若い頃は、酒に飲まれるまで飲み続け、色々な「酒の上での」失敗を重ねました。
社内で「石井は酒乱だ」といううわさが広がりました。
今では、年のせいで焼酎の2合も飲めば寝てしまいます。
つまり年を取って、乱れるまで飲み続けられなくなったのです。
こうして酒乱は卒業しました。いまや依存症の爺ィという定義は定着しました。

急性アルコール中毒専用救急車

私の「酒の上での」失敗は数多くありますが、おそらくこれが最大の不祥事件だったと思います。

ほとんど死にかけました。

モスクワ駐在員として赴任して最初の商品見本市が無事に収束しました。
この時期は駐在員交代の引継も兼ねています。
打ち上げのパーティーは、事務所のあるウクライナホテルの大食堂を借り切って行われました。
協力してくれた、本社からの出張者、各商社のモスクワ駐在員、通訳として働いた留学生の皆さんなどなど百人近い参加者で大賑わいでしたが、私は其の宴会の会計責任者でもありました。
宴が進むにつれて、新米の駐在員はどれほどのものかというわけで、次々と私めがけて乾杯攻勢が襲ってきます。
酒には自信の私は全ての乾杯を受けてたちました。
最後の乾杯を飲み終えるまでに、ウオトカのボトルを2本半ほど30分で飲んだらしいのです。
グラスを持った手が意思に反して下に下がっていき、突然其の後の記憶がなくなりました。

(ここからは、全て後から聞かされた話ですが、)

レストランの支配人は、

「大丈夫、すぐに専門家を呼びます」

といって救急車の出動を要請しました。
モスクワでは毎晩、宴会で飲みすぎて倒れる人が多く、そのための専用救急車があるのです。
救急車から、レスラーのような大男が二人降りてきて、私が崩れこんでいる、テーブルのテーブルクロスを上に載っている皿ごと捲り上げてテーブルの上を空け、私をドンと乗せました。
のどの周りに2~3本注射をして、首周りの筋肉を緩めた後、胃袋をぐっと押しました。私は噴水のように胃の中のウオトカを吹き上げあたりを濡らしたといいます。

「うまく吐いたので、命は問題ない。明日目覚めたらひどい二日酔いで苦しむのでコップに半分ぐらいブランデーでも飲ませて、寝かせてください。」
「ほな、ダスビダーニア(さいなら!)」

其の後、私はトランクを運ぶ手押し車に乗せられ、貨物用のエレべーターで部屋まで運ばれました。
翌朝目覚めると

「アッ起きた!」

という声が上がり、ブランデーをなみなみと注いだグラスが鼻先にあてがわれました。

「やめて、吐きそう」

というと、本社の輸出課長が

「医者が飲ませろって、云ったんだけど無理に飲まないほうが良いかな」

自分でぐっと飲み干してしまいました

さらに後日、前任の駐在員がやってきて、

「あの晩の会計責任者はアンタだったな。上着のポケットからぐっしょりぬれたルーブル札を出して、テーブルに1枚ずつ貼り付けながら、お勘定したんだ。レストランの支配人の顔を見せたかったぜ」

と報告してくれました。

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