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美しい風景

ちょうど一週間ほど前、僕はとある喫茶店で竹沢うるま氏の「The Songlines」を夢中になって読んでいた。最後の数ページ、物語はいよいよ終盤に差し掛かり意識が完全に読書に集中していたさなか、ほんの数秒だけ僕の意識が読書から逸れた。

少し離れた向かいの四人がけのテーブルに中年のサラリーマンが一人で座っていた。その店は中に入って人数を伝えると、ではそこのテーブルでお願いしますと案内される。四人がけのテーブルに一人きりで座っていたのは彼のわがままではなく、店員がそこに案内したからだ。混んでいたしやむをえずそうなったということ。

そこに店員の若い女性がやってきて、とても申し訳なさそうな顔をして「すみません、あちらの席に移動していただいてもよろしいでしょうか?」と声をかけたことをきっかけに僕の意識は一瞬読書から逸れた。僕の隣の二人がけのテーブルにいた客が店を出た後に三人組のお客さんが入ってきた、という状況だった。

声をかけられたサラリーマンは即座に状況を把握した様子で「ああ、いいですよ」と至極当たり前のことのように了承して席を移動した。店員の若い女性は「ありがとうございます」と満面の笑みで感謝の気持ちを伝えていた。

そして後から入ってきてそこに座った三人組の、やっぱりサラリーマンらしい男性たちも皆声を揃えて、席を移動してくれた人に向かって「ありがとうございます」と頭を下げて声をかけていた。声をかけられた男性は照れ臭かったのか、努めて無表情で目を合わせずに「ああ、はいはい」という仕草をして見せた。

なんてことのないその光景がしばらく頭から離れなかったのはなぜだろう。

写真家である竹沢うるま氏が自身の世界一周を記録した「The Songlines」を読んでいる間、僕は日本から一度も外に出たことのない自分がいかにスケールの小さい人間であるかを痛感させられ続けていた。この世界には僕の知らない風景が無限に存在している。おそらく死ぬまで実際に見ることのできない美しい風景が無数にある。

けれど、本当に美しい風景というのは、身近にいくらでも転がっているのかもしれない。

僕が目にしたそのわずかな瞬間には、純粋に善意だけがあった。店員の善意、席を移動してくれた人の善意、移動してくれた人にわざわざ感謝を伝える善意。人間はこんな風に、互いに善意だけを積み重ねることができる。

外国では言葉が通じないからこそ生まれるコミュニケーションの奇跡がある。けれど言葉が通じる者同士だからこそ生まれる奇跡もまた同じようにあるのだろう。僕はその前者を知らないがゆえに、後者の有り難みを長い間感じられずにいたのかもしれない。

そんなことをふと考えた。

2017年1月17日の日記

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