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「嫌い」なのではなく「不快」だった

好きの反対は嫌いじゃなくて無関心、とはよく言ったもので。

それは確かに真実だと思うけど、じゃあ嫌いの反対は何なのか?嫌いは好きと同列の感情なのか?ということが長い間自分の中で引っかかっていた。

僕はガキの頃から人の好き嫌いが激しくて、それは中高年と形容される今の年齢になっても基本的には変わらない。ずーっとそういう人生を歩んできた。だから「嫌いな人」と言われれば即座に思い浮かべる人物が何人もいる。

でも彼らに対してさほど関心があるわけでもないし、何かを期待しているということもないと思う。憎悪は愛情の裏返しだとは思うけど、嫌悪は好意の裏返しなのか。どうもピンとこないな、とずっと思っていた。

そんな僕が最近ようやく気付いたのが「嫌いじゃなくて不快だったんだ」ということ。

それはいわば「ゴキブリが嫌い」というのと同じ感覚だ。ゴキブリに好意なんて抱くはずもない。僕がゴキブリを嫌うのは、ゴキブリの気を引きたいからではない。僕がゴキブリを嫌うのはゴキブリに関心があるからではない。それと同じことなんだ、と思ったら妙に納得できたし、少し気持ちが楽になったような気がした。本当は関心のある人間に対して素直になれないだけなんじゃない?という理屈に対して反論できる根拠が見つかったから。

身近な人間に対して嫌悪感を抱きながら、でもその嫌悪感は実は好意の裏返しなのだろうか、と悩んでいる同志がもしいるのだとしたら伝えたい。あなたはそいつらのことが嫌いなのではない。ただただ「不快」なのだということを。

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