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お墓参り

わたしと彼は17年間ずっと一緒にいたけど、彼が亡くなったとき、わたしはただの同居人だったので、いろいろ事情があって彼の遺品は結婚指輪だけだし、最期の顔を見るのが怖くてお葬式にも行けなくて、お墓参りにも行けていない。

ずっと一緒にいたわりに、最後がこんなふうになってしまったのは自分の弱さが招いた結果だと思っている。亡くなってからしばらくは、形見の結婚指輪すら見ることができなかった。数少ない、それもピンボケばかりの彼の写真も見ることができなかった。それらを見ることができるようになったのは、ごく最近のこと。

月命日もずっとしばらくは、自分の具合が悪くなるばかりで、彼のことを思うことができなかった。しまっていた結婚指輪を目の前に出すことができて、そこに供えるように彼の好きだったたばこやビールを置いて、供養みたいなことができるようになったのは三回忌を迎えるくらいの頃で、ようやく最近になって、大丈夫だと思えるようになった。

この頃、彼が遺したブログやツイッター、mixiを見に行くことが多い。在宅勤務になって、一人の時間が増えて、何となく彼に会いに行きたくなった。以前なら、見ることすらできなかったのに、いまはそれができるようになったので時間がそれだけ流れたことを感じる。

彼の言葉や写真を見ると、生きていた時の彼を感じる、ような気がする。そこに、さみしさや会いたい気持ちは生まれるけれど、「つらい」「しんどい」「苦しい」といった感情は生まれない。

インターネット上でだけど、お墓参りをしているような気分。本当は、実際にお墓参りに行ければいいんだろうけど、彼のご家族に連絡を取ることがどうしてもできない。ここでも弱さが表れてしまう。申し訳ないと思う。

彼が遺した、それは意図して遺したものではないけど、わたしにとってはとても大事な場所になった。気が向いたときにだけど、いつでも会いに行ける場所。

いつまでもなくならないで欲しいな。

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