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嫌われない勇気 3章 「多動力を発揮するな」

氷と水がぶつかる気持ちの良い音がする。青年は幼い頃、風邪を引いて寝込んでいるときの母が替えてくれた冷たいタオルを思い出した。懐かしい気持ちに浸りながらゆっくり目をあけると、そこには小汚いオッサンが青年を見下ろしていた。そうだ。私はこの先生に金的攻撃を受け、悶絶したあと、気を失ったのだった。2回も論破された後の醜いケンカ。憤怒の形相で哲人を睨んだ青年は性懲りもなく議論を吹っかけるのであった。

「多動力を発揮するな」

哲人 キンタマは大丈夫ですか? 大分はれ上がってるようですね。ほら、新しい氷です。しっかり冷やしてください。

青年 ううう。あんな情けない声を出したのは小学校以来です。金的はダメですよ先生。

哲人 うふふ。

青年 いや、うふふ、じゃなくて。まあ、もういいです。それは忘れましょう。ところで先生はどうやって生活してるんですか?

哲人 もちろん親の仕送りです。

青年 そんなドヤ顔で言うことではないです。その年で親のスネをかじってるんですね。どうしようもないじゃないですか。一体親御さんはおいくつなんですか?

哲人 90歳を越えました。

青年 なんでこんな甲斐性なしに2回も論破されたんだ?

哲人 うふふ。なぜかわかりますか?

青年 なぜでしょうね。私の方が色々なことを経験してますし、広い知識を持っているはずですがね。

哲人 それが答えです。

青年 はっ?

哲人 あなたは「多動力」という言葉を知ってますか?

青年 もちろん知ってます。ひとつのことに留まらず色々チャレンジすること。ひとつだけでなく色々なことで収入を得ようとする。変化の激しいこの時代、「多動力」は確実に必要になってきます。

哲人 今現在、あなたは何に取り組んでいるんですか?

青年 株、FX、ビットコイン、ブログ、SNS、Youtubeです。

哲人 Youtubeもやってるんですね。どんなのを配信してるんですか?

青年 私の生き様を配信しています。私の優雅な朝、豪華なランチ、華麗な帰宅、そして、寝る前の冷静な振り返り……私という人間の「プロジェクトX」とも言える、壮大で素晴らしい動画です。たまに面白いこともします。

哲人 面白いこととは?

青年 コーラにメントスを入れて、飲むとかですね。

哲人 なるほど。再生回数は?

青年 現在は50回いけばいい方ですが、伸びしろのあるチャンネルですからね。これからですよ。これから。

哲人 ハッキリ言いますが、Youtubeはやめた方がいいです。

青年 な、な、なんですって!?

哲人 誰があなたみたいな普通の人間の生き様など見たがるのですか。どこぞの会社の係長どまりの。

青年 なんてことを言うのですか!

哲人 コーラにメントス? 何番煎じですかそれは。今時コーラにメントス入れても新しくもなんともないし、第一面白くないです。

青年 面白いですよ! 一度見てください。

哲人 イヤです。目が腐ります。他にもブログですか? これは一日何PVくらいですか?

青年 50PVくらいです。これも私の生き様を華麗な比喩表現を駆使し、書いてます。

哲人 だから普通のオッサンの生き様なんて、誰も興味がないですよ。しかも独りよがりで気色の悪い比喩表現満載の。

青年 でも、そこらの社長も同じようなブログを書いて、人気を博してますよ。

哲人 それは社長で、そこそこの実績を上げたからでしょう。ひとつの分野で成功したから、皆が興味を持つんです。少々鼻につくセンスのない比喩表現も成功者なら許せるというものです。あなたのような係長どまりの素人童貞の文章なんて誰も読みません。

青年 今回はいつにも増して口が悪いですね。

哲人 あなたが行っていること、すべて成功するにはかなり難しいです。

青年 もちろん。それは承知の上です。

哲人 ブログもYoutubeもSNSも、株もFXも、どれひとつ取ってみても成功するのは難しい。それなのに「多動力」とか言って、すべてチャレンジしている。

青年 そうです。それの何が悪いんですか?

哲人 「二兎を追う者一兎も得ず」ということわざがありますが、これは真実です。一兎をひたすら全力で追って得られるかどうかわからないのに、あなたは六兎くらい同時に追ってるわけです。

青年 それは成功者にも言えることじゃないですか。成功者は同時に色々やってすべてで成功してますよ。

哲人 それは「一兎を捕まえた後」のことです。一兎捕まえた人は「すごい」と言われ、信奉者がつきます。だから他のことをやってもその信奉者が手伝ってくれたり、応援してくれたり、モノを買ってくれたりするから、他のことでもある程度は成功することができるのです。

青年 ……な、なるほど。

哲人 もちろん、「自分に適したことを見つけるための多動力」というのは大事だと思います。私だって「嫌われない勇気」という哲学を見つけるまでには色々なことにチャレンジしましたから。

青年 そうだったんですね。でも、先生、哲学界でも成功できてないじゃないですか。

哲人 一般的な成功とはほど遠いですが、自分では成功していると思っています。あなたより100倍幸せだとも思ってますよ。

青年 それは聞き捨てなりませんが、本人が幸せならそれでいいんでしょうね。

哲人 もちろんです。あなたは私を論破するために来たとのことですが、それは無理です。なぜかというとあなたはすべてのことに「広く浅く」の知識、経験しか持たないからです。

青年 それはどうでしょうね。先生。

哲人 いえ、絶対無理です。私はコミュ力、統率力、などはあなたには遠く及びません。しかし、今回の議論は「嫌われない勇気」という哲学です。私の専門分野で勝負をしている時点であなたの負けは確定しているのですよ。

青年 はっはっは。大きく出ましたね。先生。

哲人 ハッキリ言って勝負センスがないのです。マリオカートならあなたでも私を打ち負かすことはできたかもしれないですがね。

青年 そうですね。私の類まれなるドリフトテクニック。アイテム出現の駆け引き、この辺は負ける気がしないです。最初から一位で突っ走ればそれで良いというワケでは……

哲人 興味がないので、もういいです。とにかく、ひとつの分野で成功しないと何者にもなれません。仕事で忙しい中、一兎も得られないウチから六兎も追って、捕まえられるワケがないんです。

青年 じゃあどうすればいいんですか?

哲人 天才モーツァルトはピアノのレッスン、演奏会をこなす日々の忙しい中、あれほどの素晴らしい作品を多数残しています。なぜそんなことができたのかわかりますか?

青年 才能があったからでしょう。

哲人 それもありますが、違います。答えは「ひとつのことに専念したから」です。いわば「多動力を発揮しなかったから」です。

青年 な、な、な、なんですって!?

哲人 天才と呼ばれる人は、ひとつのことにイヤというほど固執します。モーツァルトが仮に現代に生きていたとして、SNSやら株やらブログやらをしながら、これほどまでの偉大な作品を残せたと思いますか? タイガーウッズが世界一のプレーヤーになったと思いますか?

青年 そ、そ、それは……

哲人 天才は「努力の天才」とも言えます。モーツァルトもタイガーウッズも遊ぶ時間を犠牲にして、教育熱心な父親のもと、ものすごい努力をしました。他のことには一切目も触れずモーツァルトは音楽のみ、タイガーはゴルフのみに。だからこそ、天才になれたのです。

青年 私のように何でもかんでもチャレンジする人間はその分野では天才にはなれないと?

哲人 そうです。すべてが中途半端に終わり、ちょっとの成功すら難しいでしょう。

青年 じゃあ、なぜ世の成功者は「たくさん動くこと」を勧めてくるのですか?

哲人 たくさん動くとお金が動く。それ系の本が売れる。セミナーが満員になる。ツイッター、ブログを見る。たくさんの人がたくさん動くと成功者がさらに儲かる仕組みになっています。

青年 ま、まさか……

哲人 そうです。前回と同じような結論になりますが、結局は「資本家にいいように操られているだけ」です。

青年 な、な、なんと……

哲人 うふふ。反論する気も起こらないようですね。ここでデカルトの名言をお教えしましょう。「ゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらでも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる」というものです。

青年 …………

哲人 そして、あなたは「走りながらでも道をそれてしまう人」です。「ゆっくりとでもまっすぐな道をたどる人」には到底勝てないのですよ。


青年は再び肩を落とした。「多動力」は絶対だと思っていた。それがもろくも崩れ去った瞬間だった。青年は一体なにを信じていけば良いのだろう。もう、マリカーとかやって一生を過ごそうかな。メイド喫茶にまた行こうかな。真里菜ちゃんまだ、在籍してるかな。ニャンニャンしてくれるかな。ああ~行きてえ。青年はそんなことを思うと、生温かく、優しい気持ちが全身をそっと包んだのであった。

#自己啓発 #嫌われる勇気 #本

働きたくないんです。