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なぜ山に登るのか?山登りの日本思想

なんで山に登るの?そう聞かれるとどう答えていいか困る。

「そこに山があるから」そう答えたいがそれでは相手に伝わらない。もう少し具体的に考えてみよう。

忍びの修行として登っているというのがまずあるが、純粋に山登りが楽しいというのもある。純粋に楽しいというのは何なのだろうか?それは山登りという行為そのものを楽しんでいて、山登りによって気分をリフレッシュできるからだ。

「そこに山があるから」という言葉は、山登りという行為を連想し、その行為によって気持ちが晴れる体験をイメージすることで表れた言葉だった。

山登りでリフレッシュ
そこに山がある

リフレッシュ

山という場所は都市から完全に隔離されている。人工的なものの香りほとんどなく、地面から空まで完全な自然だ。

土の道を歩くことは都市から離れていることを暗喩する

都市という環境は、建物、道、乗り物、すれ違う人、目で見え耳で聞こえるそれら全てのものから「自分が社会に属している」ことを感じさせる。人との繋がり、仕事の存在、自分の意識はあらゆるものに繋がり煩わしく縛られ、それを忘れられないから疲労する。

アスファルトの道は都市とのつながりを連想する

山という環境は物理的にそれを断つ。五感から煩わしさを意識させるものはそこにない。

登山という行為は、計画から始まる。なぜならちゃんと計画を立てなければ遭難して死ぬからだ。計画は、登山をするための1日が確保されることを示す。登山のための1日は、山に登って下りるためのもので、それ以外のことはできない。それはその間仕事をしなくていい、人と関わらなくていいことと同義である。

登山という行為は時間的に仕事や人間関係などの煩わしさを断つ。

山に登り、登ったからには下りなければならない。その行為に費やす時間は確約されており、その間は物理的にも時間的にも煩わしい問題から解放され、それは意識の解放と同義である。

山に登り、下りるという確約された時

この発想は僕個人的なものなのか、忍者的なものなのか、山登りをする人が感じていることなのか、それとも日本人的な思想が混ざっているのかはわからない。少なくとも僕はそう思っている。

山登りの思想

古来、修験道では山に修行に入ることで一度死に再生すると考える。俗世から離れることで意識の縛りを解き、リセットした意識で俗世に戻ることが死と再生というイメージになるのではないだろうか?

現代人は発展した科学、安定供給される物質、全ては意識によって客観的に理解できると考え、死という状態を物質的に解釈する。しかし、修験道が盛んだった江戸時代において死はもっと主観的なもので、意識がある=生、意識がない=死と解釈していたと僕は思う。

『万川集海』に死の恐怖を乗り越えるために、日常的な死の疑似体験について説明される章がある。そこでは昼は生、夜は死、目が覚めているときは生、寝ているときは死、我々は常日頃すでに生死というものを体験していて、戦闘で死ぬということを特別恐る理由はないと説かれる。

山に話を戻すと、山は神道において信仰対象であり神域である。それは人が住めない環境であり、しかし山菜や薪といった恵みを与えてくれる領域であることからそう考えたのではないだろうか?

山は人の住める場所ではない=神域

神道では人の魂は神の御霊を分けられたもので、この世に生を受けると人、死ぬと神になる(神に戻るのか?)。神域=神の世界であり人が入れる領域ではないが、死ぬことで人は神になるので神域に入る。このことから、山に入るというのは神域に入ることで、神域に入るというのは死ぬということになる。そして山を下りて里に戻るということは生き返ることになる。

山との対話

山登りというのは、物理的・時間的・心理的に意識を解き放ち自分と向き合う、自然と向き合う時間をくれる。目の前にある山、自然に自分が山登りアプローチをかけることで山は自分に返事をする。要害な厳しい環境を示すこともあれば、優しく穏やかな環境を示すこともある。その提示に対してどう自分は応えるか、手を使い岩場をよじ登るか、優しいルートを探して遠回りだがゆっくり行くか?山、自然との対話は自分と向き合うことになる。

山に入ることで自分を知る

パルクールでは、身の回りにある環境を利用して心身を鍛える。それはどんな環境でも心と体を適応させて生き延びるためのトレーニングメソッドである。パルクールはそれを行う環境がなければ成立しない。環境があることによってそこにアプローチし、それに対する環境の反応やそれに対する自分の反応を観察して自らの心身を鍛えていく。

人は環境に応じることで自己を理解する。しかし、都市は雑音が多すぎるせいで自分の声と他人の声を混同し整理がつかなくなる。だから山に登る。山はごちゃごちゃした意識を解放し、リフレッシュした状態で自分を知れる。

自分を知るというのは、なにも頭で考えて知ることではない。土の道を踏む感覚、木の隙間から差し込む光を浴びる、山頂から広い空と周囲の山を望む。五感を通して体感し、感覚的に自己を知る。

光と影のコントラストを感じる

なぜ山に登るのか?

なぜ山に登るのか?その答えに対して「そこに山があるから」になってしまうのは、山登りという体験に多くの意味があり、それぞれの意味が歯車となって繊細に噛み合っているから、感覚的な情報を言語化する難しさからのことなのだろう。

そこに山があるから
山登りという体験に意味がある

🥷忍者の思考と精神を身につけるべく、日々修行を行ってますので見届けてもらえると幸いです。あとお仕事のご依頼もお待ちしております🙇‍♂️。サポートは兵糧(ひょうろう)に使わせていただきます。 WEB:https://shinobi-design-project.com/home