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試合の前に

今日の雨は冷たいですね。冬だな。皆さん、どうかお気をつけて。今日、私はしっかりと手帳に今の考えなどを書き込みまして、さらにこのnoteを書いています。いや、焦れよとも思いますが、ダメです。焦りは禁物です。


ところで、私はプロットや構成が苦手です。脚本の話です。昨日、手書きをして、パソコンで打って、たくらみやもくろみを文章にして、というところまで進めましたが、ここで自分なりにバチッとくるたくらみを見つけてしまうと、私の身体はもう試合に出たくてウズウズの状態になってしまいます。


ああ、イケるわ俺、今日イケるわ。


という感じです。そんな私を、監督の私は、その意気や良しと思う反面、なんかやらかすな絶対…、とも思うわけです。


ここで言う試合とは、台本、脚本を書くということ。決定稿を書いて渡すことです。台詞とト書きでできたものですね。それをもって、俳優を含む現場のあらゆる人たちがはっきりとどこかへ向かって動き出す、企画を具現化したものの決定版です。それを書くことを試合とします。演出も私が担う場合は、試合が連続したり、重複したりすることになります。それはまた別の機会に書きます。


いや、いやいや。でもですよ。まだ、今日の試合はこんな感じで行こうかな?くらいしかないわけですよ。相手のことも仲間のことも、そもそもなんの試合なのかもまだいまいちわかってないんです、イケると思っている私は。


そんな奴を試合に出せるわけがない、というのが普通の考えです。でも、過去の多くの場合、私はそこを振り切って試合ってきました。それでここにこうして生き残っています。


よくやれてきたものだなあ…。


これ、才能があると言う話では全くないですよ?ひとえにチームに恵まれたという話です。私の他に才能のある方がいらっしゃった。それもたくさん。


だから試合ってこれたというだけなのです。でも、だんだんとそれではいけないような気がしてきました(おそ)。チームが勝てば良いのは当然。いけないのは、私の予測不能な試合出場によって、周囲に負担をかけていることです。劇団はその最たる例です。なにが出てくるのか、私が台本を書き上げるまでわかりません。わからないまま何かを作らなければならないのですから、どんな専門知識を持っていたとしても、相当に疲れます。後から後からやることが湧いてくる。こうかな?と思ったら全然違ってた。ああほら、わからない本を読むのって辛いじゃないですか。わからないから。何の文字を追っているんだ?みたいな。飛び込んでくる言葉がいちいち面白ければまだ良いのですが、必死にやっていると面白いと思う気持ちもどこかに埋れていきますしね。なにかを作る時にもあるんですね、そんなことが。


そこで、まあ待てと。試合をしたい君の気持ちもわかるが、もう少し準備をしよう。今日の試合はなんなのか、どんなことが起こりうるのか、それに対処するだけの情報を集め、作戦を練ろう。場合によっては助っ人だって必要かもしれないよ?となだめすかすわけです。私を。私が。


で、私も、周りで人が疲れているのに気づかないわけではありませんので、いや、なに疲れちゃってんだよオラと思う気狂じみた私もどこかに潜んではおるのですが、ああ準備ね?わかった。やってやろうじゃないのさ準備ってやつをさ。と承諾するわけです。


そうして最初に取り掛かるのが『概要』なのです。あらすじとは違います。あらすじはざっくりした「お話」ですよね。家に例えるなら、間取りをバーっと紹介する感じです。概要は、たくらみを含んだ文章で、どこがポイントでどんな面白味があり、んー、家に例えるなら、ここでどう暮らすのかをイメージしてもらうような図です。絵かもしれない。それを、「お話」にする段階がくれば、きっとあらすじも必要になるでしょう。最初に書くものではないということですね。他人が最初に読むのがたまたまあらすじだったというだけです。


この概要をもって、私とチームは、ああ今回はこんな試合なのね。相手はこういう特徴を持っているのね。笑えるかもね、怖いかもね、わからない人にはわからないかもね、というようなことを共有します。


これが、うん、でも良いんじゃない?きっとできるよ試合。となれば、それをもう少し具体的にします。イメージ図みたいなものです。ほら、完成予想図みたいなもの、あるでしょう、家とかマンションとか、商業施設でもいいです。なんか、その家なり部屋なり屋上庭園なりに、家族がいたりカップルがいたりする、こ綺麗な絵とかCG。例えばですよ?ああいうのは、売りたいから売れるような完成予想図しか作ろうとしませんので、どれも似たり寄ったりですし、暮らしの真実が描かれていませんけど、脚本の場合はもっといろいろです。ジャンルと呼ばれるようなものもあるし。その場所をうろうろする登場人物も様々です。やたらおどろおどろしかったり、すわーっとした水墨画みたいな完成予想図だってあるでしょう。わからない人にはわからないタイプの作品かもしれませんが。


この辺になってくると、どうだろう400文字くらい?こう書いておいて実のところ字数は気にしてないのですが、まあ、それくらいにしといてやるよ的な文章になってきます。あらすじに近いものかもしれないけど、あれはざっくり間取り図という感覚なんでね、私には。全部を均等に見せる感じなので。でもここでは、見せたいところをよぅく見せる感じ。完成予想図ですよつって、さして特徴のないトイレと、それを使用している人の絵を見せることはそうそう無いですよね?そういう感じです。いや、トイレはあるんだ。安心しろ。だって家だから。でも今我々が知りたいのは、あるいはあんたたちに知ってもらいたいのは、この場所、この時間が一体なんなのか、ということなのです。


で、便宜上予想図としますが、予想図もまあ良しとなりますと、いよいよプロット。そして構成です。


プロットには、意図や狙いが含まれます。脚本になった時、つまり台詞や行動に書き換えられた時には言葉の奥に隠れて見えなくなってしまうようなものが書かれていたりします。


「その男は寂しかった」


なんていうのも、別に書いて構いません。多分。


でも、それは脚本には書かれませんでしょ?それが書いてあるとしたら、その男が「寂しいなあ」と言っちゃってしまうか、ナレーターが「寂しかったのだった」と言っちゃってしまうかです。おお、言っちゃっちゃったよ、お気持ちをって感じですね。そこは、絵とか行動とか、誰かとの会話の中で、きっとそうなんだろうなと思わせておくれよというところです。そのために二人以上の登場人物がいたり、セット組んだり、ロケ行ったり、衣装や照明や音楽入れたりするんだから。


だから書きません。でもプロットには書いてある、ことがある。実際は寂しかったなんてもんじゃなく、もう少し具体的で、もう少し固有の何かですけどね。


私はこれを書くのが苦手です。「その男は寂しかった」というのが書けない。それはつまり、私がそれを説明だと思ってしまっているからです。説明しちゃったらそれはそれでしかないだろうよ、と思っているからです。寂しかったと書けば、わかってはもらえるのです。でも、そうやってわかってもらった寂しさがなんぼのもんじゃいと思ってしまうのです。寂しさは人の数だけあるやろがいと言い訳します。


だから書けません。説明したくないんです。うるせえよ、ですね。なんだお前、偉そうに。いや、プロットは関係各位が読むものだし。それまでの試行錯誤を知らないどこかの偉い俳優事務所の人も読むんだ。それを読んで出る出ない決める人もいるよ。説明しなさいちゃんと。と、たしなめる私もいるんです。マネージャーの私です。プレイヤーの私に「喜安くん、それじゃ試合を有利に運べないよ。もっとみんなにわかってもらいな?その方が絶対オイシイ仕事来るからさ」ってなもんです。


俺もうるさいがお前もうるせえよ。と返す私です。失格です。いや、失格なのでしょうか。失格スレスレ?ルールの範囲内の反則でしょうか。わかりません。でも、一応自分に従います。自分の中でいくら揉めてもどこにも辿り着かないからです。とりあえず行動。プロットを書いてみようとするわけです。


すると、まだやってもない試合の全貌が何となく見えてきて、その試合やる意味ある?となります。


困りました。まだ試合はしてないのにです。でも、喜安の中では試合をした気になっています。それなりに落ち着いた試合運びの。なんとなくみんなが納得しそうな試合を。で、そんな試合しかできないのか俺は…となっています。まだしていないのに試合を!


だから苦手なんです。解決策は日々模索中です。企画によって、組むチームによって、その優しさは様々です。いつもいつもお世話になっております。はあ、頑張ろう…。


さ、続くは構成!下手です。


構成は、図面みたいなものでしょうか。ここに柱があってここに壁がある。ここがこういう広さで、ここから水が出る。というようなことがわかる文章です。お客様は知らんでもいいことが書いてあります。これがあるとその先の作業がスムーズです。次にやることがわかるから。そこに向かって、そうなるように書けばいいので。


これはね、今も勉強中で、興味を持って勉強するのはとても楽しいので、苦手だけどいつも作業は前向きです。ムームー言いながら何度も組み直したりします。楽しいです。これが楽しいのは、試合の時にいろんな作戦が取れるからです。お客様に、ここでこんなふうに暮らしたいと思ってもらうためには、きっといろんな手段、アイデアがあるはずで、それを提案するには、その前の基礎がしっかりしていることがとても重要だと感じているからです。


不思議ですね。プロットを書こうとすると試合をした気になってモチベーションを見失う私ですが、構成を考えると、その試合、やってみたいぜ、となる私でもあるのです。


プロット作業は、それが一つの作品のようなものだからでしょうか。そんなわけはないのですが。そこそこ詳しいシミュレーションみたいなものだと脳が捉えてしまいます。試合の行方は自分も最後まで知りたくないのです。


一方で構成作業は、ここはこうするけど、そこからここに到るまでの5ページは自由、みたいな余地があります。その余地を、試合でゴリゴリに書き潰します。気づけば、構成をはみ出すような何かが生まれていることもあります。それはとても嬉しい発見です。


演劇は、書いた後から俳優と演出家がやってきて、脚本通りなのに脚本通りではないことをしたりしますからね。それを稽古期間を使ってじっくり定着させていく。他のスタッフ陣もその稽古の結果を見つつ決めていく。構成は、その人たちのそういうチョー面白い試行錯誤を邪魔しないような気がするのです。…かね。わからないなまだ。今日も書きながら考えているので。


はい。まーそんな感じ。です。


今、軋みが出ている課題は、この構成作業の段階にあります。時間をかけてゆっくりと、たくらみを立て、概要を起こし、予想図も書き、プロットは苦手なので構成を組み立てるところを見ていただいて話の行き先は確認していただく、という作業をしています。どれも悪くはない。はずです。でも軋んでいます。構成が上手く組み上がらない。


何かが抜けているようです。あるいは、試行錯誤の過程で埋もれてしまったか。積んできたものが効いていないか。


一つはたくらみです。たくらみがまだ全体に効いていないのかもしれない。他の情報を積み込むことに意識が行って、たくらみを実行し切れていない可能性があります。それから「グッときたところ」。これ、最初の頃の投稿に書いてあるかな。すみません、打つテンポを変えたくないので確認しませんが、「グッと来たところ」を忘れてはいけません。大体、企画の立ち上げの最初の方にあって、手書きのどこかに書き残してあるものなのですが、これがどこにも無くて、「お金」とか「義理」とかを主な理として立ち上げに関わると、あまり良い思いをしません。グッときたものは、打ってそこに留めるのではなく、紙に流し込むように書き移すのがオススメです。


原作物なら、読んで見てなにか思った中でも特に印象に残っている思いです。グッときたところです。「え?」ときたところでもアリです。特に印象に残っていればそれも使えます。


オリジナルなら、思いついて、誰かに話して、さらに考えて、それを手帳に書いている間に、「あ」と思ったことです。あるんです。「あ」か「お」が。「ん?」かも。それです。それも情報の積み込みに気が行って埋もれているかもしれない…。


あとは「キャラクター」?


漫画なんかではそれが重要だと、私が子供くらいの頃にはもうプロの秘訣というより、一般に向けたコツのような頻度で語られていたような気がします。確かに大きいと思います。漫画やアニメでは特に。いませんからね、その人。映像や舞台なら、俳優の身体が在ることで、いることになるんですが。こちらがどう書いたとしても、その俳優の顔の印象、体つき、存在の量によって脚本以上のキャラクターが現れる。堺雅人さんがやるからああなり、香川照之さんがやるからああなるわけですね。それって思想や技術?いや、突き詰めると身体です。


(いわゆる2.5次元は逆で、身体をキャラクターに重ね合わせて再現度の高さを示す必要があるわけですが、優秀な俳優はそうしながらも自分の身体をちゃんと残します。それができている人が印象に残っているはずです)


でも平面の表現には無いんだな身体が。批判じゃないですよ?そういう表現だからです。だからその分を脚本段階でしっかり補っておかなければ、キャラクターデザインも曖昧になり、おっと。ここから先は部外秘です。


でもおかげでなにか感じるものがありました。書きながら考えているうちに、「お」という音が聞こえてきたのです。自分の中で。そんな時は。


そうです、手書きに戻ります。ではまた。


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