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方法いろいろ

考えることが増えてきて、更新する時間が上手く取れなくなってきました。良いことなんですけどね、やることがあるのは。


いくつかのことを同時に進めているのですが、どちらが良いんでしょうね。あっち行ったりこっち行ったりしながら考えるのと、一つのことを答えが出るまで考え倒すのと。いや、どっちでもないのか。その間に、いくらでもグラデーションがあるのでしょう。


ある件は、一気にやってしまった方が良さそうだったので、GOが出た途端一気に片付けてしまいました。なんか、行けそうと思ったんですよね。身体が行けそうと思ってるんだから、とにかく行かせてみればいいということで行かせてみたら、案の定行けてしまいました。軽快な、ジョギングのような疾走感で行けました。まだ何度か直したり、作業は続きますけど。


この辺からも、身体感覚が良くなってきたなあという手応えを感じているのですが、身体感覚が鈍っていた時は、行けるものもあえて行かない判断をしがちだったと言うか、いや、それより順番を守ろうとか、今日はこれをやると決めたんだからみたいな、さして重要でもない決め事を優先して、身体が本当はどっちを向いているかということを感じようとしていなかったところがあったんですね。


その結果、片付かないものがどんどん増えていって、頭の中が片付けられない部屋みたいになっていくと。自分で自分にストレスを与え続けて、疲れ果てて嫌になる。特に3〜4年前、家族を持って暮らすようになってから、この問題は私を大いに悩ませるようになりました。


でも、身体を信じて身体に従うと上手くいく。身体が行けそうなら行かせてしまう。それで一つ何かが片付けば、頭の中に隙間ができてスウっと風が通る。いつか読みたい、見たいと思って後に回しっぱなしだった本や映画を手に取る余裕ができる。で、本や映画を頭の隙間に入れてやれば、次の意欲が湧いてくる。少し前までは身体が向こうとしなかった別の案件にも、いっちょやってみるかという前向きな姿勢が取れるようになる。


と、書けば簡単ですが、この感覚を掴むのには少し時間が必要でした。若い時にはできていたことです。でも、家族ができたこと、そして歳を取ったことで見込み通りに行かなくなった。見込み通りに行かないのに、自分の自分に対するイメージだけは変わらない。それを、自分は変わったんだ、と理解させるところから始めないといけませんでした。脳に理解させ、新しい方法を取り入れ、変化しつつある自分にちょうど良い刺激を送る。返ってきた反応を観察する。そうやって少しずつ少しずつ、今の自分というものを掴み直すための試行錯誤をしてきました。


今、おかげでバッチリ上手くいっていますというほどの自信はありませんが、なるほどこういうことかもしれないという「良い感覚」が、以前よりもしっかりしたものになってきています。今目の前にあることも楽しんでいますが、この感覚がもっと上手く掴めたら、来年、再来年がえらい楽しいことになりそうだなと思っています。


で、一つ片付いたから他のことも片そうとしているのですが、なんとしてもやり遂げたい案件については、今、ちょっと考え過ぎかもしれないところに突っ込み始めていて、身体が重くなりそうな気がしたので少し引き返すことにしました。物語にする手前、頭の中に浮かんでくることをとにかくなんでもいいから大きなノートに書き出す作業、アウトプット作業に留めるようにしています。ここでは考えてはいけません。いや、考えたことだからこそ書くんですけど。でもなんて言うのかな、考えてから書いたのでは遅いのですよね。考えた端から書いていくと言うか。頭と指先がしっかりと繋がっている感覚で、とにかくスラスラスラスラ書くのです。考えると書くをほぼ同時に。考えたことを考えずに書くと言うのも一つの技ではないかと思います。


それを今、ためまくっているところです。すると、ちょっと物語とは関係ないような疑問も湧いてきたりして、いや、関係ないだろそれというような、例えば「意識とは」なんて本を読んでみようとし始めます。ここで、時間がないのになにやってんだ…!と自分を焦らせてはいけません。せっかく身体がその情報を欲しがっているのですから、まずは与えてみます。で、これじゃなかったという反応が返ってきたら、せっかく読み始めたんだからとは言わずに、やめます。次に身体がそちらを向くのを待って、今はどこを向いているのかを感じ取ります。どんどん読めるぞ、身体にぴったりだ!という事なら、当然続行です。


今の私はどうやら構成を勉強したい身体になっているようなので、物語やテーマよりも、構成を意識して映画を見たりしています。見た後に、その映画の構成をノートに書き出したりね。それが前進になるかはわかりませんが、画家だってスケッチをするでしょう。そういうトレーニングが、ものを書く者にも必要なのだと思うのです。


えーそれともう一つ、少ぉし先の方で実行する案件もじわじわ動き出しているのですが、これも、考えをあまり吟味する前にどこかに出してしまうという作業を始めています。出せばそのアイデアと距離が取れる。どこが良くてなにが欠けているのか、自分の身体から出してやることで、客観的に向き合えます。そうやって、材料になりそうなものを揃えているところです。


それからもう一つ、なかなか進まなくて今一番頭を悩ませている件があるのですが、考えても考えがまとまらないというか、考えがなっかなか走りださないのですね。「もくろみ」や「キャラクター」を疑ってみようとしている件です。これほんとどうしたもんかと。


走らせようとしているのに走らないということは、そもそも身体がそっちを向いていないわけです。いくら「走れ=考えろ」と言っても、ちょっと無理なんです、身体がそうなっていないなら。でも、進めないわけにはいかない。止まっている状態は一番良くありません。良くわからない方向だとしても、動いた方が何かは生まれます。だからここは鞭を打つのではなく、作業の種類を変えてみようかなと考えています。


筋トレもランニングも、テスト勉強なんかもそうですけど、一回やるまでが大変じゃないですか。大変なんですよね私の場合。やれば、そのあとはなんとかなるんです。ならない場合もあるけど。なにしろやるまでが重い。そういう時にどうするかは、きっと人それぞれ色々あると思うのですが、私が一つ思いつくのは、「お手本」を用意するということです。


「こうなればいい」というものを自分に見せるんですね。筋トレなら、こうなればいいという身体を見せる。パンパンのマッチョになりたいのか、ボクサーみたいになりたいのか、きっと脳内に漠然とイメージがあるはずなんですけど、頭は今、筋トレしなきゃ…ということに支配されていますから、具体的なイメージを掴むところまでいけてない状態なんですね。それを、これ?それともこれ?みたいな感じで見せてあげる。すると、「そりゃあもちろん井上尚弥みたいな?」とか答えが返ってくるわけです、脳から。そうすると、井上尚弥が意識の中に現れますね。現れたらなるべくそれを逃がさないようにしてください。画像とか検索してください。すると井上尚弥、どんどん大きくなっていきます。次第に「筋トレめんどくさい」と「井上尚弥みたいな」が拮抗し始めるんですね。気をつけなきゃいけないのは、YouTubeとかで、試合の動画を漁り始めた時です。目的がズレてきていますからね、そこは律してください自分を。


どうしても勉強がしんどい時は先に答えを見ちゃう。答えを導き出す方に労力を使わずに、なんでその答えになるかの方に興味を持っていく。とにかくなにかをやりたいんだけどなにをやっていいのかわからないなら、なにかをやっている人の中で、自分が好きな人を2、3人挙げて、その人がやっていることをただ真似てみる。そうやって、自分で生み出す労力を少しだけサボらせてあげることをします。


一回、脳を通さない方向に持ってってみる、ということなんですかね。すみません、感覚的なこと書いてますけど。お手本もね、3の法則で3つ用意できれば最善だと思います。1つだとお手本にならないんです、ほんとは。


てことは悩んでいる案件も、脳を通さない作業に切り替えてみればいいんですかね。お手本を見てみる?でも脚本の場合はどうすればいいのでしょう。世の中に、今書こうとしているものと全く同じ題材、同じ筋運びの脚本はありませんからね。


そういう時は分解するといいかもしれません。脚本全体で見ようとすると難しいけど、「構成」とか「テーマ」といった脚本に必要な要素に分解すれば、お手本にできるものはあるはずです。テーマは親子愛、とかね。この、前半で一気にルール説明しちゃう構成良いな、とか。で、懸案のこれは「もくろみ」と「キャラクター」に引っかかっている。そこを解決するお手本を見つけられれば、、、


とりあえず1つ目のお手本は決めました。


『半沢直樹』


今さらですが、ここはひとつ。私、前回も新シリーズも、まだ一回も見たことがありません。いやあ、まさかお手本にする日が来ようとは。動きを止めないでいると、思いもかけない方向へ身体が向かい始めることがあります。早速明日の時間割に組み込みましょう。いやあ、どんなドラマなのかな?


これが醍醐味です。



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