素材_07

狭間に揺れる

今、私の脳内は、来年早々に幕があく舞台、『リアルファイティング はじめの一歩 The Glorious stage!!』の演出と脚本のことでいっぱいのはずなのだが、残念ながらいくつかの宿題が片付かぬまま残っており、びっしりそればかり、というわけにはいかない状況にある。


それらを一刻も早く片付けて、『はじめの一歩』に専念したいわけだが、そう思うだけで早く片付くのだったら、そもそもこの段階まで残っていないわけだから、早く片付けてくださいねーなんて簡単に言われても困っちゃう私なのだ。宿題は、主に脚本のことである。


私は、つくづく書くのが苦手で、こうすりゃいいんだな…と頭でわかっていても、いざ書くとなるとよくわからなくなる…ということが多々ある。多くは、文字を追ううちに近視眼的なところに陥ってしまうからなのだが、この20年近く、その弱点を補うように、舞台を製作する際には、稽古と執筆の往復の中で脚本を完成させる仕組みを取ってきた。


と言えば聞こえはいいが、要は稽古開始時点で脚本が完成していない、ということだ。ひどい時(そう思う誰かにとってはということですが)は、みんな集まったはいいがまだ数ページしかない、なんてこともあった。そこから稽古をして(たとえ数ページでも)、目の前で立ち上がっていくものを、演出家の横にちょろっと座った脚本家が(実際には一人です)、「はあはあなるほど…」と得心して、持ち帰り、直し、付け加え、どんどん後ろに向かって進んでいき、いつしか100ページの脚本が完成する、という仕組みを駆使することで、苦手な者になんとかかんとか書かせてきた、というのが私のタネだ。


そのことを、稽古を見させてもらってから台本にフィードバックさせるんでえ、なんて言ってみたりもするわけだが、そんな小難しい言い草はどうでもよく、つまりは、作家さんをいったん机から離れさせる必要があるということだと考える。でもだからと言って、先生、気分転換でもしますか!なんつって休みを与えたところで、気になってることがある以上なにをしてたって課題について考えてしまうわけだから、ただ離れれれば良いというものでもなく、別の入り口から作品を見てみるという理屈をつけ、まずはとにかく机から離れてもらうわけだ。


そうすることで俯瞰の眼を取り戻す。脚本にべっちょり寄り添った脚本家はよろしくない。卓越した技がある方はそれでも上手く人に渡せるものが書けるのかもしれないが、私のような、技の完成していない書き手には、べっちょりしない仕組みがなにより必須なのである。だが、当然、完成が遅れるので、進行が遅れ、どこかに迷惑をおかけする。


というわけで、そんなことばかり続けていたんじゃいかんだろう40代。と一念発起して、「脚本執筆会議」なるものを発足し、少しでも早く現場に脚本が届くような仕組みを新たに模索していたりもする。その効果は、残念ながら本来の目的である“速さ”はまだ担保できていないものの、こうすりゃいいんだな…から始まる、よくわからない…への道を、うまく回避することには役立っている。


でも世の中、そうもいかない現場の方が多い。なにをするにも「脚本」ありきだ。すると稽古以外の私の命綱は「打ち合わせ」になる。


脚本に対して、私以外の複数の客観を入れることで、やはり俯瞰を手に入れる。最初は、わかっちゃねえなあとか、そうおっしゃいますがこっちはこんだけ緻密に組んでんですわ、などと頑なに近視眼から離れようとしない私を、あれこれ手を尽くしてストレッチしていただいて作品から引き離す。そうすることでやはり、よくわからないの森を回避するわけだ。が。


打ち合わせも所詮机の上、というケースがありまして。座る机を変えただけで、作品との距離は一向変わってない、という場合はまだよくて、むしろちょっと気になるものが置いてある机なんかに座ってしまうと、それも大事だな…、え、むしろそっちが正解…?とか思い始め、より深い森に迷い込むなんてこともあるわけです。打ち合わせは少し間違うとそれこそクルーまるごと行方不明なんてこともあるから、頼りすぎてはいけない。常に最新の注意が必要だと心得ているが、取り扱いは難しい。


だからさ、やはり体は偉大だよ。人が集まり、実際にやる。動く。繰り返す中でより良い瞬間を探し出す。打ち合わせは稽古に勝てないなあなんてさ。


そんなことばかりではないのだろうが、そんなケースが私には多い。体ほどの具体があれば、抽象とのバランスも非常に良く取れるのだ。抽象とはここでは台本のこと、あるいは文字によって記された行動や現象のことであり、大げさに言えば誰かの思想なんかである。


で宿題の話だ。散々考えているがよくわからない。残念ながら、ジャンルの違いから、稽古との往復というお決まりの仕組みは使いようがない。打ち合わせは散々している。繰り返し確認を取らせていただくことで、クルーごと失踪の気配を何度も何度も乗り越えてきた。でもやっぱりわからないものはわからない。わからないのだ。


これ、発表前のものだし、永遠に発表されない可能性だってゼロなわけではないから詳細は書けない。だがこのわからなさを攻略することは、自分の大きな成長に繋がるような気もする。一方で、そんなに必死になってどうなるの?と問いたくなる切ない夜もある。どうなんだおい。こんなところにこんなことを書いてる場合じゃないのだ実際。


と、ここまで書いてみて、でも少ぉし頭がほぐれたような気がしないでもない。そうなんだ、よくわからないときは具体が欠けているときが多い。具体にまで行ききっていない、とも言える。


思えば舞台を創作するときには、稽古と執筆の往復の中で具体と抽象を行き来するだけでなく、執筆の中でも具体と抽象を行き来する。端的なところで言やあ、構成はまだまとまってないが、書ける場面からとりあえず書いてしまうというようなこと。書いてみて、それを結局使わないということもあるが、具体的に書き起こすことで、それが作品の窓になることはある。そこから覗き込んで全体を捉えることだってできないことはないのだ。構成やらプロットやらから着手し、シーンごとの機能をかっちり設定し、エンディングのイメージやテーマを固めてからでないとけっして具体に進んではいけない、という法律はないのである。先人の知恵として、そうしたらそうしたでいいこともあるのはわかった上で。


そうだな。具体が足りないんだろうな。ああ。そうだ。これはなんか、うん、我ながらしっくりきた。具体か…。(ちなみに具体だけでもダメだと思います。具体と抽象をしっかりと行き来することが大事なのではないかと)


思えば20年前はとりあえず書いていた。考えるより書く。書いたものを見てオエーとなったら、いちからまた書く。具体の中でしかなにも判断できなかった。そのやり方が今も通用するとは、まったく思わない。なにしろそれですごく面白いものが書けていたなら、私はもっともっと早く売れていたはずなのだ。だから一切思わないが、そこには体があったなあ、なんてことは忘れてはならない。稽古だけじゃない、書くのにも体がいる。抽象は脳が喜び、具体は体が喜ぶ。ごく個人的な感覚だが、その気配は確かにある。翻せば、体が喜ぶところを探して書けば、具体は見えてくる。


そうなると…。そうか。あいつには具体が足りないんだな。まだ抽象なんだ、存在が。だから理論の上では書けばいいものがあるのに、体が喜ばないから…。そうかそうか…。となると私の場合は、展開はちょっと置いて、会話。そこで具体が見えてくれば、逆に展開の選択肢も見えてくる。それが正解ということではなく、試行錯誤の一つの経路として。


………………………………作業に戻ります。


(そうそう。「取材」なんてのも具体ですね。とっても具体的。そこから一度抽象まで潜る。で、また具体に戻っていく。具体的すぎてそのイメージから離れるのが大変な場合もあったり。原作がある場合、私にとっては小説は抽象で、漫画はそれに比してかなり具体。同じ原作ものでもスタートが違うので、次に目指す向きも逆になります。あるいは『芸術家入門の件』という舞台は、ゴールにとてもとても明確な具体が待っていたので、台本の方はあえて抽象を意識して、あえてよくわからないものを書くつもりで書きました。俳優も、作業という具体と、演技という抽象を行き来する感覚。見た人にしかわからないけど)


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