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「アライを増やしたい」という言葉に対して感じたことと、仲間を増やすということ。

LGBTの方の話を聞いていた時に、「アライを増やしていきたい」という言葉がでてきた。「アライ」という言葉に馴染みのなかった私は、「アライ?新井?粗い?」などとトンチンカンなことを考えてしまったが、結局その場でググって出てきた「仲間」という意味なのだとその時初めて知った。

その方は当然のように「アライ」という言葉を使われていて、多分、その言葉自体はLGBTの方の中では一般的な言葉だとは思うのだけど、私にとってはその時初めて聞いた単語だったので、当然のように語られる言葉が理解できなかったことに、その場からの疎外感を感じてしまった。

※ このエントリはLGBTの方々の在り方についての話ではなく、言葉の伝え方、仲間の作り方についての話です。念の為。

LGBT関連の法整備を進めていくためには彼らだけが活動しても世論を動かすには十分ではなくて、仲間を増やしていかなければならないと。ゆえにその仲間は、LGBTに限らず、ストレートな方をも巻き込んでいかなければならないと。

なるほど確かに統計上はストレートな人の方が多いし、最大多数の最大幸福を目指すという観点からは、自分たちのコミュニティ以外の人、つまりはストレートな人をも巻き込んだ活動をしていかなければならないのは自明だ。

としたときに「アライ」を増やしたいというのは当然考えることだと思うが、「仲間を増やしたい」という言葉じゃダメだったのかと頭を悩ませることとなった。

言葉は境界を規定し、内と外の隔たりを強化する

私たちの多くは何かしらのコミュニティに所属している。そして、そのコミュニティの中では独自の言葉が使われることが多い。

広い例でいえば、私はいま「日本」というコミュニティに所属していて、その結果として「日本語」という言葉を使っている。これは、日本で生きていく上で一番効率的な選択肢が日本語だからであり、マプドゥングン語を使ったとしても日本で通じることは少なく、生活において不便が生まれる。

もう少し狭い例でいえば、関西弁というものがある。「せやな」だけで1000通りを超える表現ができる関西人には関西弁というアイデンティティがあり、同じ言葉を話す人は同士として捉え、標準語を話す人には敵対心を持つ。見た目は同じモンゴロイドであったとしても、同じ日本語で同じ単語を使っていたとしても、僅かなイントネーションの違いが仲間意識を分ける。

このように言語はコミュニティの内と外を規定し、結果として内なるつながりを強くしていく。

このこと自体は良い方向に働くことは多い。例えば、アーティストのファンのみに通じる独自の言葉などだ。「腹ペコ」といえばマキシマム・ザ・ホルモンのファンのことを指すし、「馬の骨」といえば平沢進のファンのことを指す。これらのアーティストのファンでなければ通じない言葉だが、それらが通じる人間には仲間意識を増大させ、初対面であったとしても仲良くなるきっかけとなり、外にいたはずの知らない誰かが内側の人であることを暗黙のうちに知ることができる。

とはいえ、これらの言葉が悪い方向に働くこともある。若者の間で流行った言葉は「若者」という括りを生み出し、それを理解できない大人との間には「若者と大人」という本来は生まれることのなかった対立を生み出す。

言葉がわからないことで、その言葉を話す彼らに対して恐怖心を抱き、そしてその言葉が通じる人同士を一種のグループと見立て、私たちと彼らといった区別が生まれる。

つまるところ、人間という種は自分と違うものが怖い。故に仲間には同質性を求めるし、同質ではないものを排他的に捉えてしまう。見た目はわかりやすく区別を生み出し、言葉も見た目同様に私たちとあなたたちを隔てていく。

言葉の境界を溶かしていくことと、仲間を増やしていくということ

同質な人間だけで生活するほうが、当然ながら摩擦は少ないし、過ごしやすいのは間違いない。しかしながら、社会は同質な人間だけで構成されていない。

日本の中でも沢山の異質なコミュニティがあるし、人はそのどれかひとつに所属しているのではなく、沢山のコミュニティに同時並行的に所属している。日本語コミュニティ、東京コミュニティ、社会人コミュニティ、英会話コミュニティ、、あげだすとキリがない。

国というものは多様なコミュニティが存在することを前提として作られているが、すべてのコミュニティの利益が尊重されるわけではない。絶妙な地点でバランスをとり(というよりも、とってくれていると信じている)、その結果として得をするコミュニティもあれば損をするコミュニティもある。

とはいえ、特定のコミュニティを排除するつもりで制度を考える人はいないわけで(と信じたいというのが本音だが)、この損得は比較衡量の結果やむなく生まれてしまったものだといえる。とはいえ、損の側にまわるコミュニティにとっては致命的な話であり、そしてこの得や損は、民主主義の都合上マジョリティとマイノリティという構図とほぼ同じ形となる。

この煽りを真っ向から受け続けているのがLGBTコミュニティであることは言わずもがなであるが、ここには大きく2つの戦い方がある。

力で奪い取るか、仲間を増やしてひっくり返すか、である。

前者はいわゆる革命というものであったり、強硬手段に出るものであったりするが、これは結果的にそのコミュニティをより孤立させることは歴史が証明してしまっている。なので現実的に取れる手段は、仲間を増やすというものしか存在しない。

仲間を増やす時に最も効率的なのは、私たちとあなたたちが同質であることを示すということだ。別の名前のコミュニティに見えているが、本質的には同じものであったり、少しの部分だけが違うだけのコミュニティは数多く存在しており、それらがほぼ同質であることをお互いが認めることによって境界が溶けていき、結果として仲間が増えていく。

例えば、プロ野球の巨人ファンと阪神ファンは日常的にはいがみ合っているが、WBCやオリンピックなどの国際試合の応援においては多くの同質性を持っており、結果的に仲間としてチームを応援できる。

LGBTコミュニティの戦い方も基本的には同じだと考えていて、私とあなたは同じ人間で同じように幸せを感じるので、お互いよりよい社会を作っていきませんかと。多分それだけなのだが、何故かこの境界はとても深く、この簡単なことがうまくいかないという歴史がある。

この境界を溶かしていく要素のひとつに、言葉があると私は考えている。言葉によって境界が出来てしまうことを理解した上で、境界を生み出す言葉を可能な限り減らし、同質である部分を増やしていけないかと思うのだ。

ここで最初の話に戻るのだが、「アライ」という言葉はこの観点からはとても悪手だと感じてしまった。なぜなら、日本に住む多くの人は「アライ」ではなく「仲間」や「支援者」という言葉をつかっており、「アライ」という言葉を使う事自体に違和感を覚え、結果として「よくわからない言葉を使う怖い集団」という認知がなされてしまい、境界がより深くなってしまうからだ。つまり、本来は仲間がほしいと思って発した言葉が、仲間をより遠ざけてしまうのだ。

相手の知っている言葉だけで伝えていくこと

私たちにはプライドがあるし、コミュニティには大切にしているものがある。関西弁は大切だし、武道館は格闘技の聖地だし、サービス名に込められた意味は中の人にとってはとても大事なことだ。だけれども、それはあくまでも内向きの話であって、外に向かうときはそのプライドを捨てていかなければならない。

相手の知らない言葉で語っても、相手には伝わっていかないからだ。(下記のエントリは参考になる)

仲間を増やすのであれば、自分たちの考えていることを相手に伝えなければならない。そしてそれは相手の言葉で自分たちのことを語ることであり、そのときにはプライドを捨てて「相手に合わせる」ことが大切になってくる。

コミュニティの中だけで伝わる言葉は快適な状態を生み出すし、コミュニケーションは円滑になるし、内を向いている場合には良いことしか無い。だけれども、外を向きたい場合にはそうじゃない。

相手に伝わる言葉で「仲間になってほしい」と伝えていくことが境界を溶かしていくことに繋がる。そしてその反対の統計学上のマジョリティになってしまった側の人も、相手が大切にしている言葉をもっと知っていけると良いなと思う。



P.S. 私はこんな感じの話をゆるゆる出来る仲間がほしいです。気軽にご連絡下さい!



まいにちのご飯代として、よろしくお願いします。