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「親切」があるんじゃない。「親切な人」がいるだけ。

朝の通勤電車。

吊り革につかまる私。
その横に立つ、同じ背丈ほどの女性。


終点到着の間際、
私はふと、足元に目をやった。

隣に立っていた女性の
左足は黒いパンプス、
右足はグレーのクロックスだった。


気がつかなかった。
彼女が右足を怪我していたことに。

始発駅から終着駅まで、急行電車で30分。
彼女はずっと隣に立っていた。
それなのに、私は彼女の右足に、まったく気がつかなかった。


人が抱えている事情って、たいていは目に見えない。

大事なプレゼン前で胃が痛いサラリーマンも、
受験を控えて不安な学生も、
恋人にフラれて傷心の彼も、
遠足が楽しみで落ち着かない子どもも、

表面から見れば「普通の人」。


人が抱える事情なんて、たまたま同じ電車に乗り合わせただけの他人にはわからない。


だから、「親切」は強要されるものじゃない。
じゃあ、「親切」はなにから生まれるの?


「親切にしてやるかー」
こんな投げやりな感じじゃない。

「親切にしなくちゃだめだよね」
すこしの正義感は分かるけど、義務感とは違う気もする。

「親切にしてもいいかな」
親切って、こんな気まぐれでするものだっけ…?

あれ、、「親切」の入り口ってどこ?

あれこれ考えてるうちに、
唐突に本で出会った偉人の言葉を思い出した。

人にしてあげたことは、忘れなさい


そうか。
「親切」は、結果でしかないんだ。

「親切にしてやるかー」
「親切にしなくちゃだめだよね」
「親切にしてもいいかな」

この違和感の正体は、
「親切」を「しようとしている」こと。

本当に親切な人は、
人を助けるのが当たり前で、
だから体が自然に動いて、
まして自分が親切をしたとも思っていない。


「親切」なんて存在しなくて、
ただ、「親切な人」がいるだけ。



「親切な人」になりたいなあ。

そう考えている時点で、私は真の「親切な人」ではないことを認めなくてはいけない。

足を怪我していた彼女に、
私がしてあげられたことはなんだろう。

私が席に座っていたわけではないし、
正直なところ、私の「親切」がなくても彼女にはなんの問題もなかったと思う。
(実際、彼女はしっかりした足どりで電車を降りていった)

でも、それでも。
私は「親切な人」になりたい。


なろうとしてなるものではないけど、
自然に人を助けてあげられる人になりたい。

「親切」はいつだって、「親切な人」がいるところにしか、生まれないのだから。

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