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きわダイアローグ05 手嶋英貴×向井知子 3/6

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3. 山からのまなざし、山へのまなざし

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手嶋:山の上でこれだけ大きな社殿(八王子山奥宮)をつくることは大変ですよね。しかも全部人力ですから。焼き討ち後はしばらく人が立ち入れなかったのですが、豊臣秀吉の時代に再建されました。2つの建物(牛尾宮と三宮)がありますが、よく見ると建物の形が違っています。お堂は建て売りではなく、それぞれの神さま向けにオーダーメイドでつくっているんですね。それからこの下には、平らな土地がわざわざつくってあります。比叡山では、石が少し露出している部分を見かけることが多いのですが、これは昔の建物の土台や石段の跡の石ころです。今は何にもないけれど、あったものを支えていた土石とか石段の跡が、非常にたくさん露出して残っています。

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右(東側):大山咋神荒魂(おおやまくいのかみのあらみたま)、日吉大社摂社牛尾宮本殿・拝殿(ひよしたいしゃせっしゃうしおのみやほんでん・はいでん) 、重要文化財
左(西側):鴨玉依姫神荒魂(かもたまよりひめのかみのあらみたま)、日吉大社摂社三宮本殿・拝殿(ひよしたいしゃせっしゃさんのみやほんでん・はいでん) 、重要文化財
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金大巌(こがねのおおいわ)
八王子山(日吉大社奥宮)に祀られる磐座で、日吉大社発祥の地とされる。
左右に牛尾宮と三宮の社殿を配している
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平地に昔の建物の土台や石段の石が露出している
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八王子山奥宮から琵琶湖を望む

最澄さんがいた時代には、この辺りに神宮寺というお寺があったそうです。今はもうお寺自体はないのですが、そこの場所だけはまだ残っています。つまり、奈良時代にはすでにこの山では宗教的な修行やお参りの文化があったということです。神宮寺というくらいだから、完全に神仏の習合ですね。それから、この場所からは正面に、小さな富士山のようなこんもりした山が見えます。三上山と言って、それも神体山なんです。坂上田村麻呂が東北遠征に行く際、大きな蛇を退治したら、とぐろを巻いてあの山になったという伝説が残っています。これだけ開けている土地では、あちらが伊勢でこちらが熊野といった広い方向感覚を持ちやすいですよね。
信長がここを焼き討ちしたとき、まだ暗いうちに、船の戦団で浜あたりから登って攻め入ったそうです。朝、まだ暗いなかここにお参りに来た里の人が振り返ると、漁火がわあっとなっていて、これはおかしいぞと感じ、急いで下って鐘をガンガン鳴らすことで人々に知らせたと言い伝えられています。そのエピソードからもわかるように、昔から里の人はここまで、定期的にお参りに来ていました。この山にはこういう建物があって、こういう神さまがいるということを知っているので、里にいても、日常のなかでお社が見えると拝んでいたんです。そういう山とのつながりみたいなものが、自然と昔からできあがっている。それは、この地域の特色だと思います。

向井:最近「見える」とはどういうことなのかをよく考えるんです。インターネットを使えば、いろんなものが画像でパッと見られますよね。ただ、体験はそれとは全然違うもので、八王子山もそうですけれど、そこでの「見える」というのは、神さまがいるという予兆や予感のサインであって、描写ではないんですよね。それがすごく重要なのかなと思うんです。

手嶋:ストリートビューなどを使えば、画像としてはいろんなところにバーチャル的には行けます。でも、やはり山の上に上がって「下より3度くらい寒いな」とか「雲が流れているな」と感じることは、体感でしか味わえないですよね。

向井:一方で、見えなくてはいけないこともある気がしています。先日北九州市のエコタウンやビオトープに取材に行ったんです。そこでお仕事をされている、ビオトープの方や風力発電所の方たちに伺うと、それぞれ、子どもの頃からそのビオトープに調査に来ていたり、風車が建っていく姿を見ていたりしたそうなんです。自分たちの暮らしのなかで、生活の仕組みや自然との関わり方に好奇心や疑問を持つための重要な要因として、それらが「見えて」いることが大事なのだなと思いました。

手嶋:そうですね。こちらから何かにまなざしを向ける対象との関係性が、ある意味では、何かを引き起こすのにとても重要な役割を果たしているところがあるんでしょうね。坂本から八王子山を見上げてお宮が見えるというのは、こちらから見上げてまなざしを向けるだけではなく、同時に向こうからのまなざしを感じるという、双方向のまなざし関係だと思うんです。わかりやすい例で言うと、お墓参りでは、お墓に向かって手を合わせますよね。こちらからお墓を見て、まなざしを向けるだけではなく、実際にそうかはわからないけれど、亡くなった人も向こうからこちらにまなざしを向けていると感じます。それは、感じるというか想像すると言ったほうが近いかもしれません。それと同じようなことが日常、この場所で生活していて、山が見えると起こるわけです。それはたぶん、この場所の特殊なところだと思います。北九州市の方の場合、風車が見えることによって、自分のなかの関心が動いていく。まなざしを向けるというのは、「見える」と「観る」の中間くらいの動きでしょうか。そういう心の動きが、ひょっとしたらあるのかもしれないですね。

向井:北九州で、風力発電は他の自然エネルギー発電と何が違うのかを伺ったのですが、太陽光や水力は建ててしまったらそのままなのに比べ、風車は、毎日メンテナンスをしないとならないそうなんです。風車の機械と向き合っているわけですが、風車を通して風や天候と向き合っているんですよね。お堂と風車を一緒にするわけではないですが、まなざしという言葉を使うなら、風車は風のまなざしを知るためのメディウムだと思います。そこで務める方々は、風車に関わるようになってから、ちょっとした風の動きや匂い、音によって、天で何が起きているかわかるようになったらしいんです。現代で人工的につくられるものであっても、双方向的なまなざしというか、「見える」と「観る」の中間の関係が結べるものがあるならば、暮らしの形成がずいぶん違うんじゃないかなと。

手嶋:風車の動き方をメディウムにして、何かを理解する、把握しているわけですね。それは、まなざしを向けるというより少し強く、観察というか、積極的な観る態度が感じられます。観る人の条件(例えば小さな頃から見ているなど)によっては、風車一つでもそうなるのかもしれないですね。

向井:手嶋さんは若い頃、比叡山から大津の学校に行かれていたとおっしゃっていましたが、そのときは里坊などから通われていたのですか。

手嶋:15歳から19歳までの4年間、里坊の一つに寝泊まりして、朝一番にケーブルカーで上へ上がって、山で色々作務をして、夕方になると山を下り、学校へ行くという生活をしていました。学校がないときは山の上で寝泊まりもしていましたね。僕自身は中学生くらいから仏教について興味を持って、本などを読み始めて、学校の勉強よりそっちのほうが面白いと思っていたので、中学を出たら、東京で普通に進学するよりも、比叡山に小僧として入って、のちにお坊さんになろうかなと考えていたんです。最初に比叡山に来たのは、確か小学校3年生。その頃はまだ、山の上はかまどで煮炊きしていました。電気は通っているけれど、ガスはプロパンで運んでくるしかなく、お寺の近くはいつも煙の匂いがしていました。旅人が、煙の匂いで人里が近くにあると悟るような感じがまだ残っているような時代でした。中学校1年生からは、長期休みになると、無動寺谷の明王堂に長逗留させてもらって、小僧さんの手伝いもしていました。それもあって、だいたいの生活も、若い人手が喜ばれることもわかっていたので、中学卒業と同時に比叡山に小僧として入りました。

向井:お寺での修行そのものが、自然との共存だったと思いますが、手嶋さんはどんなときに自然を感じられますか。そして、自然についてはどういうことをお考えですか?

手嶋:自然と共存して暮らすって、結構大変なんです。例えば、雨が降ると、水がダーッと流れて人の歩く道がえぐれてしまいます。こまめに補修しないと、歩くのがどんどん大変な道になってしまうので、流れた土を戻して、平らにし直します。それから、かまどで煮炊きするとしたら、薪を割って、積んで、雨が当たらないようにして乾かさないといけない。そういうことが日常茶飯事で、普通の生活を維持するだけでも大変なんです。お坊さんが修行する際、まず、そういう生活を成り立たせる人員として下積みをして、自分が年長者になると、今度は下の人たちが周りでそういう役をやってくれる。そうやって時間をもらって、千日回峰行やその他の修行をするという流れになります。千日回峰行はもちろん大変なことですが、生活を維持するための下仕事をせず、回峰行だけに専念できること自体、特別な身分だともいえます。わたしの師匠で回峰行をした方も「行者よりも小僧のほうがずっと大変だった」と言っていましたが、行者が行だけに集中できるのは、小僧やお手伝いの信者さんが周りのことをやってくれているからなんですよね。そうした下仕事は、やってもなんのステイタスになるわけでもありません。そういうステイタスにならないことをするというのは、すごく貴重なことなんです。
東京生まれ、東京育ちのわたしも、そういう江戸時代と大して変わらないような生活のせいか、当時は考え方や生き方がシンプルでした。ほかのいろんなことを考えないし、娯楽もない。雨が降ったら「道を直しに行かないと」とか、薪が少なくなってきたら「冬に備えてたくさん割っておこう」とか、それの対応で、一日終わるわけですから。あれが欲しいとか、あそこへ行きたいとか、そういうことを考えている余裕がない状態ですが、昔の多くの人はそういうふうにして生涯が終わったんだろうなとも思います。「何か有意義なことをできていない」とか「周りと比べて自分はあまり人生楽しんでいない」といったことは、一種の余裕があるからこそ考えられるものです。そういう、ある意味で雑念がないという点では幸せかもしれません。そんな、前近代の人たちの生活感覚を多少想像できるような経験はさせてもらったなと思っています。当時、一つ願いを叶えてやると言われたら、考えることは一つ。「目覚ましにも人の声にも起こされず、自然に目が覚めるまで寝かせてほしい」というのが最大の願いでした。ゆっくり、時間を気にせず休めるって、実はすごく贅沢なことなんですね。

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山道の脇に積まれた護摩木にするための薪

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撮影:向井知子

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