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きわダイアローグ14 齋藤彰英×鈴木隆史×向井知子 6/6

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6.

「これもありだね、あれもありだね」:共通性の感覚のすり合わせ(質疑応答から)

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来場者③:みなさん、石を「ああでもない、こうでもない」と言いながら置かれたとおっしゃっていましたよね。その「ああでもない、こうでもない」という感覚って、たぶん各々にあると思うんです。制作において、どこを落としどころにしたらいいのか悩まれませんでしたでしょうか。わたし自身はそれで悩むことが多い。わたしはピアノを弾くのですが、好みと全く離れていた部分で、ああでもない、こうでもない、なんとなくここかもしれないと、ものすごく感覚的に音を置きたいと思う場所があることがあります。みなさんが作品を制作しているとき、どんなことを考えて「ここにしよう」と決めて、展示までもっていかれたのかなと気になりました。それから、お三方で話しながらすり合わせたときに、ここは難しかった、逆に、ここはみんなで合致したというポイントがあれば教えていただきたいです。

「きわにもぐる、きわにはく」(2023年)
テキスト:向井知子、空間構成:鈴木隆史、石:齋藤彰英
曹洞宗 東長寺 水の苑、東京
記録写真: 矢島泰輔

齋藤:「ああでもない、こうでもない」という言葉で表現してしまいましたが、それよりは、「これもありだね、あれもありだね」みたいな感じでしょうか。「この人はこれがありなんだ、僕はこれがありなんだ」と、「あり」という共通性の感覚のすり合わせはすごく自然とできていました。言葉のやり取りだけだと「ああでもない、こうでもない」になりがちですが、言葉ではなく、水の中でキャッキャしながら石を置いたことでことで「あれもありこれもあり、そっちもあり」という感覚になったのかもしれません。それはすごく心地よかったですね。

向井:最終的に今日の石の配置は鈴木さんがやっています。でもその前に、みんなでそれをいじったり、見たりしていたからこそお任せできたのだと思います。たぶん、合意、解決を目的としていない。お互いに理解するとか、解決することが目的なのではなく、一緒に手を動かしていたことで「折り合いがつく」。そこにあるような意味合いがつく。それは妥協とか、合意とはちょっと違う。お互いに整合性が取れなくて「何を言っているのだろう」と思う瞬間もありました。ただ、先ほどお話ししたような、生態としての必然性みたいなものから見ていったとき、ロジックとは別の必然性が見えてきて、あるがままに尊重するという感覚になりました。だから勝手なことをやっていますが、そこに何かが生じているのが面白いのではないかと思います。それから、ダイアローグを記録していることも結構面白い。今では「生態としての写真家の行為」という言い方ができるようになりましたが、2022年の6月頃の記述を辿ると、齋藤さんに「あなたの生態を見ました」とわけもわからず言っていたりする。

齋藤:言われたこっちもわけがわからない(笑)。何を見られているのかわからないんですから。

「きわにもぐる、きわにはく」(2023年)
テキスト:向井知子、空間構成:鈴木隆史、石:齋藤彰英
曹洞宗 東長寺 水の苑、東京
記録写真: 矢島泰輔

向井:わたしも何をもって言っているのかわからないのですが、とにかくそういうことを言っている。鈴木さんとの対話も遡ると、「このときこれについて、すでに言われていたんだ」みたいなことがありました。常々思っているのは、予感は大切だということ。今回も鈴木さんと水の苑に立ちながら「手を動かして、具現化していってもいいけれど、そのときにもっているイメージってあるでしょう。それが大切なんじゃないの」と言われました。それにはすごく共感できるものがあったんです。最終的に出てきた形は、当初のイメージとは全く違うものでつくられているかもしれないけれど、同じ予感のところに行こうとしているというか、知覚の整合性について必然性をもっているというか。だから、展示の形式がたとえテキストと石になっても、わたしが映像でやったとき、あるいは全く違うことをやったときと、別の形の体験の翻訳にはなると思うんです。そういうところを目指しているし、そのための予感をどこかにちゃんともっている。齋藤さんは自分の作品について「まだわかりません」とおっしゃっていたけれど、「齋藤さんの中に感じていた、わたしの思っていた身体性やダイナミックさが投影されているじゃん」と、わたしは勝手に嬉しくなっています。

鈴木:僕の本業は建築の設計なので、チームで事に当たるというのは、僕にとっては普段と変わらないこと。なので、僕としては普段の業務と同じようにできた感じがあります。

向井:特に鈴木さんの場合、公共空間をやられており、設計したものに対して人間や自然現象といったいろんな要素が関わってくるので、それでも成立するものにするということをいつも考えていらっしゃると思うんです。

鈴木:そうですね。例えば「これをもうちょっとこうしたほうがいい」とか「あれとこれを入れ替えたほうがいい」とか、そういう微妙な感覚に頼る判断は、一つの建物ができるまでにやらなきゃいけない判断のうち数%しかない。ほとんどのことは、これが最善手だと思って打ったことのつながりなんです。これはどこに打ってもいいというときは、かなりまれで、全体の中で考えるとすごく少ない。すごく少ないからこそ印象的なところだったりもするのですが。今が、そういう選択をしているときなのか、あるいは大きな流れの中で決まるべき道を探さなければいけないタイミングなのかの見極めは、美術の制作においてもたぶんあることだと思います。

来場者④:すごく面白かったです。きわに対して、水と地のきわであったり、アートと建築のきわであったり、人間とそうでないもののきわであったり……と、いろんなことを考えさせられました。先ほど、鈴木さんが、石を水中に沈めてしまうとただの置石になってしまうとおっしゃっていましたよね。アートとそうじゃないものの違いというか、どこからアートになるのかについて教えていただけますでしょうか。それから、向井さんが映像を断念された理由があれば、それも知りたいです。

向井:「きわにたつ」「きわにふれる」を行い、いろんな方との対話の中をしていくなかで、いろんな方が「きわ」をキーワードにしたときに見ていくものを投影したいという気持ちが生まれました。なので次回は、対話から生じた何かがここに立ち上がるといいなと思っていました。それから、関与ということについて考えたとき、いつかわたしも歳を取って、映像を使わなくなることがあるかもしれないなと思ったんです。でも、関与することにおいて、必ずしもわたしの手法でこうしないとできませんとか、こういうアプローチじゃなきゃできませんっていうことではないのではないかと思いました。冒頭でもお話ししましたが「きわにたつ」で渡邊さんが「僕はここに関与していたんですね」とおっしゃったように、何かに関わるには、いろんなアプローチの可能性があるなと。

それから、自分に対して、混乱して変化していきたいと思っていることも理由でしょうか。歳を重ねていっても、ちゃんと混乱していきたいんです。「きわにたつ」「きわにふれる」をやったときも、膨大な量の対話をして、膨大な量のことを考えました。たぶん「きわにたつ」「きわにふれる」を改めてやっても、見せ方は変わると思います。ただそれをそのままにせず、ちゃんと消化しなければいけない。言葉にならないような、わからないものに関して、わからないけれどそれを言語化する必要があるんです。言語化とはいっても、言葉ではなくてもよくて、今回みなさんにお見せした形も最初はノーテーションを書くとか、ドローイングをするとかいろいろな案がありました。実際に置いたテキストについても、丸く切ったほうがいいのではないかなどと描写的なことを言っていましたが、鈴木さんからこのまま置いたらいいんじゃないと言ってもらって、今回の形になっています。だから断念したという言い方をしましたけれど、必然的な状態にしてもらったという言い方のほうがふさわしいかもしれません。

鈴木:アートとそうでないものについては、非常に難しいところだと思っています。ただ、今回の展示に関して端的に言えば、テキストであれ何であれ、作品化したものを置くというより、それを含めた開かれた場所をつくりたいと思っていました。石もそのための1要素という扱いにしたかったんです。水面に上がった瞬間に作品になるというものではないですが、少なくとも、もともとあったものと、手を加えたものとがちゃんと差別化された行為にはなっています。いずれにしても、構築したかった大きな関係性の中の一つの要素になっていて、あの場所をつくるために必要なものだったということでしょうか。建築の設計における一つひとつの要素として扱っているようなところもあります。近年、作品を展示のデザインを建築家がやるケースがとても多いですが、僕はそこに全く興味がありません。美大に長くいて建築と並走してきた身としては、そこには立ち入りたくないという印象です。歴史的なことを言ってしまえば、そもそも、すべて建築にくっついていたものを引きはがしてアートができているので……。ですから、個人の作品の設置の仕方をデザインしたというより、材料を提供してもらって場所を設計したという感覚に近いですね。

向井:それでは、こちらで終了したいと思います。本日はありがとうございました。

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冒頭記録写真:矢島泰輔






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