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アメリカ合衆国の歴史を大人になってから教わった(2/3)17世紀から19世紀まで

アメリカ合衆国の歴史を大人になってから教わった(1/3)を読む

見出しの画像はあるユーザーがツイッターに投稿したものだ。集まった47人のアメリカの政治家やリーダーなどが「独立宣言」に署名をする瞬間を描いた絵画である。今もアメリカの国会議事堂に飾られている。赤い丸で顔が隠されている人物は全員「奴隷所有者」である。47人中、実に34人もだ。決定的な証拠や当時の記録はないため100%とは言えないが、複数の歴史学者が可能な限り検証したところ、この34人は「奴隷所有者」でほぼ間違い無いという結論が出た。前の記事で触れた「心優しい英雄、ワシントン」も奴隷所有者だった。この絵画が描いているのは、奴隷を所有しながらイギリスの支配からの自由を宣言し喜んでいる自分たちの矛盾には目を瞑っている歴史的瞬間である。

以下がマイケル・ベントー氏に教わったアメリカ合衆国史の年表である。

初めてのアフリカ人の北米大陸上陸から合衆国建国まで

1526年(以下「年」省略):イギリス人(ピルグラム)がメイフラワーに乗ってアメリカの東海岸に到着するおよそ100年前に、アフリカ人はすでに北米大陸に到着していた。それはヨーロッパの奴隷商業によって当時スペイン領だった現在のサウス・カロライナ州で売買されるためであった。現在のフロリダ州も当時はスペイン領だった。

1619:ピルグラムを乗せたメイフラワー号が北米東海岸ケープコッドに到着する一年前、北米のイギリス領の港に初めてアフリカ人が奴隷として連れてこられる

1669:北米イギリス領で初めて「公安取締りの法」が実施される。それは暴力と、今で言う「テロ行為」を使い、奴隷にされたアフリカ人を弾圧する政策だったつまり北米で初めて組織化された「警察」はアフリカ人弾圧が目的であった。(そして現代も警察は黒人をはじめとした有色人種への弾圧行為が目立つ)

1775:イギリスが奴隷制度廃止に向けての兆候を見せる。奴隷の労働に依存していた北米「13植民地」はこの傾向を恐れ、イギリスからの独立について議論し始める → そのうち独立戦争開始

1776:7月4日「独立宣言」をする。この文書を書く際、「全ての人間は生まれながらに平等である」という文言を「全ての人間は社会の一員になったら平等である」という言い方に変えた。この変化により、「社会の一員」とされない、またなれない、アフリカ人と先住民、一部白人女性や子供は白人成人男性と平等な人間ではないと明言できる抜け穴を用意したのである

1777:13植民地の白人は「自分たちにはイギリスの支配から開放され、自由に生きる権利がある」という主張で独立を正当化した。しかし、自国の奴隷制度は廃止するつもりはなかった。その大きな矛盾はアフリカ人にももちろん理解でき、奴隷であったアフリカ人グループがマサチューセツ州で奴隷開放をするよう州に請願した。(もちろん却下された)

17873:独立戦争終了

1787:アメリカ合衆国憲法が裁可される。この時、アフリカ人の奴隷制度を保つための5条項が書かれる。その中でも有名なのは「3/5句」である。それは、白人が「人間」の基準で、アフリカ人その「3/5」にしか満たないという条項である。

1793:綿繰り機が発明され、それまで非効率的で収益が少なかった綿の栽培が本格的に産業化する。それによりさらに人手の需要が上がり、奴隷制度への依存をが増す。

国土拡大から南北戦争まで

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1803:ルイジアナ買収。当時のアメリカ合衆国の国土は東海岸沿いの一部だけだった(図のターコイズ部分)。隣の紫部分「ルイジアナ」はフランス領だったが、ナポレオンがヨーロッパでの闘争を継続する資金が必要となり、ルイジアナをトーマス・ジェファーソン大統領に売却したのだ。これでアメリカは一気に国土を広げた。

1830:アンドリュー・ジャクソンが前年に大統領に就任。トランプ大統領が一番好きな大統領として名をあげるジャクソンのニックネームは「インディアン・キラー」。先住民をどんなことをしてでも排除・弾圧するという選挙中の公約が人々の心に響き、当選。ルイジアナの購買により拡大したアメリカを「開拓」するため、就任後、インディアン移住法(Indian Removal Act)という政策を調印。強制移住だけでもひどいのだが、実際は大虐殺にも繋がり、ジャクソン大統領はニックネーム通りの行動をとり、国民の期待に応えた。60,000人の先住民が殺されたこの出来事はTrail of Tears(涙の道)として知られている。この政策は後にドイツがアフリカ大陸のナミビアを植民地支配するためのモデルになる

先住民を排除し、土地を農地にする計画に伴い、アフリカ人の東から西への強制連行が始まった。結果として数え切れないほどの家族や親子が引き裂かれ、中でも反抗的と見られるアフリカ人は労働が厳しい新しい土地へ売られる。

1836:アラモの戦い(Battle of the Alamo)。当時、テキサス州をはじめとしたアメリカ西南部はまだメキシコの一部であった。しかし、アメリカ人はこの現在のテキサスに当たる地域に侵入、独占し、テキサスをメキシコから独立させるためのゲリラ活動をしていた。これに対応するためメキシコ政府は軍などを派遣し、ことを治めようとしたが、結局争いに発展する。敗北したメキシコはフロリダの最北端に位置する平行線から北をアメリカに奪われることになる。それが今のアメリカ・メキシコの国境である。現在でも「Remember the Alamo」(アラモを忘れるな)というフレーズがテキサスや南部のナショナリストなどの間で人気だが、それを言いたいのはメキシコの方だ。

そもそもなぜアメリカ人はメキシコに侵入して独占しようと思ったのか?それはManifest Destiny(マニフェスト・デスティニー)という概念にある。簡単にいうと、「アメリカ国家は神与えられた定めにより領土を広げ、民主主義と資本主義を大陸全土に広めることを許されている、そうして然るべきだ」という信条である。めちゃくちゃだが、現代のアメリカ国家の行動を見る限り、正直今でもあまりこの感覚は変わっていないのであろう。

南北戦争から19世紀末まで

1854:アメリカ人男性のジョン・ブラウンが奴隷制度廃止論者として動き出す。ハリエット・タブマンやフレドリック・ダグラスといった黒人開放運動の中心人物と協力しながら活動。ブラウンは武装勢力を以って奴隷制度を廃止することを主張していた。1856年の「流血のカンザス」事件(Bleeding Kansas)の主謀者として極刑が命じられる。

1857:ドレッド・スコット対サンフォード事件(Dred Scott Decision)。国土拡大に伴い、奴隷制度も新しい州に浸透していった。実はこの時点ですでに奴隷制度への賛成・反対で国内には緊張感状態だった。奴隷制度を禁じようとする州では「流血のカンザス事件」のように時折賛成・反対の市民の間で殺し合いになるトラブルが勃発していた。アメリカ議会もいろんな手を打っていたが、決定的な解決策がなく、頭を抱えていた。

そんな中、ドレッド・スコットというアフリカ系アメリカ人が「主人」に連れられ奴隷OKのミズーリ州から、奴隷(一応)禁止の北の州へ行った。「主人」は南部に帰ると、スコットは「自分は北上した時に自由になった」と主張し、訴訟を起こした。それが最高裁まで届いた。しかし最高裁は、今でも「最高裁史上最悪の判決」と言われることになる判決を出した。それは簡単にまとめると、1)アフリカ系アメリカ人は国民ではない、よって訴訟起こす権利がない。2)議会に奴隷制度を禁じる憲法上の権利はない

なぜこれが「最高裁史上最悪の判決」と言われるのか。実は人種差別とは関係ないのがまた悲惨なところ。それまで奴隷制度賛成・反対で南北はすでに争っていた。この判決で決着をつけようと思った最高裁の戦略とは裏腹に、これで国は一気に闘争へ向い、判決は4年後に始まる南北戦争への引金とも言われたことから「最高裁史上最悪の判決」と呼ばれている。

1861:南北戦争開始。

サウス・カロライナ州率いる11の州が合衆国脱退宣言をする。新しい同盟を「南部同盟」(Confederate States of America)と名付けた。これは近代社会初のファシスト政府の誕生であるとベントー先生は言っていた。なぜなら、南部同盟が自分たちのことを「Fascist Party」(ファシストの政党)と呼んでいたことが当時の地元の新聞で報道されている記録が残っている。

南北戦争では130,000人の黒人が北軍のために戦った。1865年の終戦までにアメリカでは100万人が命を落とすことになる。

ここでベントー先生はあることを教えてくれた。

北部は奴隷制度を廃止しようとしていたのだから、正義で、南部は奴隷制度を存続させたかったから悪ではないのか?そうでもない。リンカーン大統領だって、制度としての奴隷の廃止は望んでいたものの、黒人が白人と同等の人間だとは思っていなかった(様々な記録に残っている本人の発言からうかがえる)。南北に分かれていようが、アメリカという国家は植民地支配から始まったことに変わりはない。北は北でおかしな思想だった。簡単にまとめるとこのようになる:

北:この国は白人のものだ。白人以外は排除しなければ。
南:この国は白人のものだ。白人以外は服従させなければ。

結局のところは大した違いではない。奴隷を開放した後のことを北はどう考えていたのかが謎である。

1867:戦後再建時代。テロを起こした南部の州を再度合衆国に統合する作業が続く。開放された400万人の黒人もまだ残っていた。

豆知識:この時代に導入された公民権法には抜け穴がある。それは、奴隷制度こそは廃止されたが、犯罪の刑罰として人を奴隷にさせることは許されていた。じゃあどうなったかというと、次々とつまらないことで黒人を逮捕しては、罰として奴隷にしていた。また、このシステムは今でも生きている。それは刑務所だ。刑務所では無給同然の労働をさせられている。そして入所しているのは人口との割合で見ると圧倒的に黒人と有色人種が多い。また、「学校から刑務所パイプライン」(school to prison pipeline)という概念があるのだが、それは主に黒人の子供が通う学校などに警察や警備員を配備して、ちゃんとした生活指導の代わりにすぐ少年院や刑務所に送り、子供の未来を潰すシステムがあることから生まれた名前である。

なぜ教育の専門家でもない警察が生活指導に関わるのか。その予算を直接学校や放課後プログラムや校内カウセンラーに回すことはできないのか。最近大きく話題になっている「警察予算を削減しろ」(defund the police)運動にも関係する。警察に何でもかんでも任せればいいわけではない。警察予算も教育予算も市民の税金で賄われているのに、黒人が多く住む地域は教育より警察への予算が多い。黒人の住む地域は「犯罪が多い」とされるカラクリがここにある。

少し脱線したが、年表に戻ろう。

再建時代、憲法にも修正が加えられた。14条では出生地主義が加えられ、アメリカ国土で生まれた人間は誰でも国籍を与えられることになる。15条では黒人男性に投票権が与えられる。

ここだけ話すとなんだかいい感じに改善しているように聞こえるが、この憲法への修正や他の改革に、国民全員が喜んでいたわけではない。「我々は優等な人種で他の人種を服従させる権利を神に与えられてるのに!」と思う人も多く、言うまでもないが、大人しく新しい社会構成を受け入れるわけない。白人至上主義団体クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan、通称KKK)が誕生する。

クランは1885年までの間だけで、53,000人*の黒人を殺害する。これはリンチと呼ぶ。

(*あまりに大きな数字だったため、後日ベントー先生にもう一度確認したところ、補足してくれた。これは黒人の国会議員がFBIの操作資料やアーカイブを拝見してそこで書かれていた数字だった。報道された公式な数字ではなく、FBIがリンチだったのではと捜査してたどり着いた数字である。公衆の前で行われマスコミなどに報道された「正式」なリンチに加え、記録や証拠が残っていないが、リンチの疑いのある殺害や死体の数を入れると53,000人にのぼるのである。)

1896:「分離すれども平等」(Separate but equal)の名の下、アメリカのアパルトヘイトが本格始動する。これは通称「ジム・クロウ時代」(Jim Crow Era)という。ジム・クロウはミンストレルショーというエンターテイメントのジャンルである。ミンストレルショーは、顔を黒塗りした白人の俳優が黒人を演じ、バカにするものである。この歴史があるから、顔を黒塗りすること(ブラック・フェイス)は差別の象徴として今でも批判される。

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もうこの時点ですでに、アメリカの歴史は白人至上主義なしに語れないことがはっきりしていると思う。そして、アメリカが誇る「民主主義」の基盤であるはずの「平等」なんてまだ微塵もない。

ではメイド・イン・USAの「平等」と「民主主義」はどうやって生まれたのか?20世紀の黒人運動と活躍が鍵になる。

7月24日追記:トランプ政権は、連邦基金(フェデラル・ファンド、つまり米政府からのお金)を受け取っている教育機関がこの年表の様なアメリカ史、そして具体的には「1619プロジェクト」を教えることを禁止しする政策を現在協議・検討している、とベントー先生からお知らせがありました。詳しくはこちら

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