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英語について溺れていたことにも気づかなかったような感覚

中学校の頃からそうだった。英語を習い始めてから、教科書に出てきた表現は丸暗記していたし、それなりに回答もできていた。だが、応用となると全然だめ。

今は英語を使って仕事を行なっているし、不自由を感じることはあまりない。でも、その一方でそんなに英語力が上がった感覚もない。英語の力はリニアに上がっていくため、いい意味で茹でガエル。段々と強度、スキルが上がっていくために上達には気がつかないことが多い。その上、たびたび知らない単語やわからない表現に出会うような、つまり英語ができない経験をするために、自分はまだまだという感覚を度々感じることがある。

言語という学問はそういうもの。間違いをしないで初めからパーフェクトということはない。日本語ではそういう間違いを行いながら子供の頃を過ごし、大人になる頃にはマスターするという流れを環境の中で行なっていく。

ただ、第二言語ではそのようにはいかない。特に島国日本では近くに中国や韓国がありながら、それらの言語に日常的に接する機会はない。英語に関しても他の言語よりは触れる機会があるにしても、基本的に全く知らなくても生活ができてしまう。

知らなくても生活ができるために、普段通り生活していても英語の能力は上がらない。だから、英語を日本で学んでいくのは難しいんだ。

これは学校教育のせいじゃない。環境のせいだ。

英語ができる人は、音楽、映画、身の回りのどこかで英語に触れられる環境ができている。自ら選択しているか、自然とそうなっている場合が多い。

そこに気がついていても、多くの人は英語に触れることを好まない。僕もそうだった。英語に触れることで英語を上達することがわかっていても。英語を学んでいくことに興味もなければ必然性もなかったため、全く触れようとしなかった。

多くの人は英語に触れなくても生活できる。

だからこそ日本において英語にはチャンスがある。

そう思ったのは大学生の頃だった。



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