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躁鬱(双極性障害)の人向け 体調が良いのに毎日が楽しくないのはなぜ?

今日の内容は、双極性障害だから、というものではなく、誰にでもありえることについて書きます。

結論から言うと、毎日が楽しくないのは「価値観、考え方が固定されているから」が理由の一つだと思います。

発症し、回復していく過程で、病気を受け入れられるまでは、過去どうだったか?どうすれば戻れるのか?と以前のやり方に戻ろうとします。

葛藤の後、病気を受け入れられると、視線が未来に向きます。ただ、選択肢が目に見えているものだけ、「他の方法はないのか?」「他の場所はないのか?」とは、なかなか考えられず、受動的になります。

受動的では楽しめないと思うのです。

では、どうしたら楽しめるのか?

世の中から求められている(と思っていること)を疑ってみる。
能力や才能ってなんだっけ?と考えてみる。

これについて、先日、読んだ本「冒険の書」孫泰蔵 著を少し紹介します。

この本は、「なぜ、学校に行かなければならいのか?」という問いから始まり、教育の歴史に触れる過程で、新たな問いが生まれ、さらに探求していく物語です。

この中で印象的だったのは、かつては機械を作って性能を競い、より良い製品を生み出してきたが、現在は、「人が機械化している」というくだり。

人のスペックが比べられ、その比重が大きいので、誰もが能力向上ため頑張らなければならない社会になっている。

人間は機械が発達してきたこの200年、工場の生産システムや管理システムの一部に組み込まれて働くうちに自分たちを機械のようなものだと考えるようになった。つまり、これまでは「人間の機械化」が進んだ200年だったんだ。
そんななか、次第に人間はシステムの中でうまく機能する価値の高い存在でありたい、じゃないと社会で生き残っていけないと考えるようになった。いや、考えさせられた。

「冒険の書」

思わされて不自由になっていることって他にもたくさんあると思います。

能力は結果論であり、実体のないもの。

ただの統計上の数字に過ぎなかった「能力」がテストがくり返し行われることによって実体化してしまった。
そこからさらに「脳力さえ身につければ幸せになれる」という信仰が生まれ、人々は
「能力を身につけないとヤバい」と
恐れおののくようになった。

「冒険の書」

不安なときなどに、「(やりたいわけではないけど)何か勉強しなきゃ!」と思うのは、この辺りが影響しているのかもしれません。

社会が変われば楽しく暮らせる、と期待するのではなく、自分の心の中だけでも自由にして、興味の湧くものを手にとってみる、その繰り返しで毎日は楽しくなると思います。

この先がなんとなく明るいイメージになったらと思って書いてみたのですが、ボンヤリとしてしまって、すみません。

急速に変化していく時代に、「遊び」が重要になってくると思います。
生活・遊び・勉強・仕事が境なく混じり合うと良いのですが・・
また考えた時に書きたいと思います。

読んでいただきありがとうございました。




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